半ば以上その正体を本能的に察して理解しながらも、閃光はそれを否定したいがためにゆっくりと近付いた。まるで引き寄せられるように強烈な何かに絡め取られて、頭では嫌だと思うのに足が勝手にそちらに進む。
     距離が縮まるに連れ、次第に明らかになる詳細。
     憧れ愛してやまない艶やかな長い黒髪が千々に乱れて地面に広がり、血の気の失せた紙のように白い頬に濡れて張りついている。何度も触れて重ねた口唇の端からは溢れた血が滴り彼女を汚していて、くるくるとよく表情の変わる長い睫毛に縁取られた黒瞳は、すっかりその光を失ってどこともしれない虚空を見つめたまま動かない。
    「まほろ」
     それでも見分けもつかないほど損傷の激しい他の遺骸に比べれば、随分綺麗に残っているのだろう。作り物の人形のように現実感を伴わないまほろの首へゆっくりと手を伸ばした閃光は、一度直前で触れるのを躊躇うように手を止めたものの、唯一残された最愛の彼女の成れの果てを優しく持ち上げた。
     知っている温もりも柔らかさも、当に失われたその頬を汚す血と泥を丁寧に拭う。
    「まほろ」
     まほろは何も言わなかった。
     その目で責めるでもなく、獣と化した醜い手を恨むでも憎むでもなく。
     伝った雨粒が、双眸の端からまるで涙のようにこぼれ落ちる。否、それは己がこぼしてしまった涙なのだと理解して、閃光は己の身勝手さに反吐が出そうだった。
    「……まほろ……何、で」
     守りたかったはずだった。
     いつでも笑っていて欲しい人だった。
     その全てを自分の手で粉々にしておいて、置いてきぼりにされたような、この世界にたった独りで取り残されたような、絶望的な孤独と虚無感に押し潰されそうになるなんて、筋違いもいいところだ。
    ――何でいつも死ぬのは俺じゃない……
     込み上げて来る感情を抑え切れず、閃光はまほろを抱き締めたまま、声にはならない慟哭の叫びを上げた。誰に届くこともない咆哮を、雨音に掻き消されることのない魂の嘆きを――


    * * *


     それから――
     とある地方の山間部で起きたその大規模火災は、丸二晩燃え続けたにも関わらず大々的なニュースとして取り扱われることはなかった。村が一つ焼失し、たくさんの犠牲が出たことも、そこが便宜上ではなく文字通り地図から姿を消したことも報じられず、一部オカルト好きなネットユーザーたちが一時騒ぎはしたものの、数日後には誰からも忘れ去られた。
     そしてそれから逃れた閃光は、一体どこをどのように彷徨って、どういう風に過ごしたのか、しばらくの間出来事と記憶が全て曖昧だ。
     人を傷つけることを恐れ、
     人から傷つけられることを恐れ、
     牙を剥き、毛を逆立てて、闇に身を隠して生きて来た。懺悔しながら、憎悪しながら、宛もなく歩き続けた。
     何故死んだのが自分ではなかったのだと見えない何かを呪いながら、全てを失い何も持たない子供が、独りで厳し過ぎる世界を生き抜いて行くためには、奪って奪って奪い取って己の分を手に入れるしかなかった。
     数年後――一人の恩人に出逢うまで、閃光は名もなき獣としてやがて裏社会を震え上がらせることになる。



    以上、完。