ゆらゆらと――不安定に千切れかけた鉄索(ケーブル)や半ば壊れた機巧を蠢かしながら、男の前に佇むヒナギク。
     こちらに背を向けていることもあり、どんな表情を浮かべているのか、否、そんなものが残されていたのかも明らかではない。
     けれど、男が彼女に向けているのは恐怖の眼差しそのものだった。従順に己を信じる妹を前にした兄ではない、ナレノハテを好き放題にして愉悦に浸る狂科学者ではない、その虚飾の仮面と偽物の力を剥ぎ取ってしまえば、彼は圧倒的に無力な人間だ。
     ましてやナナキに右腕を落とされた男は、カゲトラが止血を施してやったにせよ濃い血の匂いが纏わりついているはずだった。あの個体の嗅覚が如何ほどのものかは解らないが、それでもあれだけ接近していれば胸が悪くなりそうなほど血の匂いがすることだろう。
     その視線が、じっと滴り落ちる生命の証に注がれていることは明白だ。
    「や……やめろ、ヒナギク! 落ち着け、その怪我はボクがすぐに治してやるからな。な!?」
    「…………」
    「最初にボクの血は飲むなよと教えただろう? おおおお前を治せる奴がいなくなったら困るだろう?」
     怯えて這いつくばったまま、どうにか逃げようと身動ぎする男は何度も立ち上がりかけてはいたが腰でも抜けているのか、無様にもがいているだけだ。片腕を失って均衡も取り辛いのだろう。
     それを嘲笑うように、ヒナギクの機巧がゆっくりと刃の形を取った。
    「嘘……ツ、キ」
    「待っ……ぅわあああああっ!!」
    「ち…………っ!」
     反応したのはナナキが早かったが、実際に動いたのはカゲトラの方が早かった。やはり危険な境界を越えたとは言え、今の彼女の身体は一般人にも劣るほど弱りきっている。
    「テメーはそこにいろ!」
     言うなり軍帽をナナキの頭に押しつけてから飛び出して、カゲトラは振り下ろされた刃を寸手で受け止めた。鋼同士がぶつかり合って軋み、火花を散らす。
    ――くそ重てぇ……っ!
     人間とはやはり筋力も異なるからか、それとも機巧の恩恵の賜物なのか、一太刀の重さが今まで知るどれより一等凄まじい。骨が悲鳴を上げ、筋肉が叫ぶ。
     長くは打ち合えない。
     すぐにそう判断して、カゲトラはヒナギクの刃を捌いた。が、こちらは二本しかない腕でようやく彼女の片手打ちを受け止められるくらいなのだ。空いた腕はもう一本、さらには無数の鉄索(ケーブル)もある。
     死角から振るわれた一撃をどうにか鞘で受け払いはしたものの、ほんの少し交錯しただけで頑丈なはずのその朱色の体躯には罅が入ってしまった。
     埒が明かない、と刹那で機巧を変貌させたカゲトラは近距離から短大砲をぶっ放してその凶器を少しでも削ろうと試みる。
    ――駄目だ……距離を取らねえと全部は吹っ飛ばせねえ……こいつを庇いながらじゃあ……
     打ち合い、斬り合い、何合と切っ先を交わしても、弾雨の礫を浴びせようとも、疲労し追い詰められて行くのはこちらだ。震えているだけで逃げようともしない男に苛立ち、思わず怒鳴り上げる。
    「ぼさっとしてんなテメー!! 俺をぶん殴った得物はどうした!?」
    「ぼ、ボクがタイシャクを持ち歩くのは、かかか狩りの時だけだ!」
    「狩猟民族かよ! 猿からやり直せ、役立たず!!」
     叫んで鉄索の群れを斬り払う。その瞬間、僅かにヒナギクが体勢を崩したのをカゲトラは見逃さない。距離を取るどころか空いた懐に飛び込んで、引き金を引く。
     最大火力の一撃を躊躇せずに叩き込んだ。爆音、激震、紅蓮の火柱が夜闇をつんざいて巻き起こる。
    「カゲトラ……っ!!」
     勢い余ってゴロゴロと転げて来た相棒に、ナナキは慌てて駆け寄る。軽い脳震盪でも起こしたのかしばらくは地面に伏していたものの、やがてカゲトラはぶるぶると頭を振って起き上がった。
    「痛つつつ……」
    「だ、大丈夫か!? この馬鹿者、無茶をしよる……」
    「要は、消し飛ばさなくても細胞が再生しなきゃあいいんだろう? これなら……」
     しかし収まった硝煙と霧の向こう――ぶすぶすと黒い煙と焼け焦げた肉の腐臭を上げながらも、ヒナギクは佇んでいた。機巧の大半も鉄屑と化していたし、それは最早ナレノハテとしても機能するのかどうか危ういほどの損壊を負ってはいたが、彼女はまだ停止していなかった。
    「嘘ツキ……わた、し……テタノ、に……」
     雑音混じりに蓄音機が音を紡ぐように、たどたどしく言葉が紡がれる。恐らくそれは、初めてこぼされるヒナギク自身の声であった。
    「絶対、治してクレル、て……信じ……て、」
     どすぅ…………っ!!
    「あ……」
     止める間もなく男の胸に鉄索(ケーブル)が突き立てられる。幾度か小さく痙攣して、男の身体はそのままがくりと力を失った。貫かれているせいで倒れ伏しはしないものの、完全に事切れてしまったらしい。
    「くそ……っ!! お前、それ兄貴だぞ!! テメーの兄貴なんだぞ!!」
     瞬間、どくんと大きく鼓動が脈打つような音が辺りに響き渡った。
     まるで空気そのものが締めつけられているかのような圧迫感――急速にざわざわと嫌な気配が足元から込み上げて来る。


    →続く

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