ーー気のせいか……
ちらりと見遣った腕時計は昼をとっくに回っていて、おかげで急に腹が減っているのを思い出した。
朝一で出向いた仕事はスムーズに終了したが、これを機に気になっていた案件をまとめて片づけるようにしたのである。会社の会議室を一つ陣取っていたが、そろそろ退散しないと他の社員も気兼ねしてしまう頃合いだろう。
ーーそう言えば、ロキの奴に全然連絡してねえな……心配して飛び出して来たりなんかしてなきゃいいんだが……
戻ろう、と書類を片づけて立ち上がりかけた瞬間、携帯端末が震えて着信を知らせた。画面には非通知、の文字。
「…………誰だ?」
「やあ、この前はどうも世話になったね」
受話器越しに鼓膜を叩いた声音に覚えがないとは言えない。ジェフリー・ロバーツ一ー声帯模写のために散々聞いた声だ。
どうしてこちらの連絡先を知っているか、と言うのは訊くだけ無駄だろう。このタイミングでの電話とあれば、用件はほんの僅か懸念したことが現実となった、凶兆なのは間違いあるまい。
けれど閃光は、焦燥も不安も全部押し殺して間髪入れずに不敵な答えを返した。
「よお、こちらこそ。まさか、あんたの方から連絡をもらえるとは思ってもなかったぜ。今さら何の用だ?」
「『何の用』はないだろう? 君は〈在りし日〉のみならず、うちの貴重な〈魔導人形〉まで盗んで行ったそうじゃないか。余計な獲物には目もくれない、と言う宣伝文句は些か大仰だったようだな」
「…………俺から口にしたことは一度もねえよ。あれだって〈魔晶石〉がついてんだ。摘発されたら泣かなきゃならねえのは、あんたの方だろう? 寧ろ感謝されてもいいくらいだと思うがな」
「ご親切にどうも。まあ、人形は先程こちらに自分で戻って来たんだがね……いつ何時うちのヤバい事情を漏洩されるか、うかうか寝てもいられなかったから、安心したよ。これを機に廃棄するつもりだ。まったく、大金を積んだ割にはとんだ不良品だった」
「…………へえ、そうかい。そりゃ勿体ないな、残念だ。まあ、俺にゃ縁がなかったってことかね」
ゆっくりと言葉のナイフが差し込まれる。
互いの腹の内を探り合うために突き立てるのは、毒の滴る刃だ。どこをどんな風に傷つければ相手を転がし掌の上で弄べるのか、熟知している者の前で焦りを隠し平静を装うためには、膨大な気力が必要だった。会話の他に何かロキの居場所の手がかりとなりそうなものがないか、必死に耳を澄ます。
けれどどれほど高感度の聴覚を誇っていようと、背後で何の物音もしていなければ意味はない。
「だが、一つそれ以上残念なことに」
面白がるように愉悦の滲んだ言葉が続く。
「この〈魔導人形〉……自分で私との主従契約を不履行にして、君と新たな契約を結ぼうと画策していたようでね。このまま廃棄してしまったのでは、君にも都合が悪かろうと……こうして連絡させてもらった次第なんだよ。今のままだと、所有者として君の名前が履歴に残る。うっかり〈政府〉に見つかったりするとマズいんじゃないかと思ってね」
「…………」
ハッタリだ。
閃光はロキと主従契約を結んでいない。
けれど、あの時ジェフリーの権限を消すために一度飲み込んだ個体情報は、確かに記録されているだろう。
それよりも問題なのは、この男がロキを本当に奪い返したか否かと言うことだった。わざわざ連絡を寄越すくらいだ、これは嘘でも冗談でもあるまい。だとすれば、ロキは無事なのか。力尽くで連れ去ろうとしたなら、彼が無抵抗だとは思えなかった。それならば、そこそこの騒ぎにはなっているだろう。気づいたはずだ。
ぎゅ、と端末を握り締め、口を開く。
「…………で?」
「何?」
「面倒くせえ駆け引きは、この際なしにしようぜ。餌にしたいなら、もっと上等なものを釣り下げてくれよ。あんた、俺にはいくつの名前があると思ってる? 例えまぐれ当たりでその一つと同じものが書かれていたとしたって、〈文保局〉や〈政府〉機関の連中が『俺』に辿り着く可能性はゼロだ。まさかそのくれえで、せっかく盗った獲物と交換だ、なんて取引を持ちかけようって、セコい魂胆じゃあるめえな?」
ズバリ今からそのことを持ち出そうとしていたジェフリーは、言葉を封じるような先手を打たれて、思わず吐き出しかけたものを嚥下した。
この青年は〈魔導人形〉との間に並々ならぬ絆を築いているように見えたからこその攻め方であったが、そもそもその根底となる関係性が一方的なものであるならば、この目論見自体破綻してしまう。
「……ならば、このまま〈魔導人形〉を処分しても構わないと?」
「そもそも〈在りし日〉はもう俺の手元にはない。好きにしろよ。元はテメーのとこのだろう? 俺には関係ねえ」
「…………そうか、残念だ。せめて一時でも共に過ごした相手に、お別れくらいは言わせてやりたかったんだが」
「あいつを散々道具呼ばわりしてたあんたにしちゃあ、随分お優しい配慮だな」
「…………後悔するぞ。お前の欲しい〈魔晶石〉は永遠に手に入らなくなる」
「んなもの要らねえよ」
呪詛じみた言葉が吐き捨てられ、ぷつりと通信が途切れる。
閃光はぎり、と奥歯を軋ませて携帯端末を粉砕しそうな憤りをどうにか踏みとどまると、すぐさまスワロウテイルへ連絡をつけた。
「はいはーい、二代目の坊っちゃんどうしたの?」
「この端末に直前で通信して来た奴、逆探知して場所を割ってくれ」
いつもよりオクターブ低いドスの利いた声に何を感じたのか、情報屋は何も聞かずに茶化しもせずに、すぐさま位置情報と住所を送ってくれた。
「…………ここが何だか解って訊いたのかぃ?」
見ずとも解ってはいたが、指し示されたのは埠頭の一角だ。その膨大な敷地は無論、トイボックスが各大都市に所有する自慢の『揃わないものは何もない』物流倉庫である。
「例え合衆国国防省(ペンタゴン)でも関係ねえ」
「じゃあついでに一つオマケしてあげる。彼らがVIP(強調)のための品を置いているのは、存在しないはずの零番倉庫だよ」
日本国内どころか〈世界政府〉が禁止した銃器、薬物、人身売買の戦利品、密輸品が山と積まれた闇市(ブラックマーケット)の要。世界経済を動かしているが故に、司法も足を踏み込めないその場所に、たった一人で喧嘩を売るのは愚か者の所業だ。
けれど、だからこそ『何を盗られても誰にもどこにも文句を言えない』。
「…………恩に着る」
「いいよ、ボク様は坊っちゃんに張ったからね。死なずに戻れたら今度こそ生写」
ぶつりと通信終了のアイコンをタップして、懐から取り出した煙草をくわえ火をつける。
「……俺たちの情報を奴らに売ったのはテメーだろうに、どの口で言いやがる」
けれど、甘かったのは自分の方だ。
スワロウテイルはあくまでも情報屋である。自分の仕事をしただけで、彼だか彼女だかは閃光の味方でなければ仲間でもない。勿論、友達でも。
裏社会では、信頼と言う油断をした者から負けて死んで行く。
ーーだからこそお前は……
渇いた室内の空気に紫煙が溶けて消えて行く。
ーーお前はここにいろよ……
* * *
→続く
COMMENT FORM