けたたましい勢いで警報が鳴り響く。
     あちこちでそれが反響して赤いライトがくるくると回転しているせいで、駐屯地の中は完全な混乱状態にあった。一体何が起こっているのか、どれくらいの人数が正確なところを把握出来ていただろう?
     何者かが侵入を果たし、襲撃を受けたと上層部に報告が届いた頃には、既にタンク戦車五台とヘリ二機、偵察機三機が走行不可能な状態に潰されてしまっていた。
     訓練を受け、不足の事態に対応すべく日夜警戒を怠っていないはずのこの基地ですら、気づいた時には既に足元の磐石を、かなり深くまで抉り取られているーーその電光石火な手口と規模は、運の悪いことに前代未聞だった。
    「貴様らは一体何をやっていた!?」
     駐屯地司令官であるバラバノフが怒声と共に拳を机に振り下ろすのと同時、ノックもせずに通信官が真っ青な顔で飛び込んで来た。
    「司令官、大変です! 緊急事態です!!」
    「許可なく入るな馬鹿者!! 緊急なのは解っている!」
    「たった今、警察本部から連絡がありまして、ヴァインベルグ邸が襲撃されたと、素性不明の一般市民から通報が入ったそうです!!」
    「何だと!?」
     あまりの衝撃に思考が停止しそうになる。彼がセルゲイ・チェルノフ中佐に命じた特殊任務は、そのもの自体が外部に知られた時点で、失敗を意味するほど重要かつ秘密裏の作戦だった。
     近隣の家、とは言っても数メートル離れたところに、耳の遠い老夫婦が住んでいるくらいなものだった故に、油断したのだろうか?
    「救急を伴って現場に駆けつけたところ、女性と『半分獣化した奇妙な』子供一名、陸軍隊服を纏った数名の惨殺死体を発見、直ちに所属確認と詳細を連絡されたし、と……」
     指示を出さなければならないのに、いろいろ問い質さねばならないのに、言葉が出て来ない。
     特別な訓練で優秀な成績を修めた、腕利きばかりで構成された部隊のはずだ。任務のためには非情な手段も躊躇せず、個人的感情に流されず、国の安全と利害を第一に考えて行動し、そのためには殉死も厭わないーーそんなエリート揃いの部隊が任務を失敗したと言うのか。
     数名の死者、と言うことは生き残りは多数いるのだろうに、未だ何の報告もないのは一体どう言う状況なのか。
     オルゲルト・ヴァインベルグの身柄を押さえた以上、あの場にそんな戦闘能力を持つ者などいたはずがない。
     とすれば、どこかから情報が漏れていた?
    ーーいや、
    「待て、今貴様『子供一名』と言ったか? 奴の息子は双子だったろう、もう一人は……」
     瞬間、
    「ここにいるよ」
     通信官の体躯をぶち割るようにして、氷結の徒花が咲いた。蒼く銀色に輝く光の粒を感じるよりも、確固たる意思を持って破壊された人体の残骸を頭から被るはめになったバラバノフの前に、小柄な人影が姿を表した。
     白銀の毛並みに紫暗の双眸ーー獣を宿したオルゲルトの息子、ラスカー・ヴァインベルグ。
    「な…………」
     報告では〈魔法術〉の制御の正確性、緻密さこそ抜きん出ているものの、気が優しく実戦には不向き、とのことではなかったか。他人に対してその凄まじい能力を遺憾なく発揮出来ないが故に、確か上層部からの決定では、戦士として育成するよりも、後継生物兵器〈合成獣(キメラ)〉完成のための検体とすると通達が来ていたはずだ。
     その少年が何故、ここに返り血まみれで立っているのか。
    「おじさんがここで一番偉い人? ねえ、あと何人くらいいるかな? 今日いない人もいるよね? 名簿とかあるの?」
     ラスカー、否ウォルフが一歩踏み出した刹那、銃声が轟いた。その爪先数センチ手前に穿たれた弾丸が、ゆっくりと硝煙を上げる。
    「…………」
    「動くな。どうして無傷ですんだかは知らんが、痛い思いをしたくなかったら、両手を挙げてその場にひざまずけ」
