長い食卓の上には染み一つない真っ白なレースのテーブルクロスが敷かれ、色とりどりの料理たちが並べられて、実に芳しい匂いと共に口へ運ばれる瞬間を今か今かと待ちわびている。
     新鮮な野菜たっぷりのサラダ、湯気の立つスープ、可愛らしい前菜たちにジューシーなローストビーフやロブスター、パイの包み焼き、見目も楽しい果物やデザート、行儀よく佇むワインの瓶――食べ切れないほどの皿を前に、しかし席に着いているのは一番上座に座るこの屋敷の主人、ただ一人だった。他には給仕する者の姿も見えない。
     冷えた常闇の中、明るく暖かなその光景はいかにも不自然で不気味であった。紛い物と言うよりは、作り物の夢幻(ゆめまぼろし)と言うよりは、さながら爪を研ぎ舌舐めずりをして、獲物が罠にかかる瞬間を今か今かと待つ魔物のような、静けさと温もりに似ている。
     ふと、テーブル上の燭台に灯された蝋燭の炎が、風もないのに揺らいだ。まるでこれから訪れる者の気配に怯えて震えたかのように。
     ノックはなかったが、扉は思ったより静かに開かれた。
     柔らかな深紅の絨毯を踏み締めながら室内に入って来たのは、夜目にも鮮やかな白い影。闇に染まることを拒絶するかのような銀糸とその間から覗く三角の獣耳、翻すロングコートも衣装も他者を寄せつけはしない――最早裏の世界ではその名を知らぬ者はいないであろう、強盗団〈神の見えざる左手〉筆頭ウォルフ・キングスフィールドである。揺るぎない自信が窺えるその優雅な足取りは、最早絶対王者のそれだ。
     その背後には無論、影のようにぴたりと付き従う片腕アレン・パーカーの姿があった。
    「お招きありがとう、と一応言うべきなんだろうね」
     相変わらず人好きのする穏やかな笑みを浮かべた秀麗な容貌は甘く、声音は恋人に睦言を囁くように優しげな色を湛えている。しかし、その腰に佩いた刀よりも明確な殺意と狂気を孕んだ紫暗の双眸は、不穏な光を宿して真正面に座ったままの人物を見据えた。
    「この僕を名指しで呼びつけるなんて、随分大層な真似をしてくれるじゃないか……こう見えても、いろいろと忙しい身の上なんだけどな」
    「それでも君は応じて来てくれたじゃないか。〈魔法遣い〉なんてふざけた呼び名で連絡した、本名も素姓も解らない僕が提案したこの屋敷に。後ろの彼とたった二人だけで」
     男か女か解らない機械合成音――子供のようにも老人のようにも聞こえるそれは、面白がるようにそう言葉を紡いだ。頭からすっぽり分厚いフードを被っているため、その顔も明らかではない。
     正体の知れない――言うなれば、何をしかけて来るか予想の立てられない相手を、普通ならばもっと警戒して然るべきだ。罠があると用心して然るべきだ。ましてやウォルフは現在〈世界政府〉から、ありとあらゆる犯罪組織から、その首に莫大な賞金を懸けられ命を狙われている立場である。こんな風に無防備に、易々と自ら姿を晒すべきではない。
     けれど、白い獣は完璧なその笑みを崩さなかった。
    「そりゃあ来るさ……僕に正面から喧嘩を売って来る奴なんて、そうそういない。顔くらい拝みたいと思うよ。退屈凌ぎにはなるだろう? それに」
     瞬間、その白い姿が視界から消え失せる。瞬きすら終わらない刹那、ウォルフは主人の眼前に降り立っていた。抜く手も見せない切っ先が頭頂から彼を斬り裂くのと、踏み散らされた食器の破片が料理と共に床に落ちるのはほぼ同時。
    「たった二人でも、ここから帰ることは訳ないからね」
     が、その愉しげな余裕の笑みはすぐに引っ込んだ。斬り下げた体躯の感触は人体のそれではない。愛刀細雪(ささめゆき)は〈遺産〉であるが故に、既存の金属すら紙切れのように容易に斬り捨ててしまう。そのため一瞬判断が遅れた。
    ――〈魔導人形(オートマータ)〉……?
    攻撃を受ける前に飛び退って距離を取ったが、主人の代わりを務めた鉄屑が何かをしかけて来る気配はなかった。微動だにせず、ややノイズ混じりになってしまった声で言葉を続ける。
    「ふふふ、頼もしい限りだ……それでこそ、僕の計画に手を貸して貰うに相応しい」
    「計画……?」
    「そうとも。君と同じ能力を持つ怪盗バレット、天狼閃光(てんろう ひかり)――君は彼が本気になった時の〈力〉が見たいと……そう思ったことはないかい?」
     それはウォルフにとって魅惑的な言葉であったに違いない。
     この世でたった一人――己と同じ獣化の呪いを受けた者、怪盗バレットこと天狼閃光と言う青年に、彼はいたく執心している。
     普段から獣の片鱗を覗かせるウォルフとは違い、身体能力こそ異常ではあるが、閃光は見た目普通の人間と何ら変わりない。そのためか己の生命が危機的状況に晒されると、優に四メートルを超える巨狼の姿へと変貌する。破壊の権化とも言えるその戦闘力を発揮する際、しかし閃光の人格は消え失せていると言っても過言ではなかった。
     その圧倒的かつ絶対的強さを閃光自身は煩わしく思っているようだったが、
    ――『あれ』が本気じゃないだって……?
     彼の実力が底知れない深さを秘めているのなら、ウォルフにとってそれは願ってもないことである。
     閃光が否定し拒絶する〈魔法術〉の力を取り込んで、ウォルフはあの対峙以降さらに己の力を強大化した。しかしもっともっとと貪欲に力を求めれば求めるほど、その先に待っているのは、まともに相手になる者がいない退屈であったのだ。他者を容易く蹂躙出来るようになればなるほど、その呆気ない無力感はウォルフを苛んだ。
     己の限界を、彼の限界を。
     知りたいと思うのは自然の欲求だ。
     行きつくところまで行ってしまったら、二匹の獣は一体どうなってしまうと言うのか。どちらが上かどちらが強いのかどちらが生き残るのか――魂と血と本能の求めるままに、ウォルフはその結末を見たい。
     何者の思惑故にか運命の悪戯故にか、生まれながら背負ってしまったこの咎を業を、どうせなら丸ごと喰らい尽くしたいのだ。
    「成程……それは確かに面白そうだ」
    「ボス……」
     ぺろりと舌舐めずりをしたこちらへ窘めるようにアレンが声を上げるが、ウォルフは聞こえなかったふりをして構わず床へ着地した。
     このガラクタの主が何を企んでいるかなど、知ったことではない。
     武骨な〈機械化歩兵(サイバー)〉が心配するような何かがあったとしても、今の自分ならそれごと叩き潰す力がある。やりたいならやればいい。利用したいならすればいい。どちらにしろ数多築いた屍の上、最後に立って嗤っているのは己のみだ。
    「遠い道のりをわざわざ、こんな辺鄙なところまで来たんだ……せっかくだから話くらい聞いてあげてもいいよ」
     鉢に盛られていた果物の中から林檎を掴み上げ、あっさりとそれを粉々に握り潰してから、ウォルフは椅子に腰を下した。
    「その上で正直に言えばいい……この僕に一体何をして欲しいのか、ね」


    →続く

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