指差された水溜まりに、カゲトラは思い切り苦虫を噛み潰したかのような顔をしてナナキを見やった。
    「あのなあ……俺ぁあんまり頭よくないから、もうちょい解るように説明してくんね?」
    「物質が気体、液体、固体の三つの状態を取るのは、いくら主でも知っておるじゃろう?」
     気温や圧力など様々な条件で、多くの物質はその在り方の状態を変える。恐らく地下に溜まっていた有毒瓦斯は、地上の戦闘で発生した膨大な爆発による熱量の圧力で急激に冷やされ、気体の状態を保てなくなり液体化したのだ。
     つまり現在地下に溜まったこれらの水溜まりは、容易く人の命を奪える猛毒なのである。その成分や影響などは、元がどのようなものであったかも含めて詳しく分析しなければ解らない。しかし中には体内に入らずとも、触れただけで害を及ぼす危険極まりないものだって、少なからずあるのだ。
    「そりゃ、軍の上層部が知ったら諸手を挙げて狂喜しそうな話だな」
    「じゃから、この道は通れぬ。別の道を行こう」
    「んなもんあるとは限らねえだろ」
     言うなり、カゲトラは無事な方の片腕でナナキを肩に担ぎ上げた。無論、それでも負荷がかかる負傷部は激痛が走り、ぶわと冷や汗が全身を濡らす。
    「カゲトラ! やめぬか、主は肋をやられておるんじゃぞ! 下ろせ、自分で歩ける!」
    「じゃあ黙ってじっとしてろ。暴れんな、痛え」
     躊躇せずに歩き出すカゲトラに、ナナキはぴくりと身動ぎをやめた。襯衣(シャツ)の背中をぎゅっと掴み、
    「何でじゃ……」
    「あ?」
    「主は何でいつも身体を張って、わしを庇おうとするんじゃ……生身の人間である主の方が、わしよりずっとずっと脆くて壊れやすいくせに」
     ぬる、と靴底が滑るような粘着質なものを踏みつけた時のような感触。ナナキに気付かれないようちらりと足を上げて様子を見れば、鉄板を仕込んで強化しているはずのそれが徐々に溶け出し始めている。
     こぼれかけた舌打ちを寸前で飲み込んで、構わず歩を進めながらカゲトラは口を開いた。
    「だから余計にだろ」
    「え?」
    「部隊において最優先すべき事項は『全滅しねえこと』だ。だったら少しでも生存確率が高い奴を先へ進ませるために、殿(ケツ)持つのは俺であるべきだろ。俺の代わりはいくらでもいるが、テメーの代わりは二人といねえ。そのくらい自覚しろ」
    「嫌じゃ」
    「あ?」
    「主の代わりだって他にはおらぬ! わしの相棒は主しかおらんのじゃ、カゲトラ!!」
     思いもかけない言葉を吐かれて、カゲトラは一瞬息をし損ねた。それに気付いて己が何を口走ったのか理解したナナキは、一拍遅れて頬が熱くなったのを感じる。
    「…………そうかよ」
     顔は見えないが苦笑した気配がして、宥めるように大きな掌からぽんぽんと腰の辺りを叩かれた。
    「だったら、帰ったらまた美味い飯作れ。お前の料理嫌いじゃねえ」
    「…………うむ」
    「野郎の足の一つや二つ、義体になったところで大して変わりゃしねえさ。寧ろ臭わなくなっていいかもな」
    「馬鹿者」
     顔を隠すように身体を丸めて小さくなるナナキはそれ以上の言葉を紡がず、カゲトラの背中にぎゅっとしがみついた。
     幸いにもカゲトラの足が腐蝕しもげ落ちる前に、水溜まりの区域は抜けた。液体化したことで有毒物質の体積が急激に減ってしまったせいもあっただろうが、瓦礫の隙間を縫ってさらに地下深くへ染み出て行ってしまったのだろう。
     軍靴は駄目になってしまったが、裸足でもカゲトラは一向に気にした様子はない。
    曰く、「靴なんて窮屈なもん、部隊配属になってから初めて履いた」とかで、玖街(くがい)時代は裸足か草鞋、平民狩りに遭ってからもまともな履物など支給されたことはないらしい。若干火傷を負ったように足裏が爛れていたが、手甲下にいつも巻いている晒しで応急処置をして、そのまま地下階を進む。
    「……本当に大丈夫なのかえ?」
    「平気だっつってんだろ。それよりほら、あっち若干明るいぜ。出口近いんじゃねえの」
     カゲトラが指差した方角は、確かに仄かにぼんやりとではあったが明かりが灯っている。瓦斯(ガス)灯とは違う青白いそれは、人工的で幾ばくかの不安を煽る色をしていたが、それでも指針一つもない暗闇よりは大分ましだった。
     それにしてもこの辺りは一際損傷が激しい。全て綺麗に薙ぎ払われたようにぽかりと空間が広がっているから、爆発の中心であったのかと思えるほどだ。
     が、見えていた明かりが近付き大きくなるに連れ、周辺がやたらと無機質な雰囲気を放っているのに気付く。
     それは、竜鉄鋼を始めとする資源鉱石を掘り起こすための施設ではない。もっと別の――病院や研究施設に似た、無慈悲で渇いた無機質さだ。生命の息吹の欠片もない、冷たい残酷さを放つ空気だ。
     それを肌で感じ取った瞬間、ナナキは己の中で魔神兵装(ましんへいそう)がざわつくのを理解した。
    ――ああ、そうか……ここは……
     辛うじて残っていた扉を用心しながら開けてみる。そこに広がるのは書斎のような部屋だった。
     書類や分厚い書物が乱雑に山積みされた机、寝るためだけの簡易寝台、珍しい電気性の携帯灯。書きかけの論文記述が置きっ放しにされたこの部屋は、間違いなく丸眼鏡の男が最近まで使っていたに違いなかった。


    →続く