    「馬鹿だなぁ」
     うっすらと子供らしからぬ嘲笑が、ウォルフの口唇を三日月型に歪める。
     つい先程まで彼がこんな嗤い方をしたことがない少年であったことを、誰かに悪意や敵意や殺意を覚えたことがない無垢であったことを、自分たちが追い詰め叩き壊して堕としてしまったことを、バラバノフは一生知ることなどないだろう。
     剣呑な狂気を湛えた双眸を僅かに細め、ウォルフは何の予備動作も見せずに〈魔法術〉を展開した。蒼い光が室内で弾け、瞬きすら許さない速度で、気づいた時には既に司令官の身体は肩口まで氷漬けにされている。
    「そんなことしても、僕は貴方を殺せる」
    「ひ…………ぃ、っ」
     〈魔法術〉がどう言うものか、バラバノフは具体的に知識がある訳ではない。どれくらいの規模でどんなことが出来るのか、それが兵器として役に立つのか否か。彼にとって必要なのはそれだけだ。
     だからみしみしと軋んだ音を立てながら、氷が己が肉体に牙を立て食い込んで来るこの異常事態も、男の理解出来る範疇を越えていた。
     が、ウォルフはまだ子供で、家族以外とはろくに関わりを持ったことのない世間知らずだ。言葉巧みに懐柔して言いくるめ、思い直させることは、そう難しくないはずだった。
    「貴っ様……正気か!? この行為は立派な国家反逆罪だぞ!! 例えここを潰したとしても、国家の威信に懸けて、ロシアーヌ連邦は貴様を追うだろう……そんなことを、貴様の父が、ヴァインベルグ中佐が望んでいると思うのか!? 大人しく我々に従い、今まで通り飼われていた方が……」
     パリパリと〈魔法術〉発動の名残の蒼い光を腕に纏いながら司令官の言葉に耳を傾けていたウォルフは、しばらくじっとその顔を見つめていたものの、やがてくすくすと声を押し殺して嗤い出した。
    「いつだったか、父上が言ってた。僕たちのこの獣、狼と同じなんだって」
     そうした鋭さよりは甘さの方が際立つ顔立ちをしている少年は、しかしどの刃の切っ先よりも尖った怒りをその双眸に湛えている。
    「狼はね、何より一等家族を大事にする生き物なんだって。僕もね、家族以上に大事なものなんて、ない。だから」
     バラバノフの目には見えない。
     周囲のマナが収束して術式を形取り、世界を書き換え変貌させていく様を。
    「だから僕の家族を奪ったお前たちを、僕は決して許さない。軽々しく父上のことを口にするなよ。国が何だ? 世界がどうした? そんなもの一つ残らずこの手で壊す。僕が、この手で、この世界を終わらせる。誰より何より強くなって、みんなの仇を討つ。そのためなら僕は、喜んで世界の敵に回るよ」
     ピキ、パシ、と空気が凍え、凍りついて行く音。もはや感覚がなくなってしまっただろう身体では、氷結が肌を食い破る痛みも、細胞が壊死する苦しみも味合わせてやれないことが残念で堪らない。
     両親やユーリが刻まれた苦痛はこんなものではすまなかった。
     少しずつ上昇して行く氷に、耳障りな汚い悲鳴が上がる。ついに言葉として意味をなさない雑音しか発せなくなったバラバノフは、呼吸する度に肺の中へダイヤモンドダスト化したマナと氷の粒の結晶を取り込んでいることに気づいているだろうか?
     ゆっくりと口角を上げて、嗤う。
     嗤え。
     自分たちの絶対的な正しさと優位を信じてやまない、愚かな屑共を。
     嗤え。
     無力で怯えて尻込みしたばかりに大切なもの全てを失った、己の愚かさを。
     全てここで捨てて行け。
     埋めて葬り殺してしまえ。
     二度と泣かないよう、後悔せぬよう、ラスカー・ヴァインベルグも今日死ぬのだ。
     目映い蒼が夜の闇を塗り替える。紅蓮の炎など取るに足らない、と言わんばかりに鮮やかに。


    * * *


    →続く