気づいた時には会場を飛び出していた。
     すぐさま背後から撃たれなかったのは、ただ単に見逃してくれた――闇雲に探すよりも、泳がせて閃光を食いつかせた方がよいと踏まれたからに違いない。
     残った人々が気にならなかった訳ではないが、あの場には李伯龍本人もいた。彼を守るために黒服たちは交戦するはずだ。よもや中華帝国の裏社会を背負って立つ男が、自慢の展示会を無茶苦茶にされたままで、黙って踵を返して逃げるような無様は晒すまい。面子と矜持が何より大事なのはどこも同じだ。曲がりなりにも文保局員だっている。ウォルフがこちらを追って来て彼らを相手にしなければ、ただの人間同士なら全員死亡はしない、と信じるしかない。
    ――閃光は……多分知らない……
     自分の邪魔をしようとした男たちが〈神の見えざる左手〉であることを、たかが数秒の交錯で気づいただろうか? 必要以上に現場に留まらない――いい意味でプロの仕事に徹する彼が、獲物の他に意識を分散させていたとは思えない。
    ――逃げてって言うべき? ううん、それより香炉を……
     宛てがあった訳ではない。直感に任せて狭い廊下を走っているだけだ。けれどあの時だって、初めての邂逅の時だってそれで彼に追いつけた。あとは強盗団に見つからないよう祈るだけだ。
     が――
    「むがもご…………っんんん――っ!!」
     突如背後から伸びて来た掌がミツキの口を覆い、その身体を細い通路に引き摺り込む。容赦ない力で押さえ込まれ、恐怖と混乱で瞬く間に思考が停止した。
     例えどんなに訓練を積んでいようが、日常でこんな危機的状況に身を置いている訳ではないミツキには、瞬時に咄嗟の判断は出来ず、躊躇した分だけ死への距離が近くなる。夢中でもがいて抵抗しようとするものの、拘束する何者かの手はびくともしなかった。
    ――殺されちゃう……誰か……助けて、閃光!!
    「うるせえ、静かにしろ」
     しかし耳元に落とされた声は誰であろう、当の閃光本人のものだった。
     潜めていても不思議とはっきり届く低音は、こちらが静かになると同時に小さく舌打ちをこぼす。僅か腕を緩めてくれながら、いつの間にかいつもの服装に戻っていた彼は、
    「だから逃げろって忠告しただろうが、この馬鹿。何一人でふらふら歩いてやがる」
    「まさかあんな、ウォルフ一味が襲撃して来るなんてそんなこと思わないじゃない!! それより香炉!! 盗ったの貴方でしょ!? ちょ……っ、出しなさい!!」
    「おい……っ、離せよ触んな! 苦労して盗って来たの俺だぞ!」
    「そもそも盗るのが駄目なんでしょ! 私が確保して持ち帰るわ! 現行犯逮捕よ!」
     ぐいと伸び上がって手を伸ばすミツキは、牙を剥いたこちらにお構いなどなしにあちこちを探り出す。ポケットをまさぐったり、どこに仕込んだのかと言わんばかりに小さな手が身体の上を這う度に、くすぐったさとぞわぞわした嫌悪感とは違う何かが脊髄を駆け上がって来る。
    「馬鹿、まだ近くに誰かいるかも知れねえんだから大人しくしてろ!」
     ぐいと小さな手を引き剥がして、はたと気づく。
    「ちょっと待て……お前、今何て言った?」
    「『現行犯逮捕よ』?」
    「違う、その前。ウォルフ・キングスフィールドがこの船に乗ってるのか!? あの乱入者たち、あいつの部下かよ」
    「え……ええ。やっぱり気づいてなかったのね」
     あの場にいたのが先日鉢合わせたアレン・パーカーであったのなら、まだ閃光の目に留まったことだろう。が、ウォルフの片腕として常に前線で指揮を執り続けて来た彼の姿は、今回まだ見つけられていない。
     どこかに潜んでいるのか、巨大化し続ける組織において別の任務を負っているのか――
     閃光は舌打ちをこぼすと、どこかに仕込んでいるらしい通信機に告げる。
    「おい、ロキ。聞こえたな? そっちはもういい。今すぐ退くぞ」
    「ちょ……ちょっと、このまま逃げるつもり!?」
    「もうこの船に用はねえ。仕事は終わった。お前もさっさとパラシュートか何か探して逃げろ。他人に構ってたら死ぬぞ」
    「ウォルフはこの船の金品全部強奪する気なのよ!? 無関係の人みんな殺して!!」
     ぎゅっとジャケットを掴んで引き留めようとしたものの、閃光は濃いサングラスの向こうで双眸を細めたようだった。その気配は相変わらず鋭い。
    「だから何だよ? 勘違いするな。俺は正義のヒーローじゃねえんだよ。あいつを止める義務なんかねえ」
    「そ、そりゃあそうかもしれないけど……! 何とも思わない訳!?」
    「……勝算があるなら吹っかけもするがな……お前、あいつら国の軍警備も蹴散らして獲物を強奪して行くテロリストだぞ? どうやって誰も死なせずにぶちのめすつもりだ」
    「それ、は……」
     ミツキにだって、具体的な算段がある訳ではない。
     確かに何の提案もせずに要望だけ押し通そうとするのは、我ながら偽善だとは思ったが、それでも閃光なら何かしらのアイディアを出してくれるのではないかと思ったのだ。それも他力本願だと言われてしまえばそれまでなのだが、彼は――己の目の前で人が死ぬことを是とはしないはずだと、そう虫のいいことを考えていた。
     伏せられた視線に僅か溜息を吐いて、閃光は懐から取り出した煙草をくわえて火をつけた。きつい言い方だったと思ったのか幾分柔らかな口調で、
    「確実に根回しして周到に準備して手筈を整えて、それでもそれごとぶち壊して欲しいもの盗りに来る連中だぞ。狙われたのは運が悪いとしか言えねえ」
    「…………」
    「そもそもお前の理屈で言うなら、所持が禁止された〈魔晶石〉を持ってる方が悪いんだろう? それに群がって来た蛾みたいな奴らに、何でそこまで肩入れしてやる必要がある? 文保局員だからか?」
    「それは……」
     刹那、閃光の鋭敏な嗅覚が空気の凍りつく匂いを嗅ぎ取った。
     瞬く間もなく両サイドの壁が凍りつき、澄んだ金属音が鼓膜を叩いたと同時に、いとも容易く斬り裂かれた壁が、がらがらと音を立てて崩壊する。
    「…………っ!!」
     ダイヤモンドダストのように粉々になった破片がキラキラと舞う向こう側に立っているのは、無論この船で最も危険で最も過激な男だった。
     例えその邂逅がただの一度――それも刹那の僅かな時間であったとしても、見間違えようはずがない。己に顕現した獣を誇示するようにゆっくりと、相変わらず自信に満ちた優雅な足取りで、振るった〈遺産〉の刀細雪をそのままに、ウォルフ・キングスフィールドは閃光へと向き直った。
    「やあ、また逢ったね、閃光……たった一人の我が同胞」


    →続く