窓から差し込む朝日をセンサーが感知すると、ロキはスリープモードから自動で通常モードへ移行して起動する。眠る、と言うと語弊があるのだが、少しの違いがあれどやはり〈魔導人形〉にも休息は必要だ。日中で溜め込んだログデータの解析整理が必要だし、負荷をかけ続けるのは回路にとってもよい状態とは言えない。
     人間と同様に閉じていた瞼を一度瞬きすると、ベッドから起き上がりカーテンを開いた。
     宵闇の群青からゆっくりと白んだ空が、金色の光を帯びて夜の気配を振り払い、街も徐々に己の色を取り戻して行く時間帯――遠くで既に流れている車やバイクのエンジン音、少しずつ聞こえ始める人々の生活の息吹。
     身支度を整えて自らに与えられた部屋を出ると、珍しく居間のソファーには電子端末と睨めっこをしている主人、天狼閃光の姿があった。昨夜調べ物がある、と言っていたように記憶しているが、そのままずっと仕事をしていたのだろうか?
    「おはようございます、閃光。徹夜されたんですか?」
    「…………ああ、もうちょいキリがよくなったら、一端寝る」
    「じゃあ、コーヒーでも淹れますね。ご飯はどうされますか?」
    「何か軽く適当に」
    「承知しました」
     ヤカンを火にかけてお湯を沸かしながら、ロキは食パンをトースターにセットした。いつもならいかに寝起きが悪くとも食事はしっかり摂る閃光であるが、これから寝ることを考えるならそうそう重たいものは食べないだろう。合わせるのはベーコンエッグとサラダ、オレンジ。
     手早くそれらを皿に盛りつけて運ぶと、閃光は端末を脇に避けて、立ち上がったホログラフィーの画面を視界の端に収めながら、手渡されたマグカップに口をつけた。
    「今度の目標物、そんなに厄介なものなんですか? いつもなら、スワロウテイルに任せてそれきりでしょう?」
    「ああ……『胡蝶の夢』の資料ならもう貰った。相手も長らく裏社会を牛耳って来た一族とは言え、一般人だからな。油断しなきゃ大した脅威にはならねえさ。問題は、そんなことじゃあねえんだよ」
     トーストを齧りながら行儀悪く、閃光は端末のキーをいくつか叩いて大きく資料を展開してみせる。それは禁書として〈世界政府〉がかつて闇に葬ったはずの〈魔晶石〉に関する研究書の抜粋文書だった。
     戦後間もなく起こった〈文化改革〉の際、処分されたのは無論、〈魔晶石〉そのものだけではない。
    その加工技術に関するものから献体データ、作業に携わる工場の登記諸々細部に至るまで、メモ用紙すら残さないように記述一文に至るまで徹底的に焼き払われたのだ。メモリーデバイスも根刮ぎ摘発されたと言われていたが、それらを電脳空間のアーカイブに誰かが残していたとすれば、完全に消去してしまうことは恐らく不可能だった。
     今閃光の手元にあるのも、そうしたものをスワロウテイルがサルベージして来た代物に違いない。
    「俺は……〈魔晶石〉の根幹的な部分について、あまりにも知らなさ過ぎる。今まではどうせ全部葬るものなんだから、それでいいと思ってた。それで充分だと思ってた」
     より正直に言うならば、己に刻まれたこの呪わしい力のことを知りたくなかった、と言うのが正確なところなのだろうと思う。真実へ手を伸ばしてしまえば、もう引き返すことは戻ることは出来ないだろうと、本能的に閃光は知っているからだ。
     〈魔法術〉の術式の仕組み、行使の仕方は知っている。数多の類似模造品に潜まされた本物の見分け方も、ざっとした歴史や葬られた経緯や数々の逸話も。
     けれどそれはあくまでも表層部分だけだ。世界を書き換えるほどのエネルギー、生命の元素そのものを、それを一大文明に築き上げた〈魔女〉のことを、閃光はこれまで極力耳目に晒すまいと努めて来た。
    「でもそれじゃあ足りねえんだよ。このままじゃ勝てねえんだ……あいつらにも、自分自身にも」
     向き合って、理解して、その上で超えて行かねば、到底追いつけない。日に日に脅威を増して行くウォルフの存在を、無視していられる段階は当に過ぎた。
    「それは多分……きっと向こうも、そう考えているんでしょうね。分が悪い」
    「……別に不思議でもねえだろう? スワロウテイルのモットーは『全ての情報はその名の下に平等でなければならない』だからな……俺の情報をあいつに売ることだってあるだろうさ。俺があいつの情報を買ったのと同じように」
     それを狡いだとか何だとか、文句を言える立場ではないのだ。お互いに。より多くの情報を掴み、より速く動いた方が勝つ。いつだって裏の世界はそうした凌ぎの削り合いで出来ている。
     彼の過去を出自を知ったからと言って、何か変わる訳ではない。ただ己と全く同じように見えて、決して完全一致とは言えないその能力の差異について、何か手がかりでも掴めればいいと――そう、思っただけで彼個人に興味があるのではないが。
    「だからお前も、何か耳にすることがあれば些細でも構わねえ。知らせてくれ」
    「解りました。それとなく探してみます」
    「くれぐれも無茶はすんなよ? 足着くようなことになったらそれこそ面倒だ」
    「はい」
     皿を空にしてしまうと、閃光は端末の電源も落としてネクタイを外した。寝室へ向かいながら、
    「二時間後に起こしてくれ」
    「了解です。おやすみなさい」
     穏やかな相方の声に押されて、そのままベッドに倒れ込む。
    ――本当は……
     最初に見るべき資料を後回しにした。己の根源である天狼家の歴史、成り立ち。そもそもどうして、いつから、その血が獣の呪いに侵されたのか――その全ての始まりを、元凶を。一番知りたくはないことを知らなければ、前になど進めない。
     あの時全て破壊し焼き尽くして、灰も残さず跡形なくなるまで消してしまったはずだったのに、それでもこうして辿れることがありがたい反面、悍ましくて堪らなかった。疎ましくて堪らなかった。未だに全身に見えない鎖が枷が絡みついているようで。つき纏うその気配を断ち切らなければ、何も変わらない。変えられない。
     先日炎の向こうに消えた怪人に大見得を切った手前、逃げる訳にも行かなかった。
     全てを終わらせるためには向き合い、知らねばならないことが山ほどある。
    『大丈夫……閃光は閃光のままでいいんだよ』
    ――まほろ……
     今もまだ耳の奥に残る柔らかな声。
     優しいそれに導かれるようにして、閃光の意識は眠りに落ちた。


    →続く