月の綺麗な晩にしよう、と云うのはどちらが云い出した訳でもなく、私と彼との暗黙の了解だったような気がする。
     その日は冴え冴えとした満月が柔らかな黄金とも白銀とも取れる眼差しを投げかけており、私は兼ねてからの約束の通りに皆が寝静まった頃合いを見計らって屋敷を抜け出し、沙漠へと向かった。
     身体に絡みつく夜の闇は私を見咎めているような気がして、無論それは心のどこかに蟠る罪悪感がそうさせているだけなのだろうけれど、誰かに見つかり引き留められるかもしれないことが、私の胸をきりきりと締め上げた。
     果たしてその心配は杞憂に終わり、何事もなく沙漠へと辿り着いた私は、暗澹たる水面を横目に潮騒の音を聞きながら乳白色の大地を踏み締めた。
     さらさらと軽やかなくせにこのまま沈んで飲み込まれてしまいそうで、恐ろしさと不安を堪えながら岩場を目指す。
     昼間見た時はそう感じなかったものの、夜闇の中にあって岩場は恐ろしい怪物のような有り様でそこに佇んでいた。人の侵入を拒むような雰囲気が足を進めることを躊躇わせる。
     そんなことでくじけているようではこれから待ち受ける困難を越えてなど行けない。
     お前の覚悟はその程度のものか、と自分に発破をかけてから私はぎゅっと拳を握り締めて歩みを再開する。
     彼は先に来ていて、強張った顔で陰を覗き込んだ私を温かな笑顔で迎えてくれた。
    「もしかしたら、来てはくれないのではないかと思っていたよ」
    「そんなこと……」
    「見つかって酷い目に遭わなくて良かった」
     腕の中に飛び込んだ私を強く抱き締めて彼はそう耳元で熱い息をこぼした。ほんの少しだけ見つめ合って、まるで引き寄せられるように口唇を重ねる。何度かそうして口唇を吸ってから私の頬を愛おし気に撫でると、彼は徐に懐から何かを取り出してみせた。
    「それは何?」
     問えば開かれる手袋を填めた大きな掌。
     その上にころりと収まっていたのは、二粒の美しい真珠だった。
     月の光を受けて優しく柔らかく輝くそれは、明るい陽の光の下で見るよりなおいっそう神秘的で綺麗だった。三百六十度どこから見ても完璧な円を描く高価な宝石は、一体どうやって手に入れたものか躊躇と戸惑いを生む。
     しかし彼はその石をいとも容易く、傍らに置いていた瓶の中に放り込んでしまった。
    「あ……」
     群青の硝子瓶に入った中身は一体何であるのか、大粒の二つの真珠は瞬く間にしゅわしゅわと軽やかな音を立てながら、まるで未練のように泡を吐き出して溶けて消えてしまった。
    「これが月へ行くための秘薬だよ」
     まるで後ろめたい契約を交わすように、彼は硝子の碗に交互に中身を移してみせた。
     小さな器に注がれた液体は、溶け込んだ真珠のせいか白濁のとろりとした質感である。僅かにきらきら輝いているようにも見えて、私は思わずほうと感心の溜息をついた。
    「純潔の人間が飲まねばたちどころに猛毒になってしまうそうだ。だから僕は……触れたくとも君を抱く訳には行かなかった………怖いかい?」
    「……少し」
     後悔しないのか、と問われたら何の未練もないとは言えやしない。
     一人前になるこの歳まで慈しみ育んでくれた両親や、まだあどけなさの残る妹やたくさんの友人を置いて、彼らに二度と逢うことの叶わない場所へ私は彼と二人旅立とうとしているのだから。
     それでも――私は彼と引き裂かれることの方が堪えられなかったのだ。
    「真珠は」
     低いけれどよく通る声が遠くの波打ちの音をかき消して私の鼓膜を振るわせる。
    「別名『月の涙』とも呼ばれていてね。想いを遂げられない恋人たちはこの秘薬を飲んで月へ旅立ち、そこでようやく結ばれる。その時にこぼれた涙が地上海の底へ帰り、真珠になるのさ。次の恋人たちの幸せを願って」
     だとしたら、彼が瓶の中へ落とした真珠も先に想いを遂げた誰かの幸せの結晶だと云うことだろう。
     そう思うと自然と身体の奥底が熱くなり、それまで漠然と心を覆っていた不安が溶け出して行くような気がした。
    「真珠はね、ぴたりと合わさった貝の中で育まれる。不純物が少しでも混ざってしまったら、美しい真円形は出来ない。だから例え貝をばらばらに分解して組み合わせたところで二つと同じ対はないのさ。番は最初から決まっている」
     普段はあまり口数の多くはない彼が珍しく饒舌だった。それだけこの決心に全ての想いを傾けてくれたのだろう。
    「だから僕には君しかいないのだ」
     私は小さく頷くと硝子碗の片方を手にした。もう躊躇はない。
     そう、彼には私しかいないのだ。
     彼ももう片方の碗を掴み上げる。刹那だけ視線を合わせ、私と彼は同時に秘薬を飲み干した。仄かに甘い白濁はするりと喉を滑って体内に落ちて行く。
     しばらくすると、彼の身体が淡く輝き始めた。見れば私も微かに光を帯びているようだ。
     苦しくはない。
     痛くもない。
     これは月に行くことを赦された証だと思って良いのだろうか。
     いつの間にか月の柔らかな黄金とも白銀とも取れる光が水面に降り注いでいた。いや、あれは沙漠が水平線まで緩やかに伸びて道を作っているのか。ともあれ遙か彼方、空と海と大地が交わり月までの絹色の道が私たちを誘うように目の前に伸びている。
    「さあ、行こう」
     そっと私の肩を抱き、彼はいつもと同じ温かな笑みを浮かべた。
     その変わらぬ掌の温度に安心して、ようやく歓喜が身体の奥深いところから競り上がって来る。
     これで私はこの大切な人とずっと共にいられるのだ。誰に咎められることもなく彼を愛していると云えるのだ。
     足を踏み出す度に絹色の道はしゃんしゃらと鈴のような音を立てる。身体はまるで羽根のように軽く、舞うようにどこまでも飛んで行ける気さえした。


     月の沙漠を遥々越えて行きましょう。
    誰も私たちを知らない世界へ。誰も私たちを咎めない世界へ。


     滲んだ涙がころりと落ちて深く昏い海の底へ沈んで行くのを見下ろしながら、たった二人きりでどこまでも遠い遠い場所へ――


    ―了―

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