「…………ユーリ?」
     俯せに倒れたユーリから、どろりとどす黒い血溜まりが広がって行く。それは彼のお気に入りのーーラスカーとお揃いのシャツの背中まで瞬く間にじわじわ侵食して、汚ならしい色へ塗り替えて行くではないか。
    「ユーリ……っ、ユー……リぃっ!!」
     半ば悲鳴のように引っくり返って掠れた声で、名を呼びながら駆け寄る。しかし足を縺れさせながら縋りついた身体は、徐々にその温もりを失いつつあった。
    「ラス……逃げ……父上、を」
     ごぼ、と血を吐き出したユーリの双眸から光が消え失せる。それはラスカーが初めて目にする生命の抜け落ちる瞬間ーーヒトがただの肉塊と化し、その意味を喪失する瞬間だった。
     嫌でも、自分の片割れの魂が、永遠に奪われてしまったことを理解する。
     刹那、
    「っあああああああ……………っ!!」
     喉が張り裂けんばかりの咆哮が、言語化出来ない激情が、ラスカーの口をついて溢れた。肺活量の限りに半狂乱で叫ぶ白銀に、外を張っていたらしい他の部隊員も集まって来る。
    「おい、何殺してんだよ……献体として二匹とも要るって言われただろ!?」
    「しょうがないじゃねえか!! あんな反則技……〈魔法術〉? とか使われたら、反射的に撃つだろ」
    「ったく……死体でも保管しときゃ何かに使えるだろ。冷凍睡眠機に入れるんだ」
    「もう片方は生かして捕まえろ!」
     無造作に無遠慮に伸ばされる手が、ラスカーを押さえ込み引き倒そうとする。これに捕まったら最期だ。きっと、自分はもっと酷い目に遭う。
    『ラスカー、逃げて!! 父上を探さなきゃ!』
     音として届くことはなかったユーリの声が、青天の霹靂のように身体を貫いた。
     そうだ。
     一人で出向いたオルゲルトも、無事かどうか解らない。いや、彼らの目的を思えば、彼こそ率先して徹底的に処断されただろう。
    『しっかり二人を守ってくれ』
     そう言った背中は、この事態を察知していたのか。覚悟していたのか。
    ーー僕がこんな弱虫じゃなかったら……僕がもっと強ければ……
     ぎゅうっ、と両の拳を握る。
     父だけ別に仕事を装って呼び出されたと言うことは、そうする必要があったと言うことだ。某か必要な手間があったのかもしれないし、訊き出さねばならないことがあったのかもしれない。
     いずれにせよ、共に襲撃されなかったのならばまだ生きている可能性はゼロではないのだ。だが、いかにオルゲルトが強かろうとも、曲がりなりにも軍本部から単独で逃げ切ることは難しいかもしれない。
    ーー父上……!!
