「それでは、次のニュースです」
     オルゲルトが出勤するまでつけられている報道番組は、堅苦しくて面白くなくていつも気にかけたことはない。本当は子供向けのアニメチャンネルだとか、エンタメ系のバラエティーが観たいのに、と口を尖らせるユーリの意見に、ラスカーも概ね賛成である。
     けれど、ニュースはこれが一番早くて正確なのだと言う父親は、直接触れられないからこそ世の中の流れを知らなければならない、と変えてくれた試しはなかった。
     故に双子はテレビ画面よりも、アリョーナが用意してくれた朝御飯に釘付けになっていることが殆んどだ。
     今朝はポトフにベーコンエッグ、瑞々しいリンゴが並んでいる。焼き立てのトーストにジャムとバターをたっぷり塗って噛みついたのと、女性アナウンサーの無機質な声が耳に飛び込んで来たのは、ほぼ同時だった。
    「一昨日、ショッピングモールで行方不明になっていたナターリヤ・ボージナさん七十二歳が、今朝セム川で遺体となって発見されました。持ち物の類いは一切なく、銃で撃たれた傷が複数あったことから、警察は強盗殺人と見ており……」
     普段なら聞き流して気にも止めなかっただろう。しかし、何気なく上げた視線の先にあった被害者の顔写真を見た瞬間、ラスカーは飲み込み損ねたトーストの欠片を喉に詰まらせて、思わず息が止まりそうになった。
     そこに映っていたのは、何と先日山中で鉢合わせした老婦人だったのである。
     向かいの席でユーリもポトフを噴き出して、ベーコンエッグをぐちゃぐちゃにしてしまっているところだった。
     幸いオルゲルトは着替えに寝室へ行っていたし、アリョーナはカウンターの向こうで食器を洗いながら「嫌ね、近いじゃない……物騒だわ」なんてしかめっ面をしていたおかげで、二人の様子がおかしなことには気づかなかったらしいが、双子は互いを探り合うように視線を交わした。
    「ユーリ……」
    「うん、あのお婆ちゃんだ……」
    「殺されたって、一体どう言う……」
    「ラスカー、ストップ。滅多なこと言っちゃ駄目だよ」
     けれど、口にせずとも二人の胸に沸いた思いは一つ、同じであったことだろう。即ち、老婦人は軍部の意向で消されてしまったのではあるまいか。勿論、そんな証拠などどこにもなかったし、本当にただの強盗殺人なのかもしれない。
     彼女が口外していなければ、あの辺りには監視カメラや赤外線感知器などもなかったから、双子と接触したことは誰にも知られていないはずだ。
     そう、彼女さえ喋っていなければ。
    「とにかく黙ってよう、僕らは何も知らない」
    「そうだね……それが一番いいよね」
     目立たず騒がず、何事もなかったように振る舞わなければ。
    「アリョーナ、スカーフが見当たらないんだが」
    「ごめんなさい、こっちにアイロンかけてあるわ」
     オルゲルトの支度を手伝いに、アリョーナはパタパタとスリッパの音を立てながら寝室へ向かう。その姿が見えなくなったのを確認してから、ラスカーは急いでリモコンを手に取り、テレビのチャンネルを変えた。
     情報を得るよりも、動揺を悟られない方が先決だ。
     そうして、はたと。
     重大な出来事に気づいて、慌てて席を立った。ユーリから訝しんだような問いが投げられるが、答えている暇はない。
    ーーもし……
     軍部が双子の存在を、世間に知られたことを把握していたとしたら。それよりもっと目立つ風貌の父は、一体どうなるのか。
     それでなくとも最近オルゲルトは、二人を一般の学校へ通わせたいと上部にかけ合っていると言う。
     そのことを面白く思わないーーもっと直接的な物言いをするのなら、疎んで邪魔に思っている連中からすれば、今度の自分たちの失態は、大好きな父への更なる枷となりはしないか。
     ダイニングを飛び出すと、ちょうど支度を整えたオルゲルトが玄関に向かうところに鉢合わせる。
    「父上、今日はお休みして!!」
     あまり声を荒げることも慌てて駆け回ったりすることもない息子の剣幕に、父は少しばかりたじろいだようだった。
    「どうした、ラスカー? 急用か?」
    「……そ、そうだよ! だから、今日はお休みして!」
    「そうは言っても、司令官直々のお話があるとのことだったしな……それって、明日じゃ駄目なのか?」
    「駄目! って言うか、明日も明後日もその次も、ずーっと駄目!」
    「それじゃあクビになってしまうよ。母さんのご飯、食べられなくなるぞ」
     苦笑するオルゲルトに、背後からアリョーナも困ったように笑いながら言う。
    「さっき近所で殺人事件があったなんてニュースを見たから、心配なのよねラスカー」
    「はは、お前は優しいな。心配いらんさ、ラスカー……行って来る」
     父の大きな掌が、ふわりと優しくラスカーの頭を撫でてかいぐり回し、柔らかな白銀をくしゃくしゃにする。
    「すぐに戻るよ」
    「す……すぐってどのくらい!? 十分!?」
     何故か途方もない焦燥に駆られて、ブーツを履くオルゲルトの袖を引いた。
     自分でもどうしてだか解らない。
     今まで自分の意見や我が儘を殆んど主張したことがないラスカーにとって、父を煩わせるような真似をしたのは、記憶にある限りこれが初めてだ。それでも理由なき虫の知らせとも呼べるその本能は、彼を行かせてはならないと声高に叫んでいる。
     そんなこちらの様子をとんだ甘えただとでも思ったのか、オルゲルトは照れ臭そうな困ったような笑みを浮かべて、一つウインクを投げて寄越した。
    「本部まで車で出向くんだ。いくら父さんでも十分じゃ無理だな」
    「どうしたの、ラスカー。いつものお仕事じゃない、夕飯までには戻るわよ」
     アリョーナがさりげない仕草で、窘めるように息子の肩を捕まえる。そのままラスカーが邪魔をしないようにと言うよりは、安心させるようにぎゅっと抱き締められた。
    「寂しいならお土産でも頼めば? 父上、僕はメドヴィクがいいな」
     騒ぎを聞きつけたのか、ダイニングから顔を出してちゃっかり自分の好物を所望するユーリが纏わりつくのを適当にあしらいながら、父はゆっくりとラスカーに向き直った。
     同じ目線の高さにしゃがみ込み、まだ細い肩に手を置く。静かな低音で、
    「ラスカー、父さんが戻るまで母さんとユーリを頼むぞ。お前がお兄ちゃんなんだからな……しっかり二人を守ってくれ」
     瞬間、生臭いーー血が腐りついたような怖気のする臭いがラスカーの鼻腔を突いた。思わず気圧されるようにすん、と鼻を鳴らした次の瞬間にはもう、気のせいか夢かと思うほどあっさりと霧散してしまっていたけれど。
    ーーきっと、気のせいだ……大丈夫……何もないよ、考え過ぎ……
     真っ直ぐに注がれる暖かな灰色の双眸。
    「……うん」
     頷いた己の紫水晶は、ちゃんと逸らさず逃げずにオルゲルトを見つめられた。それに満足したのか、父はもう一度ラスカーの頭を撫でた。
    「いい子だ」
     立ち上がり、ユーリの頭も同じように撫でて、オルゲルトはアリョーナを抱き寄せそっと頬にキスを落とした。
    「行って来る」
    「行ってらっしゃい、貴方。気をつけてね」
     それが家族揃って交わした最後のやり取りになった。


    * * *


    →続く