遠くから地面を伝って聞こえて来る足音の中でも、逸早く覚えたのは彼女のものだった。ゆっくりめの歩調、軽やかな体重移動、そして次第に近付いて来る穏やかな鼻歌。
     運ばれる食事の匂いよりも、優しく甘やかな彼女の匂いの方が先に鼻先をくすぐる。
     南京錠に鍵が差し込まれて頑丈な鎖と枷が外される音、続いてきぃ、と古びた扉が耳障りに軋んで開く。暗闇の中に一条の光が差し、もう一度鍵の音が聞こえ、柔らかな声が投げかけられる。
    「閃光(ひかり)、起きてる? 朝ご飯、持って来たよ」
     そっと背中を揺する手。
     意識はとっくの昔に目を覚ましているのだが、そうして構われたいがためにいつも閃光は先に起きたりなどしない。恰かも彼女の声で初めて覚醒したかのように、のろのろと身体を起こす。
    「ん…………おはよう、まほろ」
    「おはよう。昨日は寒くなかった? その分今日はいいお天気だけど……少し扉開けて、空気入れ換えようね」
    「…………ん」
     畳二枚とシャワーとトイレのみの息が詰まりそうな檻の中。向こうとこちらを絶対的に隔てる頑丈な鉄格子。飼われる者生かされている者と、飼っている者生かしてやっている者との、距離と立場の違いを明確にするために引かれた境界線だ。
     それでも以前はただの土蔵だったこの空間にそのままぶち込まれそうだったのを、彼女が何度も提言してくれたおかげで、精々独房レベルには生活水準が保たれるようになった。
     物心つく前はそれでも何も感じなかったが、成長するに連れて身体が大きくなれば、それだけ不便と不自由を感じることは多くなって来た。あと何年堪えられるのか、それとも身体が成長を止めてしまうのかは解らない。
    「今日は、閃光の好きな大根と油揚げのお味噌汁だよ。お魚の開きもね、お隣の方が分けてくれたの」
     用意された膳にはその他にも、ふわふわの出汁巻き玉子やきんぴらごぼうと菜っ葉のお浸しに、ほこほこと湯気が立ち上る炊きたてのご飯が乗せられていて、ぐうう、と腹の虫が歓喜の声を上げる。
    「ほら、着替えて顔洗って。寝間着洗濯しなきゃ。シーツも替えた方がいいわね」
     朝が弱い閃光自身に変わっててきぱきとあれこれ世話を焼くのは、五つ半上のこの姉の性分だ。彼女はいつも通り学校の制服をきちんと纏って身なりを整えているから、仕度はすっかり終わっているのだろう。
     もそもそと半分寝たような顔でご飯を食べるこちらを、にこにこと屈託のない笑顔で見つめてから、まほろは続けてバスケットを差し出した。
    「閃光、こっちがお昼ね。お握り、今はいろんなレシピがあってね。美味しそうだなあ、って思って、冷めてもあんまり味が変わらなさそうなの選んで作ってみたから。本当は温かい方が美味しいんだろうけど……」
    「うん、ありがとうまほろ」
    「それからこっちがお茶で、こっちはお吸い物だから間違えないようにね」
    「解った」
     閃光がこくん、と頷いたのを確認してから、まほろは立ち上がった。背中まである長い黒髪とスカートの裾が翻るのが、毎日見ているはずなのに眩しい。けれどいつも朗らかで優しい笑顔の姉は、この時だけいくらかそこに憂いを滲ませる。
    「それじゃあ、行って来ます。いい子で待っててね、閃光」
    「行ってらっしゃい。気をつけて」
     それは多分、弟をこの場に残して行くことの異常さを自覚している心苦しさと、自分だけが外へ戻ることの出来る後ろめたさだ。彼女がそんなことを感じる必要など、微塵もないと言うのに。
     けれど、またこの暗がりの闇にたった独り置いて行かれる寂しさと心許なさだけは、どれだけ繰り返しても慣れることはなく、閃光の心をゆったりと蝕む。
     こうして今日もまた、長い長い空虚な一日が始まるのだ――


    * * *


    →続く