昼前に出て行ったオルゲルトは、日が暮れ夕飯が終わっても一向に戻って来る気配はなかった。起きて待っている、と駄々を捏ねはしたものの、風呂もすませパジャマに着替えてしまうと、さすがに瞼が重い。
ラスカーの心配は募る一方だったが、正直なところ睡魔の誘惑に抗うのは限界だった。
「もう寝た方がいいわ。明日の朝、起きられないわよ。いつも通りに訓練があるでしょう?」
「えぇー、でももう少し待ってたら帰って来るかもしれないじゃん」
「朝ちゃんと起きるからいいでしょ、母上」
いつもなら、とっくにベッドに入っている時間だ。今にもかくん、と寝落ちてしまいそうなのを懸命に堪えている双子も、何か普通ではない空気を感じ取って気が気ではないのだろう。
けれどもだからこそ、アリョーナは母親として昨日と同じ日常を保たなければならなかった。
「駄目よ、もう寝なさい。父上が帰って来たらちゃんと起こしてあげるから」
「…………絶対?」
「ええ、絶対」
「本当に本当だよ?」
「大丈夫、約束」
優しい笑顔と共に差し出された小指に、不承不承指を絡めて二人が父親の帰りを諦めようとしたその時、ヒトの耳ではなく三角の獣耳が遠くからこちらに迫る車のエンジン音を拾い上げた。
毎日訓練場まで送り迎えしてくれている軍用四駆だ。間違えるはずもない。
「父上帰って来た!」
「え……? 何にも聞こえないけど」
「母上にはまだ無理だよ、遠いもん」
「でも変だなぁ……三台くらい一緒に来てる。父上、うちの車で出て行ったよね?」
ラスカーのその呟きを聞いた途端、アリョーナは鋭く息を飲んだ。
まるで全身の血が足裏から抜けてしまったのではないかと思えるほど、元から肌白い頬が蒼白になる。しかし、母の逡巡は刹那だった。
「ラスカー、ユーリ、こっちへ来て。早く、急いで!」
いつもはおっとりとした母の、これほど緊迫した声音を聞いたのは初めてだった。その顔が強張っているのを見たのも。
今朝の騒動を思い出し、不安に駆られてラスカーとユーリは思わず顔を見合わせ視線を交わした。何か途轍もなく悪いことが起ころうとしている気配が、ひたひたと背後に恐るべき何かが忍び寄って、その切っ先を首筋に突きつけられているような、漠然とした薄ら寒い気配がするようだ。
アリョーナに腕を引かれるまま、双子はキッチンへ足を踏み入れる。いつも二人のおやつや調味料、細々としたものが仕舞われている小さな移動式戸棚をぐい、と押しやると、そこには不釣り合いな頑丈そうな鉄の扉が隠されていた。
「「…………」」
「入って、さあ早く」
奥行きはそれなりにある、物置のようなスペースに半ば押し込むように背中を押される。身動き出来るほどの幅はない。
「母上……っ、」
不安に駆られて喘ぐように伸ばした二人の手をぎゅっと握り、アリョーナは辛うじて笑みを浮かべて口早に告げた。
「いい? 私か父上が迎えに来るまで、ここでじっと息を殺して気配を消して、隠れているのよ。何があっても絶対に音や声を立てては駄目。いつも訓練でやっているから出来るわね?」
「母上は!?」
「大丈夫だから、心配しないで。いいこと? 絶対に出て来ては駄目よ」
「嫌だ、待って……!」
「ラスカー、ユーリ、私たちの愛しい息子……愛してるわ」
最後にそっと抱き締めてキスをして、アリョーナは未練を断ち切るように扉を閉めた。ガチャン、と戸棚が元通りになおされる音、閉ざされ真っ暗になってしまった視界に、二人は心細さから空間をまさぐり互いの手を握り合った。
「…………」
「…………」
幸いにも空気穴は開いているのか、埃っぽくはあるが息が詰まって死んでしまうような心配はなさそうだ。
それでも外に聞こえてしまうのではないかと気が気でないほど耳元で打つ早鐘の鼓動と、荒くなる呼吸をじっとりと冷や汗が滲んだ掌で口回りを覆わねば、恐怖と混乱で頭がおかしくなりそうだった。確かに信じられるものは、ぎゅっと握れば同じように返してくれる片割れの手しかない。
ーーどうしよう……どうすれば?
オルゲルトが出て行く時に感じた腐臭のような血腥い気配が、再び鼻先に纏わりついている。
迫り来る悪意や殺意を無意識に捉えているのか、初めて直接叩きつけられるそれらに尻尾が総毛立っているのを自覚した。
ーー父上……早く、早く帰って来て!!
瞬間ーー遠くに、言い争うような母の微かな声が聞こえたかと思うと、
ドン、ドン……っ!!
腹の底に殴りつけるように響く銃声が轟いた。警官などが持つ軽い口径の拳銃ではなく、対象を制圧、確実に息の根を止めるための武器が咆哮する声に、聞き慣れているはずのラスカーとユーリはびくりと身体を竦ませて、寄り添い合った。
ーー母上が撃たれた……!!
→続く
スポンサードリンク