とは言え、まほろは日がな一日中閃光の傍にいて、世話を焼いてくれる訳ではない。年頃になれば勿論学校にも通うようになったし、何より修晟が二人が共に過ごすことをよしとしなかった。
     本当は、閃光の世話だってまほろにさせたくはないのだろう。けれど宥めようと激怒しようと、頑としてその己が定めた使命を曲げようとはしない娘に根負けする形で、好きにさせていると言うのが正解だ。途中からは半ば、どうでもいいと匙を投げ出してしまったようにすら思える態度で、普段は蔵ごと無視するように足を向けることすらしなかった。使用人たちにも近付くことを禁じたのだと言う。
     おかげで閃光は長い時間、たった独りで薄暗い牢獄の中で退屈を消費せねばならなかった。それは恐ろしく空虚で、とてつもなく侘しい時間だった。
    「これが『あ』、こっちが『い』」
     絵本の文字を拾って手本にしながら、明かり取りの窓から差し込む僅かな陽の光を頼りに、字の練習をする。スケッチブックも鉛筆も、全部まほろが持って来てくれたものだ。
     蔵に電気は通して貰えなかった。
     光が外に漏れると、そこに『何か』いることが――閃光が幽閉されていることが、周囲にばれるからだ。一度食事を摂る時に携行灯を点けていただけでしこたま殴られて以降、それも布団やシーツを被せて余程の時にしか使わなくなった。おかげで夜目は利くようになったが、逆に昼間は眩しくて敵わない。
    ――『ひ』『か』『り』……『ま』『ほ』『ろ』……
     始めの内は満足に鉛筆を持てなかった。何度も何度もまほろの持ち方を見て真似て、こうして練習して覚えて出来るようになった。箸もフォークもスプーンも、文字も数字もアルファベットも、全部まほろが外で習って来たものを根気強く教えてくれるから、それをそっくりそのまま閃光は飲み込んだ。
     おかげで独りこの牢獄の中で彼女が来てくれるのを待つ時間も、以前に比べれば苦ではなくなった。出来ることが増えるのは、解ることが増えるのは、楽しくてワクワクするものだ。
     けれどふと、どうしようもなく堪らない気分になることがある。
     本に書かれていることが本当なら、世界はこんなにもたくさんのものでいろんな出来事で溢れているのだ。それなのに、閃光はその一切に触れることを許されない。
     本当なら父は知らせるつもりもなかったのだろうと、閃光は思う。
     暗闇の中で獣のまま朽ち果てさせ、そのまま飼い殺して、最期の最期まで人として扱うつもりはなかったのだろう。それをどうしてまほろに自由にさせているのかと言えば(よもやこれだけいろいろ持ち込んでいることを、全く気付かないほどあの男は愚かでも鈍くもない)、そうしてきらびやかで素敵な世界が外には無限に広がっていることを閃光が知った方が、より深い絶望に叩き込まれることを理解したからだろう。
     どんなに焦がれても、どんなに必死に求めても、決してお前は手に入れることなど叶わないのだと、鼻先にぶら下げて見せびらかすように。
    ――俺は……
     この中から出てはならないのだ。
     修晟からそう思わされているからそう感じるのではなく、閃光は時折無意識の際にぞろりと己の奥底から首をもたげるどす黒い感情に、衝動に、本能に、ああやはり自分は人とは違う生き物だと痛感することがある。
     普通ならこんなことは想うまい願うまい、そう痛いくらいに思い知ることがある。
     だからきっと、まほろが辛うじて繋いでくれている細い糸を辿って外の世界に出てしまったら、閃光は己の醜悪さを狂暴さを事あるごとに突きつけられる羽目になるだろう。
     意図せずとも誰かを傷つけ、悲しませることになるだろう。
    ――だから、仕方ないんだ……
     例え己がそう望んで産まれた訳ではないにしろ、そう産まれてしまったからには相応に生きねばならない。生かして貰っている、と言う現状は不本意で不自由で不満極まりないことだが、それでも殺そうとされなくなっただけ以前より随分とまともなのだ。
    ――何で俺だけが……
     普通じゃなかった。
     獣憑きとして産まれた。
     どうしてこんな目に遭って、
     失せろ気味が悪いと蔑まれ、罵倒されねばならないのか。
    ――まほろ……
     閉じた世界の中でただ一人、始まりも終わりもない闇の中でただ一人、閃光を閃光のまま好きだと大切だと言ってくれた人。
    ――『お』はこれ……『め』がこっち……
     他には何も要らない。
     これ以上など望まない。
     だからどうか、
    ――いつかまほろに、俺より大事なものが出来たら……
     外の世界を知る彼女は、きっとたくさんの人間を知っている。たくさんのものを知っている。成長して、大人になって、それがもっとずっと広がって多くなって、出来損ないの弟に構っている時間などなくなってしまった時は、いっそはっきり告げて欲しい。
    迷惑だから私のために死んでちょうだいと言われたなら、それが生きる理由だった閃光は躊躇などしないのだから。
     待つだけの身はしんどい。
     忘れて、二度と開かない扉をいつまでも眺め続けなければならないのなら、ただでさえ負担をかけているだろうに、それ以上の邪魔になるなら、
     いっそ、
     いっそ……


    * * *


    →続く

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