「な…………っ!?」
     見ればガラスケースは一ミリも動いた気配を感じさせなかったが、中に収まっているはずの香炉は既にその姿がなく空っぽだ。
    「い、いつの間に……」
    「彼には三十秒もあれば朝飯前さ。まあいい……まだこの船から出られちゃいないだろう。やっぱりお前たちじゃ相手にならないな」
    「すぐに追い……」
    「無理だね、敵う訳ないだろう。こっちはいいから、ここの始末をつけておくんだ」
    「わ、解りました」
     先程の勢いが嘘のように、大人しくウォルフの言葉に従うモシャス。
     彼にとっては予定調和なのかもしれないが、小さなミスも断固許さないボスから役立たず無能、と判断されてしまえば待つのは死のみ、と言う立場にある男からすれば、その言葉が死刑宣告なのか最後のチャンスなのか解らないのだろう。
    「面白いものが見れそうだし……それくらいの簡単な仕事なら、お前たちにもこなせるだろう?」
     ちらりと開けっ放しになっているドアを見遣って、ウォルフはぺろりと舌舐めずりをしてみせる。全くもって人知を超える超感覚を持つ自分に、気づかれないとでも思っているのか――彼女は、鴉葉ミツキは相変わらず浅はかだ。
     ただの人間の無力な女一人が、一体何を持ってこの事態に抗おうと言うのか。その滑稽さはある意味、ウォルフに取っては安い娯楽とも言えた。
    「さて……先に見つかるのは一体どちらか、狭い飛行船内で愉快な命懸けの鬼ごっこと行こうじゃないか」
    「待て!! 貴様がバレットとか言うふざけたコソ泥か!?」
     悠々と踵を返した背中に叩きつけられる一喝。
     反射的にマシンガンの銃口を向けるモシャスを片手を上げて制して、ウォルフは顔半分だけ振り向いた。
     李伯龍だ。
     この場に集まったのが政財界とはあまり馴染み深くはない面々だったとしても、展覧会の責任者として、四大財閥筆頭の看板を背負う身として、顔に泥を塗りたくられたままおめおめと見過ごす訳には行かないのに違いない。
     それまでは表向きの顔で黙って事の成り行きを見守っていたものの、逆撫でされた矜持が我慢出来なくなったのか、彼はその凶暴な本性を剥き出しにして懐から銃を抜いた。
    「私の国で好き勝手出来ると思うなよ、若造が!!」
    「私の国……?」
     構えた伯龍を鼻先で嗤いながら、ウォルフがゆっくりと右手を掲げる。
    「ここがどこだろうと、そんなことは僕には関係ないんですよ、李大人。欲しいものは力づくで、例えどんな手段を使ってでも手に入れる。ただ……それだけです」
     刹那、瞬きをする間も与えずに凍った大気中の水分が、李伯龍目がけて一斉に牙を剥いた。あるものは床を突き破って、あるものは頭上から雨霰と降り注ぐ。
     人智を超えた〈魔法術〉を前に、たかが一丁の銃など何の役にも立たない。
     何が起こったのか、正しく理解出来たものはいなかっただろう。たちまち巻き起こる悲鳴と狂乱――誰もがその眼裏に、血塗れで横たわる彼を見たような気がしたはずだ。けれど実際には氷塊は李伯龍の僅か数センチ手前で停止しており、弾かれた瓦礫によって微かに額を切ったに過ぎない。
     ただそれだけの子供騙しで充分だった。
     その気になれば、ウォルフがこの船に乗っている人間全てを物の三秒でただの肉塊に変えてしまえることを知らしめるには、たったそれだけで充分だったのだ。
    「あ、そうそう」
     けれど立ち去り際、相変わらず人好きのする笑みを浮かべて、ウォルフは彼らの息の根を止めておくことを忘れない。
    「僕は怪盗バレットじゃないですよ。〈神の見えざる左手〉筆頭のウォルフ・キングスフィールドです。以後、お見知り置きを」


    * * *


    →続く

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