瞬間、ゴシャアッと凄まじい破砕音が二人の鼓膜を打った。気圧の関係で亀裂の入っていたエンベロープの自慢の強度が限界を超え、損壊したのだろう。大きな揺れが鯨鵬そのものを襲い、心なしか機体はさらに傾きながら下降して行く。
    「もしかして……爆発したの?」
    「いえ、爆発はしてません。それよりミツキさん、しっかり掴まっていてください。あと三十秒で着水させます」
    「え、あ、はい!」
     飛行機にしろヘリコプターにしろ、航空機の操縦において最も技術力を要する最大の難点は、着地する瞬間なのだと言う。例えそれまでどれほど安全に航行して来ても、ほんの刹那のズレや油断が、今までいくつもの悲劇を引き起こすこととなった。
    「十……九……舌、噛まないように気をつけて」
     ズズズ…………ンッ!!
     まるで世界そのものが崩壊しているかのような凄まじい衝撃、揺れ、轟音――シェーカーに丸ごとぶち込まれて無茶苦茶に振り回されたら、きっとこんな感じなのだろう。
     過ぎる力の暴走の前では、人間はこんなにも無力なのだと思い知らされる。
     必死にレバーにしがみついている以外、ミツキには出来ることなど何もなかった。もしこれがパネルから引き剥がされてしまったら、天井が崩落して来たら、瓦礫が壁を突き破って来てしまったら――いくつもの嫌な仮説が頭を過る。
     そんな中でも必死に、ロキはブレーキレバーを握っていた。
    「止まれえええ――っ!!」
     着水は奇跡的に成功した。けれどそれだけでこの巨体は止まりはしない。その質量分の水を掻き分け巨大な波を両脇に蹴立てながら、ぐんぐん港に迫って行くのだ。
     船影に気づいて避難してくれればいいが、そんな都合のいいことは望めまい。もし勢いが殺せず上陸して乗り上げてしまったら、周辺数百メートル以上は爆発に巻き込んで吹っ飛ばしてしまうだろう。
    ――駄目だ……これ以上〈魔法術〉の範囲を広げたら、暴走する……止め切れない!!
     あとは反対側から相殺出来るほどの衝撃をぶつけて貰うか、船体を縫い止める勢いで方向転換して貰うより他、これをしとめる術はない。
    ――縫い止める……そうか!
     は、ととある方法が脳裏に閃いたロキは、手早くミツキの周辺に空気の層を展開した。座標はかなり大雑把ながら、展示会場周辺にも。そうして最後に己の周囲に術式を展開したロキは、おもむろに操縦室の床に両の掌を触れた。探知――返って来た反応で、床板の厚み、構成素材を把握する。
    ――大丈夫……ぶち抜ける!!
     意識を集中し、素早く構成した〈魔術式〉を展開した。目映い光が狭い室内に溢れ、再び鼓膜を引き裂かんばかりの耳障りな音と共に、海水が突き上げるように浸水し、物の数秒で操縦室が沈む。
    「ロキさん、何を……っ!?」
     ミツキに問う暇も与えず、逆流する水に浚われそうだった身体を辛うじて捉える。
    「ちょっと寒くなったらすみません」
    「え……?」
     すぐさま展開した別の術式が無事に発動したのを確認してから、ロキはミツキを抱えたまま開けた穴から外へと脱出した。
     水中でも呼吸出来るのはロキの〈魔法術〉のおかげだと言うのはすぐに理解出来たが、それよりも衝撃的だったのは、真っ二つにへし折れたエンドロープの残骸だ。少しの罅でも気圧や水圧が加われば、こんな頑丈な金属すら容易く崩壊してしまうのだ、と言う事実を目の当たりにして、思わず背筋がぞっと冷たくなる。
     が、不思議なことにガスが漏れ出しているだろうにも関わらず、爆発は起きていなかった。ヘリウムは水溶性ではあるまいに、と疑問に思っているのが顔に出ていたのか、ロキが少し楽しそうに笑いながら、
    「ガスは液化させました。液体ヘリウムと言うのは、いろんな冷却材などに使われているものなんですが、あれだけキングスフィールドさんが景気よく〈魔法術〉をぶっ放して下さっていたおかげで、そこまで労力をかけなくてすみましたよ」
    「じゃあもう、飛行船は爆発しない……ってこと? ですよね」
    「まあ、取り敢えずは」
     しかし、突如強制的に墜落、沈没させられる羽目になったのだ。会場の人々がどれくらい冷静に避難出来たか、と言えばゼロである可能性だってないことはない。
     ミツキはロキに抱えられたまま、携帯端末を確認した。まだ水中ではあったが、大丈夫だ。通じる圏内にいる。
     素早くメモリーから中国支部の上長のナンバーを呼び出す。数度のコールの後、やや酔っ払ったような応答が鼓膜を叩いた。
    「何だ、こんな時間に」
    「鴉葉です! 大至急救急隊と警察を港に向かわせて下さい!! 鯨鵬が墜落しました!」
    「墜落ぅ? 何を寝惚けとるんだ君は」
    「〈神の見えざる左手〉に襲撃を受けたんです!! 李財閥の方々も応戦してましたが、まるで歯が立ちません! このままじゃ李伯龍氏も死んじゃいますよ!!」
     アルコールに浸り切った脳味噌でも、李伯龍の名は判別出来たのか、向こうで飛び上がって跳ね起きたような騒音が聞こえた。
    「ば、馬鹿者! それを早く言わんか! 全く特別専任捜査官が聞いて呆れるな!!」
    「私はバレットの専任です!! 強盗団は守備範囲じゃありません!!」
     と言いたかったものの、そう啖呵を切る前に通信は絶たれた。ふん、と不満を鼻息荒く飲み込むのをロキに苦笑されたが、この際構っていられない。
    「ミツキさん、もうすぐ浮上します」
    「え、あ、はい!」
     ぱしゃん、と水面から顔を出すと同時、何かが弾けるような気配。自分たちを覆っていた〈魔法術〉をロキが分解したのだろう。
     見れば同じように浮上した乗客たちが、漂う瓦礫にしがみついたり何だりしている様子が、あちこちで垣間見えた。女性陣は皆ドレスが水を吸って身体に纏わりつき、連れの男性に抱えられている。
     怪我をしたり意識がない者もいるのか、一刻も早い手当てが必要だった。
     が、予め連絡を入れたことが功を奏したのか、李家の方が動いていたのか、サイレンを鳴らしながら救急車やパトカーが駆けつけて来るまで、それほど時間はかからなかった。すぐに救命艇が投げ込まれ、負傷者や高齢者、女性を優先して乗せられる。
    ロキも抱えていたミツキを救命艇へと押し上げた。
    「ロキさん!」
    「僕のことはご心配なく。先に行って下さい。状況説明と指揮を執る人が必要でしょう?」
    「…………はい! あの……ありがとうございます」
     言いたいことは山ほどあったが、彼の言葉は正論だ。
     飛行船内部で起きた襲撃事件の報告、負傷者の搬送と捜索手配、逃げた〈神の見えざる左手〉とバレットの追跡などやらねばならないことは枚挙に暇ない。
     こちらの被害状況も把握して迅速に対応しなければ、全てが手遅れになってしまうのだ。何を優先すべきか、間違えてはならない。
     遠ざかるまだ水中に漂う姿へぺこりと頭を下げてから、ミツキはそのまま救命艇で港へと戻った。


    →続く

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