いつもと同じ時間、聞こえて来た足音はいつもと同じではなかった。まるで足枷でもついているかのように、常はあるはずの軽やかさがない。
     食事の匂い、まほろの匂い。
     けれど違和感を覚えた閃光は、いつもなら彼女に揺り起こされるまで寝たふりをしているところを起き上がった。
     がちゃがちゃと鍵が開けられ、鎖と枷が外される音、軋みながら開く扉、そこから溢れる光と共に入って来るはずの姉の姿。いつもと同じはずなのに、何かが違う。
    「あら、珍しい。もう起きてたの? おはよう、閃光」
    「おはよう」
    「お腹空いてたの?」
    「ん……いや、何となく」
    「そう、足りるかしら? ご飯の方が良かった?」
     差し出されたお盆に乗っているのは、サンドイッチだ。厚めに切られたパンにはぎっしりいろいろな具が挟んであって、ボリュームとしては申し分ない。
     それからウサギの林檎とオレンジジュース。
    「大丈夫。あのさ、まほろ……」
    「なあに?」
     浮かべられた笑顔はいつも通り優しい。
     多分、他の誰もその差異に気付きはしないだろう。
    「あいつと、いた?」
     修晟の匂いがする。
     長時間、傍にいなければ匂いは移ったりなどしない。それにしたって、こんなにも濃く漂って来たりはしないはずだ。まるで俺のものだと主張するかのような、
    「…………そりゃあ、昨日は父様にお祝いして貰ったもの。どうして?」
    「目が腫れてる」
     一瞬の沈黙の後返された答えに躊躇いながら告げると、まほろは突かれたように口を噤んだ。いつもは薄く青味がかった白目が赤いのも、泣いていたからではないのか。
    「何か言われたのか?」
    「…………何も。平気よ、大丈夫。貴方が心配することなんてない」
     そっと伸びて来た手が、優しく髪を梳いて頭を撫でる。
    「また、お昼に来るわ」
     そう立ち上がったまほろに、閃光は黙って背中を見つめることしか出来なかった。
     が――
    「まほろ、その首の痣……どうしたんだ?」
     ふと目に飛び込んで来た見覚えのない鬱血痕に、思わず眉を潜めた。肌の色が透けるように白いから、余計に目立つ。
     まさか見つかるとは思っていなかった――いや、そんなところに痕がついているとは思わなかったのか、さっと頬に朱色を孕ませたまほろは、思わずと言った仕草でそれを隠すように掌を当てた。
     逸らされた視線はそれが、閃光には見つかりたくなかったことを告げている。
    「な、んでもないよ、平気……大丈夫」
    「何でもないって……そんな訳ないだろ。まさかあいつ……まほろにも酷いことしてるのか? そんなに痕が残るくらい……」
    「違う……違うよ、これは……」
    「違うならちゃんとこっち見ろよ」
     困ったように歪んだ双眸から、大粒の涙がこぼれ落ちる。伸ばしかけた閃光の手に、まほろは――恐らく初めて身を捩って、嫌だと言うように首を振った。
    「駄目、私汚いから触らないでっ!!」
     言ってからはっと口元を覆う。本当は言うつもりなどなかったのだろう。
     それでも例えいくら性的知識に乏しくとも、具体的にどうだと理解した訳ではなくとも、閃光が事実のおおよそを把握したのは、修晟が刻んだ己の所有権を主張するような不穏な気配を、雄としての本能が鋭敏に嗅ぎ取ったからだ。
    「あのクソ野郎ぶっ殺してやる!!」
     腹の底から怒りと憎しみと嫉妬と、様々な感情が激しい奔流となって沸き上がる。こんなにもどす黒い想いに駆られたことは、己を足蹴にされ拳を振るわれている時にだってただの一度もなかった。
     飛び出して行きかけた閃光を、まほろは必死にしがみついて引き留める。
    「駄目!! 閃光、やめて! それは、それだけは絶対に駄目よ!」
    「何でだよ!! 悪いのはあいつだろ!? まほろを滅茶苦茶にしやがって! 絶対ぇ許さねえ!! 放せよ、あいつ殺してやるんだ!!」
    「駄目ったら駄目!!」
     初めて聞くまほろの怒声に思わず気圧されて、力では到底己の足元にも及ばない彼女の華奢な腕に振り向かされた。真っ直ぐに向けられた双眸には、先程までの不安も憂いも悲嘆もない。
    「落ち着いて、聞いて閃光」
    「…………っ」
    「一人でも殺してしまったら、もう戻れなくなる。例えそれがどんなに酷い悪人でも、どんなに憎くて許せない人でも、絶対に殺しては駄目よ。殺したら、父様の言う通り貴方は人ではなくなってしまう。本当に化け物になってしまう」
     閃光の手をぎゅっと握り締めながら、まほろはあの時と同じように――幼い日に勢い余って仔猫を殺してしまった時と同じように、涙を堪えた笑みを浮かべた。
    「貴方は人間よ、閃光。人間でいて……お願い。優しいままの貴方でいて」
     そうありたいと――血を吐くほどに願って焦がれて止まない閃光の心を知っているから、まほろはそう言ってくれるのだろう。
     己がどれほどの辱しめを受け、その魂が軋むほどの痛みを覚えようとも、
    「ずっと……私の大好きな閃光でいて」
    ――俺は……
     まほろが笑っていてくれるなら、何だって我慢出来た。まほろが幸せでいるなら、何にだって堪えられた。
     けれど、
     ここで生きることは正しいのか。
     自分が生きているのは間違ってないか。
     もし、閃光がここに囚われていなければ、まほろは自由になれるのではないのか。
    「私は貴方が傍にいてくれたら、何だって頑張れる」
     ああ、それは――
     何と呪いのような睦言なのだろう。
     互いを雁字搦めにして、動くこともままならないまま立ち竦んでいる。
     彼女の涙は止めどなく溢れるのに。


    →続く

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