家に着くと、途端にボルシチのいい匂いが鼻先を擽った。食欲をそそられ、無意識の内にふんふんと鼻が動く。母アリョーナの得意料理であるそれは、双子もオルゲルトも大好物であった。
    「ただいま、母上!」
    「今日ごちそう!?」
     バタバタと足音高くリビングに飛び込むと、まだキッチンに立っていた母は笑顔で二人を出迎えた。
    「お帰りなさい。お疲れ様、二人共外は寒かったでしょう?」
     ぎゅうっと抱き締められたので、柔らかな金髪に埋めるようにして揃って冷えた鼻先と頬をくっつけると「とっても冷たい」と笑いながら、アリョーナは優しいキスをくれた。
    「手を洗っていらっしゃい。ホットチョコレートがあるわよ」
    「お腹空いたよ。おやつはないの?」
    「我慢なさい。すぐにご飯よ」
     ちぇーっと渋面をしながら、ユーリは洗面所へと向かう。ラスカーの腹の虫も抗議するような声を上げたが、母が譲らないことは二人共よく知っていた。燃費が悪い育ち盛りは、絶えずお腹を空かせていたが、彼女としては栄養の採りすぎも心配なのだろう。
    「やあ、いい匂いだ。こりゃあセルゲイも喜ぶぞ」
    「あなた、お帰りなさい」
     上着を脱いで愛妻にキスを送ると、オルゲルトは嬉しそうにゆったりと尻尾を振った。いつまでも少女のように屈託ないアリョーナと並ぶと、まさしく美女と野獣の体を成すが、それももう気にならなくなる年月が紡がれている。
     くすぐったそうに緑眼を細める彼女の柔らかな金髪にもう一度鼻先を埋めてから、
    「予定通り十八時からでいいそうだ。また少ししたら、あいつを迎えに行って来る」
    「そう、じゃあ急がなくっちゃ」
     夫婦とセルゲイは幼い頃からの友人ーー所謂幼馴染みと言うやつで、物心つく前から共に転げ回って遊んだ仲だ。
     ヴァインベルク家は名こそ古くから貴族の末席に連なっているものの、〈大戦〉終結と共にその規模は徐々に縮小され、今ではかなり形骸化したものになっていた。しかしその現実に反して、歴代の中でも屈指で色濃く血を継いだオルゲルトの異貌は、事情を知らない者からは酷く怖れられ中傷されたものだった。彼らを嗜め支え続けた二人がいてくれたからこそ、今がある。
     遠縁であることを理由に、強引にアリョーナとの婚約を進める両親へ反発していたオルゲルトの背を押したのも、この無二の親友であった。
     彼はまだ独り身ではあるが、双子が生まれてからもこうしてちょくちょく顔を出して家族ぐるみの付き合いがあるため、滅多に会うことのない親戚などより余程近しい。
     アリョーナはお揃いのマグを戸棚から取り出した。出来立てのホットチョコレートを注ぎながら、
    「そう言えば、二人の学校のこと……考えてくれた?」
    「ああ……上にも打診はしてみたよ。だがやはり……いい顔はされなかった。うちはその……あまりにも周囲と違い過ぎるから、説明をしても上手く関係を築けるのか、と」
     ラスカーとユーリがマグを受け取り、テーブルについたのを確認してから、オルゲルトは声を潜めた。
     双子は本来であれば、既に学校に通っている年頃だ。互いに一人ぼっちで成長して来た訳ではない、とは言え、難しいことは解っていてもやはり人並みに友達を持ち、たくさんの人間と関わっていろいろな世界を知り、経験を積んで欲しい、とアリョーナは思っている。現在は教師をしていた彼女が二人の勉強を見てはいるものの、教科書からは得られないものがあるのは確かだ。
     勿論、それはオルゲルトも同じ思いだった。
     しかし、現在名は残っているとは言え、事実上秘匿された存在と言っても過言ではないヴァインベルク家は、大っぴらに世間の目に触れられないのが現実であった。
     訓練場以外での〈魔法術〉行使は絶対禁止、外遊びは基地内で、往復する際には迎えの軍用四駆と言った制約がかかっている。
     世界では〈魔法術〉が全面的に撤廃されたため、自分たちの獣化部を目にした人を驚かせないように、と言う理由をきちんと理解するまでは、自由にあちこちへ出かけられないことに、よく癇癪を起こしていたものだ。オルゲルト自身も、基地本部にスモーク硝子の車で出勤する以外は、殆んど外出らしい外出をしない。
     おかげで、庭で力仕事など手を貸してくれることも多いセルゲイが、この家の主であると勘違いされることも少なくなかった。
    「そんな……うちの子たちが、乱暴を働くとでも?」
    「いや、もしも、万が一、の事故の可能性を懸念されてる。そうならないための訓練を積んでいることを、説明してるんだが……」
     熱心に何事かを話し込んでいる息子たちを見遣って、オルゲルトは灰色の双眸を僅かに細める。
    「まあ、出来る限り希望に添えるよう、何度だってかけ合ってみるさ。せっかく二人共君似の懐っこくて人好きの性質だ。ヒトとして生きるなら、他に混じって学ぶことは必要だからな」
    「あなた……頑張って」
     もう一度、今度はぎゅっと抱き締められて頬にキスを受ける。しかし、そうじゃないとねだろうとした口唇は、はっと我に返ったアリョーナが腕からすり抜けてしまったために叶わなかった。
    「………………」
    「大変……! 二人共急いでお片付けしてちょうだい! 終わったらテーブルを拭いて、お花を飾って。ほら、あなたも急がないと約束に遅れちゃうわよ!」
     全くもって忙しい限りである。
     肩を竦めて、鍋底に残っていたホットチョコレートをくい、と飲み干すと、オルゲルトは普段着用の上着を羽織って、再び寒い外へと取って返した。


    * * *


    →続く

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