    「おい、大人しく……っぎゃああっ!?」
     口を塞いで咆哮を止めようとする無礼な手に牙を立てた。ヒトの顎より数倍噛む力の強いラスカーだ。男は血を撒き散らして、怯んだように後退った。わらわらと伸ばされていた手が、一様に怯えて引っ込められる。
    ーー今だ……
     追撃に転じることはせず、ラスカーはその場からの逃走を選択した。
     逃げねば。
     父と合流して、今後の判断を仰がねば。
     ユーリのことも母のことも伝えねば。
     戦わなかったことを責められるだろうか。己だけ逃げおおせたことを叱られるだろうか。それでも、とにもかくにもその無事を確かめねば、己の中の何かが崩壊してしまいそうで、ラスカーは無我夢中で床を蹴った。
     捕まえようと立ち塞がる男たちの腕を掻い潜り、振り下ろされるナイフの切っ先を躱して、出口を目指す。
     が、容赦なく響いた銃声がその脚を止めた。撃ち抜かれた左から血を噴いて、カーペットの上に投げ出される。
    「素手で相手出来る訳ねえだろ。こいつの身体能力は俺たちより遥かに上だぞ。殺さねえように脚撃って止めろよ、馬鹿たれが」
     降り注ぐ聞き覚えのある声に、思考回路が停止する。
     何故彼が、今この場にいるのだ。
     理由などたった一つしかないことを理解してもなお、ラスカーは信じ難い想いで数秒振り返ることを躊躇した。
    「だから麻酔弾持って来いっつったんだ。何で用意してねえ、阿呆ども」
    「セルゲイおじさん……何で? 何で、こんな酷いことするの?」
     きりきりと油の切れたロボットか何かのように、拙くたどたどしい動きで背後に向けた視線の先、そこには悪夢のように確かな現実がーーセルゲイ・チェルノフが佇んでいた。
     彼は父のーーオルゲルトの無二の親友ではなかったのか。大事な、幾つもの修羅場を共に潜り抜け、背中を預け合って来た、信頼出来る同胞ではなかったのか。
     信じたくない、と言う思いから無意識に首を横に振って、現実を拒絶し否定しようとするラスカーに、しかしセルゲイはその茶色の双眸に微塵も同情や憐れみを浮かべることはなかった。いや寧ろ、そこには深い侮蔑と嫌悪が滲み、今にも唾を吐かんばかりに歪んだ表情で、その手に握った銃に新しいマガジンをセットする。
    「酷いこと……? それは違う、ラスカー。これはお前たちの役目なんだから、ちゃんと全うしろよ」
    「僕たちの……役目?」
    「去年の中東地区での紛争、クーデター軍を一斉掃討した、現ククル政権に対する我が政府の軍事的介入について、〈世界政府〉へけじめを着ける必要があってな」
    「父上は……参戦してない」
    「そうかもしれない。だが、実際前線にいたかどうかなんてどうでもいいのさ。曲がりなりにも、そこに名を連ねる国家が虐殺行為を行った……その責任を誰かが取らなきゃならない」
     それが何故、父でなければならなかったのか。
     ゆっくりと近づいて来るセルゲイに重ねて問いたいのに、言葉が喉の奥に絡まって出て来ない。
    「ククル政権は禁止されている〈魔晶石〉を搭載した兵器を所持していた。我々はその横流し疑惑もかけられているんだが、それは逆だとロシアーヌは主張する」
    「逆……?」
    「未だ〈魔女〉信仰に厚い狂気的な一幹部が、それを奪取せんとして一部の部隊を無断で動かした。長きに渡り権力を独占するその一族は、連邦内でも屈指の貴族であったため、本来なら〈文化改革〉処罰の対象であったにも関わらず、不本意ながら今まで表立って誰もが咎められずにいた」
     向けられる黒光りした銃口。
     まるで絶望の淵そのもののような漆黒を突きつけられて、ラスカーは嫌でも理解した。
    「父上をスケープゴートにして、全部を丸く納めようって言うの?」
    「平たく言えばそう言うことだな。難しい説明だったのに、ちゃんと理解して偉いぞラスカー」
     嗤いながら、セルゲイはラスカーの頭を引っ掴むと、そのまま床へ叩きつけた。衝撃のあまり視界に火花が散り、くらくらと世界が回る。
     しかしそんな痛みなど、ラスカーには感じている余裕はなかった。
    「そんな……そんなのって……」
     一体、オルゲルトが今までどれほどこの国に忠義を尽くして来ただろう?
