躊躇は一瞬だった。
     跳べる、と言う確信はあったし、もしも失敗したとしても、その先にある死を怖いとも嫌だとも思わなかった。いつ死んでも、それが自分の終わりだと下された結末でいい。惰性と贖罪で生き続けることに、息苦しさを覚えていたのは確かだ。
    「待ちやがれ、このクソガキ!!」
     しかしだからと言って、こんな輩の手にかかって無様を晒すのはごめんだった。
     当てるつもりがそもそもあるのか疑わしい銃声と怒号に、背中を押されるようにして床を踏み切る。がしゃん、と言う衝撃は思ったほどではなかった。割れた窓ガラスの破片を伴いながら、夜の街にネオンの波にダイブする。
     途端に土砂降りの雨が身体を叩いた。
    「…………っ、」
     衝突の衝撃による減速と、水滴による物理的な負荷。しかしそれは想定の範囲内だ。
    「馬鹿、死ぬ……」
     男たちの目には、決死のジャンプも跳躍距離の足りない失敗、と映ったことだろう。向かいのビルの屋上に着地するには、高さが足りない。
     が、閃光が狙っていたのは向かいのビルの屋上などではなく、その僅か下に突き出ているド派手な看板だった。とは言え、長さは一メートル強、幅は三十センチ程しかない。誰もが壁に激突するか捉え損ねて落下するかの、二択だと目を背ける。
     ダン……っ!!
     裸足の足裏は濡れた金属枠を滑ることもなくしっかりと捉え、そのまま踏切台となった。閃光の身体はさらに大きく跳んで、隣のビルの外階段の手摺を捕まえる。
    「まずい……このままじゃ逃げられる! 下の連中走らせろ!」
     慌てた髭面の男ーー金城(きんじょう)が振り向いて指示を飛ばす。人手をかき集めて追わなければ。
     痛めつけて弱っているものと油断していた。たかが子供と甘く見ていた。あれは、あの少年は、確かに誰もが恐れ、畏怖して、けれど手元に置きたがる〈黒き獣〉だ。たった一人で戦況を覆す魔物だ。
     ようやく捕まえて、近隣組織に差をつけられるところだと言うのに、逃がしたとあればこちらの首が飛びかねない。
    「いいか、殺すなよ!? 絶対生かして捕まえろ! 手足の一、二本までは許す!!」
    「兄貴、無茶言わないでくださいよぉ」
     泣き言を呟く新人の頭を張り飛ばし、踵を返した。この辺りは細い路地が入り組んでいて、慣れぬ者は迷う。逆に降りてくれた方が好都合だ。
     一方、閃光はと言えば、外階段下で待ち構える男二人を飛び降りざまに蹴り倒したところだった。銃を持っていようがいまいが、その向けられた先と指の動きにだけ気をつけていれば、来ると解っているものに当たりはしない。
    ーーどっちに逃げる……?
     人目につく表通りはこちらとしても避けたい。この成りを見て、不審を覚えた誰かに警察を呼ばれるのは迷惑だ。それに第一あの手の人間は、無関係な人間が巻き込まれようが傷つこうが、知ったことかとばかりになりふり構わないものである。見なかったことにして逃げるにしても、決まりが悪いのは確かだった。
     落下中にざっと見た限りではあったが、左手に向かった方があまり騒ぎにはならなさそうだ。
    「…………」
     どこへ行ったところで、大して意味はない。
     閃光が普通ではない、と理解した相手が取る行動は、怯えて震え二度と近づかないでと拒絶するか、利用して誰かを何かを傷つけさせようとするか、のどちらかだった。
     裸足に濡れたアスファルトは気持ち悪い。
     身体に張りつく服も気持ち悪い。
     欲しいものなど当の昔に失くした。大事なものなど当の昔に失くした。
     何も持たない、と言うのは、一見気楽で身軽で自由に思えるかもしれないが、本当は逆だ。どこも何も確かなものが、頼れるものがない。落ち着いて眠る場所も寛ぐ時間も、それどころか満足に腹を満たすことすら、隠れて隙を伺って影からこっそり気づかれないように、と言うのが鉄則なのだ。
     世界には『ないことになっている』閃光にとって、飼い慣らされていた檻を蹴破って飛び出した外の世界では、それが当たり前で日常だった。
     誰も助けてなどくれない。
     関わりたくないと見向きもされない。
     危ない。怖い。気味が悪い。
     罵られ、投げつけられた言葉が、視線が、その心を意思をどれほどズタズタに斬りつけたか解らない。
    ーーそれでも……
     ちゃり、と胸元で揺れた古いペンダントロケットを、縋るように掴む。
     生きて、と誰よりも愛した人に願われたから。
    『優しいままの貴方でいてね』
     そう祈られたから、あの日以来閃光は己の内で舌舐めずりをし、爪牙を研ぎ澄ませている獣を、さらに奥深くに沈めた。
     二度と起こしてはならない。表に出してはならない。あれの好きにさせてはならない。
     そのためには、どれほど鼻先に餌をぶら下げられようが、甘い言葉で都合のいい条件を囁かれようが、日の下を歩けぬ輩の申し出に頷いてはならなかった。
    ーー逃げろ……
     どこでもない場所へ、誰の手も届かないところへ。


    →続く