誠十郎の希望で葬儀は執り行わなかった。
     他に家族もいなければ、報せるほど親しい友もいない。神に出迎えられるほどきれいな生き方をしていない、と言う自虐もあったのだろう。
     自ら用意していた墓へ遺体を埋め、諸々の手続きを終えるまでは、やはり数日の時間を要した。
     そして、
    「若……本当に、よろしいのですか?」
    「…………ああ」
     今日は閃光とクリフがこの家を去る日である。
     とは言え、取り壊す訳でもなければ、売り払った訳でもない。この土地も家もその他誠十郎の名義(勿論偽名でのものも含めて、だ)であるものは全て、生前クリフへの譲渡が決められていたものを除いて、架空の戸籍を作り上げて閃光が継いだ。一番想い入れの深いこの建物は、週に一度管理を頼んだ人間が手入れと掃除をする手筈になっている。それにしても頼めない隠し部屋はいくつもあるし、立ち入られては困る場所もある。そこは自ら管理して行くつもりだった。
     彼は既に隠遁先を決めているらしい。一緒に来ないか、と言う申し出を蹴ったのは、こちらの都合だ。そしてそれは目付役を負ったクリフに取って、心配の種であったのだろう。
     きちんと説明をし、納得したはずの今も、あまりいい顔はしていない。
    「貴方は貴方の道を歩んでよろしいんですよ?」
    「クリフ」
     懐から取り出した煙草を一本抜き出してくわえると、閃光は書斎から持ち出した銀色のジッポーをかしりと鳴らして火をつけた。一つ吸いつけ、ゆっくりと紫煙を吐き出す。何度か練習してはみたが、まだ上手く吸えていないのか、誠十郎が片時も放さなかったほど美味いとは思えなかった。
    「これはちゃんと、俺が自分の意思で決めた。何にもなかった俺に、ジジイがくれたからってんじゃねえよ。俺がやろうって決めたんだ」
    「…………でしたら、私もこれ以上は何も言いますまい」
     一歩も譲る気がないと見てとってか、クリフは呆れたように息をついて小さく苦笑した。
    「頑固なところ……旦那様に似てしまわれましたな」
    「似てねえよ」
     心外だ、と言いたげに渋面で否定しはしたものの、その声に棘はない。
     自分の感情や思うことを素直に表す機会に恵まれなかったせいでか、閃光は内と外が違うことがままあるのだ。始めの頃はそうして真意を掴むのに苦労したものだったが、知ってしまうと存外豊かな情緒と照れ臭いが故の言動が可愛く見えて来るのだから、不思議なものである。
    「俺はジジイと違う。正しいことのためじゃねえ、自分のために、怪盗バレットを……ジジイの後を継ぐ。もし俺が間違ってると思ったら、お前が止めろクリフ」
     それならば何も、表の稼業まで気を回さなくてもよさそうなものだが、それはけじめのつもりであるのか、はたまたやはり照れ隠しなのか。
    「必要ありますまい」
     帽子を被りながら、クリフは笑った。
    「旦那様の御心に若が反するとは思いません」
    「…………」
    「ですが、いつまでも見守らせていただきます。ご用とあらば、いつでもお呼び立てください」
    「ああ……また、お前の飯が食いたくなったらな」
     では、と微かに会釈をして踵を返した背中を、見えなくなるまで送る。独りになったのは久し振りのことだった。今までバタバタしていたから忘れていた、と言うか横に押しやることが出来ていた感情が、じわりと滲んで来る。
     独りは平気なはずだった。
     寧ろ誰も傷つけないように傷つけられないように、他人と関わることは極力避けていたはずだった。お互い必要な時に手を組めばいい、またいつか別の場所で顔を合わせても、その時は無関係な他人ーーそれでいいと思っていた。誰かに特別な感情や感慨など持ったことはなかったし、これからもそうなのだろうと思っていた。
     まほろを失って覚えた、哀しみや絶望ややりきれなさ、自分への怒りとはまた違う。
     初対面の時から、誠十郎もクリフも高齢だったせいか、いつか必ず訪れる別れの瞬間と言うものに対しては、無意識の内で覚悟は決まっていたはずだった。だから、悲しいとは違うのだ。
     己から手放すのではなく、もう二度と手に入らない大切なものが、どうにも出来ない理由で消えてしまう寂しさ。
    ーーそんな風に思う日が来るなんて……考えたこともなかったな……
     例え血の繋がりなどなかったとしても、二人は閃光にとって、間違いなく家族であった、と言うことだろう。
     さよならは言わなかった。
     二度と会うことがなかったとしても、ここで過ごした時間が、二人との関係が消えてしまう訳ではないことを知っているから。
     短くなった煙草を携帯灰皿に捩じ込んで、最後の一息を吐き出すと、閃光もゆっくりと踵を返した。これもまた誠十郎の書斎から失敬したサングラスを、懐から取り出してかける。帳が降りた視界は眩しすぎず、ようやくまともに目を開けていられた。
     今はまだサングラスも、煙草もジッポーも、それどころか『怪盗バレット』の名前すら、身の丈には合っていない。仰ぐ背中は遥かに遠く、背伸びをしても走っても、追いつくまでにはさぞかし時間がかかることだろう。
    ーーでも、だからこそやりがいがあるってもんだろうよ……
     振り向きはしない。
     次にここを訪れる時は、胸を張って一人前になっただろう、と誠十郎に報告出来るように。


     それから数年後、『怪盗バレット』の名前が世間にも広く知れ渡るようになった頃、閃光の元にクリフの訃報が届いた。
     誰にも知られることなく、密やかに先代を支えた男の最期を片付けた彼の傍らには、新しい相棒の姿があったと言う。



    以上、完。