     仲間を守るために、国を守るために、絶えず危険な場所で身体を張って戦って来た。規格外の回復力を誇るとは言え、瀕死の重傷を負って戻ったことも一度や二度ではない。
     それでも、敵国の民間人すら分け隔てなく助けた父の傷だらけの背中は、ラスカーに取って、ユーリに取って、頼もしい英雄であり戦士であったのだ。
     それを、
    「おいおい、笑わせるなよ。ラスカー、戦場における英雄ってのはな、言い換えればどれだけたくさん人を殺したかってことだぜ? 一人二人は殺人鬼、十人殺せば殺し屋で、百人殺して英雄たぁよく言ったもんだ」
    「…………ま、れ」
    「本当なら、お前たち双子は産まれることもなかったんだぜ? それをあいつがどうしてもと請うから、飼われてたんだよ。こう言う時、一身にその憎悪を背負うために! 今後の我が国の軍事兵器研究の礎になるために! じゃなきゃ、誰がお前らのような化物一家を生かしておくかよ!! アリョーナも馬鹿な女だ……俺じゃなくオルゲルトを選ぶから、こんな目に遭う」
     昔から不思議に思ってはいたのだ。
     どうして、軍基地の外では便利なはずの〈魔晶石〉が使われていないのか。
     どうして、〈魔法術〉が使えることを誰にも喋ってはならないのか。
     どうして、自分たちは他の誰かに見つかってはならないのか。
     成程、世界中でそれらが禁忌として処断され、忌み嫌われているのが現実なのだとしたら、本当はロシアーヌ政府こそが誓約を破り、密かに自分たちを兵力として育てようとしていたのなら、それも頷ける。
     こうして、何かあった時の切り札(ジョーカー)として、いつでも処分出来る道具として、生かされ繋がれていたのなら。
    『さすがはオルゲルトの息子だな。将来が楽しみだ。心強いよ』
     そう褒めて頭を撫でてくれた手は、いつこの首をへし折ってやろうかと言う、悍ましさを堪えてのことだったのか。
     今こうして躊躇なく、物のように床へ自分を縫い止めるくらいには。
    「黙れよ、あんたなんか裏切者で人殺しのくせに!!」
     押しつけられた金属の冷たさが肌に伝わるよりも早く、ラスカーは〈魔法術〉式を展開した。
     混乱と怒りと悲しみと憎悪と。
     無茶苦茶に乱れた集中力の元で繰り出したそれは、今までにないくらい不格好で無駄だらけの構成で、下手をすれば逆流した力がラスカー自身に返りかねないほどの酷い代物であった。しかしそれ故に、純粋で圧倒的で単純な、覆しがたい物理的な暴力としてセルゲイに牙を剥く。
    【殺せ】
     この男を許すなと、頭の中に初めて響いた獣の声に、悍ましい本能の言葉に身を委ねた。
     反応など出来るはずもない。
     刹那で凍りついた大気中の水分は、透明な刃となってセルゲイを貫き、ずたずたに引き裂いた。
     血飛沫を上げ、声を立てることもなく、どさりとその身体がーーただの肉塊になってしまったモノが、己の傍らに転がる。
    「あ…………」
     まともに被った返り血は生温くて気持ち悪い。
     どろりと光をなくして濁った目が、恨みがましく自分を責めているように思えて、ラスカーは慌てて後退った。
     またセルゲイが動き出してしまうのではないか、と言うよりも、自分がよりにもよって家族同然に親しい者でも、躊躇なく殺してしまったことが何よりも恐ろしく、そしてそれを後悔も罪悪感も覚えていないことに両手が震えた。
    「隊長……この、化物……っ!!」
    「こいつ〈魔法術〉使うぞ、どうやって捕まえろってんだよ、こんなもん!!」
     銃を構えてはいるものの、腰が引けた男たちは遠巻きにラスカーを見守ったまま近づいて来ようとはしない。
     その気になれば、彼らのど真ん中に氷柱を出現させて、一網打尽に血の華を咲かせてやることも出来たものの、ラスカーは一刻も早くこの場を去ろうと脚を引きずって外に出た。
    ーー痛い……
     肉を抉られるような断続的な痛みと、動かす度に血を溢れさせる傷。
     弾丸は抜けているから、余計な手間も心配も要らない。半日もすれば、どう見ても痕が見つけられないほど完全修復するだろう。昔から、傷の治りだけは異常に早いのだ。
     しかし、初めて鋼に身体を貫かれる感触と衝撃、大事なものを大事だと思っていたものの手で奪われた痛みは、そんなものより遥かに深く手酷い傷を、ラスカーの心に負わせた。


    * * *


    →続く

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