「すまんが……明かりを、点けてくれんか? こう真っ暗じゃあ……何も見えん」
    「…………」
     真昼の現在、室内の明かりなどなくとも視界に不自由などない。辛うじて意識を取り戻したものの、誠十郎は殆んど何も見えていないらしかった。それがどれほど、ぎりぎりで紡がれた接触なのかが痛いほどよく解るから、閃光は思わずその手をぎゅっと握り締めそうなのを寸手で堪えた。
    「悪ぃ……さっき慌てたせいで、壊しちまった」
    「はは……何じゃ、らしくないの。お前さんでも慌てることがあるのかぃ。怪我ぁしなかったか、閃光」
     何度となく確かめるように指先が辿り、その形を忘れまいとするようになぞる。ヒトとはあまりにも違う己の在り方を、ずっと否定され拒絶され忌避され殴られ蹴られ罵倒され続けて来た閃光に取って、他人から触れられることは、痛みと流血と断罪と同義であった。
     逆らえば、更なる暴力で捩じ伏せられる。
     そうしないでくれる二番目の手を、
    ーー俺は、また失うのか……
    「大丈夫だ。何ともねえ」
    「そうかぃ」
     わしわし、と遠慮なく頭を撫で、髪を鋤く手を甘んじて受け入れる。恐れるでもなく、傷つけるでもなく、当たり前のようにヒトとして息子のようにして、愛して受け止めてくれた、その手を。
    「こうして見ると、お前さんも随分でかくなったもんだ……当初の可愛いげは、一体どこに行ってしまったんじゃろうの」
    「老いぼれと一緒にいりゃあ枯れちまうだろ。可哀想に」
    「ハッハッ……口の悪いのまで似ちまって……ああ、もう大丈夫じゃなあ。ちゃんとヒトの顔しとる」
    「…………」
    「爺の余生の暇潰しにしちゃあ、大した難度じゃったが……お前さんが来てから、本当に……本当に、楽しい毎日じゃったよ」
     こう言う時、何と言って返せば彼を安心させてやれるのかーー閃光は言葉を持たなかった。喉元まで競り上がる初めての感情を、どう吐露すればいいのか、そんなことは誠十郎は教えてくれなかった。既に失うことが揺らぎなく決定しているものを、静かに見送る術などは。
    「何……弱気なこと言ってやがる。まだだろ……まだ、過去形にするには早えだろう」
     感謝の想いを全て伝えきれてなどいない。
     教えて欲しい全て受け止めてなどいない。
     共にいて欲しい時間に終わりなど、ない。
     思わず縋るように握り締めれば、これが最期だとでも言うように存外力強く握り返される。
    「閃光……違うなよ、お前さんはヒトじゃ。わしの……自慢の息子じゃ」
     いつの間にか頬を伝っていた涙の温もりを確かめるように拭って、
    「クリフ」
    「……はい、ここに」
    「長い間世話に……なったの、朋友(とも)よ」
    「勿体のうお言葉です。私も貴方と共に過ごせた日々を誇りに思います」
     見えはしないことを承知の上で、それでもクリフは腰を折って深々と頭を下げた。
     誠十郎がゆるゆると長い息をつく。
    「ああ……お前さんたちのおかげで、なかなかに愉快な人生だった、な」
     ほう、と満足そうに呟いたそれが、誠十郎の最期の言葉になった。
     力を失くした手が、糸の切れたようにとさりとベッドに横たわる。その目は閉ざされることなく、天井をーーその先に広がる空を真っ直ぐに見つめていた。
    「………………」
     ぐし、と乱暴な仕草で涙を拭ったっきり、閃光は何も言わなかった。
     さめざめと悲しみに浸り、嘆く程には深い想いを関係を築いていただろう。誠十郎は血の繋がった実父よりも余程、自分を大事に愛してくれたに違いない。間違いなくこの数年、彼は閃光の家族であり親であり師であった。誰よりも傍らに寄り添い、見守ってくれた存在であった。
     故に、自分が泣き明かしいつまでもその消失を憂うのは、彼の満足感を否定するような気がする。
     緩い笑みすら浮かべて逝った彼に、「何じゃ、一丁前に寂しいのか?」と笑われそうなのも、何だか癪に思えた。
    ーーそうだ……俺とジジイは、
     そっと歩み寄ったクリフが、誠十郎の目許に手を翳し瞼を閉ざす。
    「…………念のため、シャインストーン先生を呼び戻します。若、ここをお任せしても?」
    「ああ……頼む」
    「承知しました」
     律儀に目礼を投げてから部屋を出て行く彼に、小さく息をつく。一人になっても、もう先程溢れ出しそうだった感情は胸を突いたりはしなかった。
    「…………あんたも、まほろと……同じことを願うんだな」
     まだ暖かなその手を握り、閃光は祈りを捧げるように額に押し当てた。
    「だったら、俺がやることは……やれることは、たった一つだ」
     二人の間には、さよならもありがとうも似合わない。たった一つ交わした約束、その誓いさえあればいい。僅か数年ーーけれど、確かに何も持たなかった自分を某かに形作り、今後の道を照らし差し示してくれた時間は、容易く言葉に出来るほど軽くなかった。
    「そっちで黙って見てろよ、ジジイ」


    * * *


    →続く