すぐに出て行くことは得策ではない、と判断したものか、腹を満たしても閃光は誠十郎の家を後にしようとはしなかった。初日は部屋に鍵をかけて半ば籠城気味ではあったものの、ともかくこちらに害意がないと理解してからは、様子を見ることにしたらしい。
     陣取った一室で寝起きし、ここで生活することに抵抗感がすっかりなくなったように見えるまで、一週間ほどかかった。
     何も持っていなかった少年が、生活に必要なものを一式揃え手渡したものの、相変わらず言葉を話せない閃光は、ひたすらに戸惑いと躊躇の行ったり来たりをしているようだった。何でもこの方『自分のもの』と言えるものを、手元に置いた経験が殆んどないとかで、今まで一体どんな育ち方をして来たのだろうと、ひたすら二人は心配になった。
     ともあれ『箸が使える』となると、一通りの教育を一度は受けたことがあるのだろうか、と考えた誠十郎は、閃光にクレヨンを渡してみた。本当なら鉛筆かペンが好ましいのだろうが、まだ渡した途端、それを突き刺して来ないとも限らなかったためである。
    「字は書けるかい?」
     そう問えば、何をさせる気だと言わんばかりの、訝しげな視線が跳ね返って来たものの、酷く癖のある筆跡は『かける』と刻まれた。どうやら、辛うじて意思の疎通は図れそうだ。
    「もう一度、名前を訊いても?」
    『ひかり』
     名字を名乗らないのは、名乗れない事情があるのか、名乗りたくないのかーーともかく、少年は漢字を書けないらしい、と誠十郎は判断した。
    「君はどうして、あんな酷い傷で路地裏に倒れていたのかの?」
    『おわれた。ひところすのことわつたから、おれのこともころすつて』
    「成程……そう言う、誰かを傷つけたり怖い目に合わせるのが、君の役目だったのかい?」
    『ちがう。でもおれはつよいから、ごはんとねどこやるかわりだつていわれた』
    「本当の家はどこなんだい? ご家族は? 君くらいの歳なら学校だって……」
     そう問うた瞬間、閃光の纏う空気がますます尖って、ピリピリとした緊張感を孕んだのを感じた。殺意とは違うーー沸騰するような怒気、と言うものを、長年生きて来て初めて叩きつけられる。
     癇癪を起こすか、と身構えたものの、返って来たのは『おまえにかんけいない』と言う、実に素っ気ない言葉だった。
    ーー家のことは厳禁、か……
     ただの家出少年、と言うにはいささか過剰過ぎる反応だ。では軍関係の機密な立場かと言えば、それも違うように思う。彼は管理されたことのある者特有の空気を纏っていない。つまり、シャインストーンの懸念は全くの杞憂だろう。
     それに日本は〈大戦〉途中で軍組織を維持出来ず、敗戦と言う形で離脱した。〈世界政府〉樹立に伴い、軍備は殆んど解体されている。
     とは言え、かなりの痛手を被ったにもかかわらず、もうその片鱗すら伺えないほど、凄まじい勢いで復興したのは事実だ。本来なら、混乱期には両親を亡くしたり、彼のように身元が不確かな者が溢れていてもおかしくはないはずだが、他国に比べて浮浪者や職にあぶれた者がかなり少ない。戦線に出ていた者すら、まるで数年前にあったことなど夢であるかのような顔をして、街を歩いている。
     故に、だろう。
     表も裏も世界はその仕組みをまるごと形を変えた。歪みは脆い部分に表れるものだ。なかったことにされ、取りこぼされてしまったものは、その庇護を受けることはない。
    ーーこの子が例え何であれ……
     既に『普通に』生きることは叶わないだろう、と誠十郎は直感していた。
     一体どんな生き方をすれば、まだ十代だろうにこのような飢えた獣すれすれの目をするようになると言うのだ。ましてや、あの覚醒ざまの動きは訓練されたものではないとは言え、昨日今日身につけたものではあるまい。
     戦火の中においてはそんな子供も珍しくはなかった。生きるためなら何でもする、年端のいかない少年少女を彼らは知っている。
     けれど、現代日本で閃光の生育環境は、あまりにも異常だった。
     ふと見遣ると、問いに答えるためではなく、閃光がクレヨンを走らせている。掲げられたスケッチブックには『あんたはどうなんだ?』と言う少年からの問い。
    『にほんじんじやないだろ。あんたこそなにものだ』


    →続く

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