軍本部までは、オルゲルトに着いて何度か足を運んだことがあったから道順は何となく覚えていた。車でも四十分ほどの距離だ。決して近くはない。
     それを子供の足でーーましてや、片側は撃たれた状態で、ラスカーは駆けた。途中からは感情の方が先行してしまっていたからか、痛みや疲労はまるで感じなくなっている。そんなもので止まれるほど、この焦燥は緩くも甘くもなかった。
     どのくらい走り続けただろう?
     やがてなだらかに続く坂道が目の前に現れ、その横に緑に囲まれたフェンスの列が見えて来る。上部には外部からの侵入を防ぐためだろう、鋭い忍び返しがついており、夜の闇にあっても外灯に照らされて鈍い光を放っていた。
     父の所属するチェルノン基地だ。
     見上げれば、そこかしこで監視の目が光っている。
    ーー防犯カメラ……赤外線センサー……こっちからじゃ入れない……
     父を見つけるまでは、なるべく騒ぎを起こしたくない。どうにか死角を見つけてしまえば忍び返しは問題ないだろう。
     裏に回り込むべく藪の中を移動する。二十四時間交代で誰かが詰めている駐屯地は、この時間でも少なくない明かりが灯っていた。車や重機関係は静まり返っている。その中にオルゲルトのダークブルーの車を見つけて、ラスカーは小さく息を飲んだ。
    ーーやっぱりまだ中にいるんだ……
     いくつかある建物の内、一体どこに父はいるのだろう?
     辺りを見渡すと、もう少し行けば防犯カメラの撮影範囲から逃れられそうだった。身を低くして進み、フェンスをよじ登る。ぎりぎりの位置にまで指をかけると、意を決して硬い金網を思い切り蹴りつけた。
     ガシャン! と耳障りで派手な音が周囲に響く。が、その反動を受けてバック宙返りの要領で身体を持ち上げると、ラスカーはタイミングを図って手を離した。棒高跳びのようなきれいなラインを描いて、背面跳びで忍び返しをクリアしたラスカーは、音もなくアスファルトの上に着地した。
     赤外線センサーはごまかせたかどうか解らない。音を聴きつけた誰かが駆けつける可能性もあるだろう。
    ーー離れなきゃ……
     ラスカーは車から続く父の匂いを辿り、一際大きな建物へ影伝いに近づいた。恐らくこれがメインで使われている場所なのだろう。
     余裕があったのなら、入口付近で爆発などの騒ぎを起こして、そちらに人目を引きつけて起きたかった。誰かと鉢合わせてしまったら、限られた範囲外の正確な間取りを掴んでいないこちらが不利だ。ここは最早、慣れた訓練施設などではない。母をユーリを殺した敵の巣窟だ。
     意を決し、覚悟を決めたとは言え、頼れる相棒の背中はない。ドッドッ、と早鐘の鼓動がさらに緊張を高める。
    ーー一人でやれるのか…………?
     ぎゅっ、と目を閉じると浮かぶ、大切な二人の笑顔。もう二度と見ることは叶わない、話すことも触れることも大好きだと伝えることも出来ない、無惨な姿がフラッシュバックして、それは凍える熱となりラスカーの背中を押した。
    【やれ、許すな】
    ーーユーリ……力を貸して!!
     微かに拳を握り込んで短く息を吸うと、ラスカーは非常口のドアノブに手をかけた。
     鍵はかかっておらず、侵入者を伝える警報も制圧の電気ショックトラップもない。そのまま僅かに鉄扉を開けて、小さな身体を滑り込ませる。
     すん、と鼻を動かすと、雑多な匂いに紛れる父の痕跡を見つけた。どうやらオルゲルトはすぐ脇の階段を下り、真っ直ぐ地下に向かったようだ。
    ーー『司令官直々の話』なんてやっぱり嘘だったんだ……
     そんな輩の執務室が地下階にあるものか。
     込み上げる怒りをぎりぎりのところで堪えて、ラスカーは己の耳目に最大限集中力を傾けた。リノリウムの床は気を抜けば足音がする。見つかれば逃げ場はないのだ。
     コードを知らないために電子キーごとぶち破った扉の奥の、人気のない廊下は非常灯以外が落とされていて、長く続く白壁は何やら病棟を思わせる不気味さで満ちていた。窓がないせいもあるだろう。後ろめたさと背徳感の気配をひしひしと感じて、思わずぎゅっ、と口唇を引き結んだ。
    ーーこんなところ……父上が一体何の用があるって言うんだろう……
     急速に全身の血が足元に下降してしまったように、ぞっと総毛立った身体が冷える。進むな、と冷静な本能がラスカーの足を引き留めた。
     ここから先は、足を踏み入れてはならないと、引き返せと叫ぶ脳の片隅が本来正しいだろうことは何となく察している。それでも、だからこそオルゲルトはこの先にいるのだと、ラスカーは確信した。
     いつもなら、今までであったなら、ラスカーは間違いなく踵を返していた。
     けれど、躊躇を振り払い、奥歯をぐっと噛み締めて一歩踏み出す。もう代わりに先陣を切ってくれる弟は、いない。臍の辺りに普段の倍は力を入れていなければ、そのまま凍りついてしまいそうだった。
     突き当たり、そのまま右に折れる廊下に従って進むと、それほど行かない内に大きな扉が待ち構えている。その頭上に一際明るい照明が攻撃的な赤い光を投げていた。
    『手術中』
    「……………………」
     一瞬、その単語の意味することを、脳が拒否したのをラスカーは自覚した。病気でもない、傷を負ったでもないオルゲルトに一体何の手術が必要だと言うのだ。


    →続く

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