駅の構内は相変わらず今日も人波で溢れている。
    携帯端末片手に商談をしながら足早に通り過ぎるサラリーマン、旅行に行くらしいキャリーを引いた老夫婦、サボリなのかスポーツバッグを肩にかけた制服の学生――本来なら交わることのない人生が、この限られた空間の中でほんの一瞬だけ交錯する様は、端から離れて見ていれば何時間経とうとも飽きぬほど興味深い。
     ざわざわと静けさとは無縁の雑音が行き交ってはいるが、誰も他人にあまり注意を向けていないせいか、それは思うほど不快ではないと大半の者は感じるだろう。しかし根っから人混み嫌いの人間からすれば、世界屈指の乗降客数を誇るシンジュクの駅はやはり鬼門でしかなかった。
     依頼でもなければ、わざわざこんな眩暈しかしない空間に足を運んだりしない。それだって今日は手の空いている者がいないと言う最大の理由がなければ、自分が首を縦に振ることはなかっただろうと天狼閃光(てんろうひかり)は団体客を避けながら、眉間にまた一つ皺を刻んだ。
    ――どこもかしこも禁煙だってのも気に入らねえ……
     閃光は今トレードマークとも言えるくわえ煙草をしていない。見咎めたお節介な誰かが、すっ飛んで来るのを防ぐためだ。必要以上の騒ぎを起こして、自らの首を絞めることは避けねばならなかった。何しろ閃光の生業は〈魔晶石〉専門の泥棒――裏の社会に轟く『怪盗バレット』の名をその界隈で知らぬ者はない。
    ――約束のカフェは……ああ、アレか。
     世界規模で展開されているコーヒーチェーン店の看板を見つけて、位置のずれたサングラスを指先で押し上げる。今日も今日とてその手は黒い革手袋に覆われていた。
     こう言った類いの店は、いまや平日昼間だけではなく終日禁煙だ。ヘビースモーカーである閃光からしてみれば拷問部屋に等しい場である。どうやらまだ煙草にはありつけそうにないと見て、常からあまり高い方ではないテンションとやる気が落ちそうになるのをどうにか踏み止めた。仮にもビジネスに私情を持ち込んではならない。
     その時、不意に背後から何かに勢いよくぶつかられた。振り返って視線を落とせばまだ十歳前後の少年だ。
    「ごめんなさい!」
     はしゃいでいたのか急いでいるのか、とかく子供は視野が狭いものだ。他の人間であったならば「気をつけろよ」などと声をかけないまでも、元気だなと黙ってその小さな背中を見送ったことだろう。
     が、閃光はそのまま走り去ろうとする少年の襟首を、少しの容赦もなく引っ掴んだ。その勢いにぐえ、と潰れた蛙のような声が上がり、周囲の人間からは明らかにカタギではない彼の雰囲気に「あーあ寄りにも寄って……」とでも言いた気な視線が飛んで来る。
     しかしそんなものなど羽虫以下にしか感じない万年不機嫌面男は、常に眉間に居座っている皺をさらにキツくしながらサングラス越しにじろりと少年を睨みつけた。
    「出せ」
    「え?」
    「今お前がスった俺の財布だ。出せ。それともこの場で身包み剥がれたいか?」
    「何のことですかぃ?」
    「解った。公開ストリップがお望みだな」
     唸る獣のような低音でそう告げると、彼の双眸は何故かきらきらと輝いて閃光を見返して来る。それは今この場面で浮かべるにはあまりにも不似合いな――無理矢理言葉に変換するなら尊敬の眼差しだった。思いがけずそんなものを向けられてさすがの閃光もたじろいでいると、少年はその手の拘束を抜け出してくるりと彼に向き直った。
    「さ……さすが怪盗バレットでさぁ!! オレ、これで今まで誰かに気付かれたことなんかなかったのに!!」
    「いいから返せ」
     すぐに元の不機嫌面に戻ると、閃光は先程告げたように遠慮なく少年の上着を捲り上げた。ウエストに差し込んでいた黒い財布を引き抜くと、
    「こんな雑な仕事で気付かれなかった、だ? よっぽど間抜けな素人ばっかり狙ってやがったんだな。残念ながらこいつは偽物だ」
    言いながら開けて見せた財布の中には『ハズレ』と大きく書かれたカードのみが入っていて、その隅にはまるで少年の喜びを嘲弄するように嗤う狼のイラストが刻まれていた。それを投げ捨てた閃光の掌中には、いつの間にか人気キャラクターを象った少年自身の財布が握られている。
    「俺がバレットだと解って喧嘩を売りに来たんなら、幸いだったな。忙しいから見逃してやる。十秒待ってやるから今すぐ失せろ」
    「ちちち違うんだよ、旦那!!」
     ぽいっと投げ捨てられた財布を慌てて拾い上げると、少年はそのまますたすたと立ち去ろうとする黒スーツの背中にひしっとしがみついた。それを苦もなく引き摺りながら、閃光は苛立ちに声を荒げる。
    「放せクソガキ、忙しいっつってんだろ!!」
    「オレは旦那に頼みがあって来たんでさぁ!」
    「なら一昨日来やがれ。俺は今から別の仕事があんだよ。悪いが、そんなガキの使いをこなしてる暇なんぞねえ」
    「仕事の依頼じゃないんでぃ!」
    「じゃあ何だ」
     いい加減にしろと少年を引き剥がすも、その真っ直ぐな眼差しは逸らされることなく閃光に向けられた。彼は唐突にがばりとその場に土下座をし、
    「バレットの旦那、どうかオレを弟子にして下せえ!!」


    * * *


    「で、そのまま連れて来たと言う訳ですか? 貴方がそんなに仕事をナメてるとは思いませんでした。とても残念ですわ」
    「ナメてねえ。仕方ねえだろ、あの場であれ以上騒いでたら面倒くせえことになる」
    「仕事をナメてる訳ではないのなら、耄碌したのか呆けたのか……少なくとも子供に絆される腑抜けなら、早めに引退した方が良いのではなくて?」
    「テメー、喧嘩売ってんのか」
     正面に座る仲介屋の仁科(にしな)いろはの辛言を渋面で払い落としてから、閃光は煙草代わりのブラックコーヒーに口をつけた。煎れてから随分時間が経っているらしいそれは、温度こそ適度に保たれてはいたものの酸化してすっかり風味が失われている。チェーン店ごときに美味しさを求めてはならないが、それにしても不味い。
     隣には先程弟子入り志願をした少年が好奇心いっぱいの眼差しで座っている。いろはから指摘されるまでもなく、この現状を一番腹立たしく感じて苛ついているのは他でもない自分自身なのだ。閃光は怪盗を生業とすることを積極的に公言している訳ではないものの、逆に徹底的にひた隠している訳でもない。それは警察や司法の追跡の手を逃れる自信があるからでもあったし、例え捕まったとしても脱出出来る術を持っているからだ。
     が、彼の手を借りる依頼人はそうではない。その裏の繋がりが水面下の関係が表に出ればマズい人間はわんさかいる。故にわざわざ秘密裏に依頼を寄越すのだし、目の飛び出るような謝礼を要求しても文句を言わないのだ。例え仲介屋を挟んでいても、彼らが自分に辿り着かれるかもしれないと言う危惧を少しでも抱けば、今まで苦労して積み上げて来た信頼を失うことは容易い。
     そうでなくともいろはの第一声が「意外ですわ。貴方に隠し子がいたなんて」だったおかげで、逆撫でされた神経がささくれ立っている。深窓の令嬢然とした大人しそうな見た目に騙されがちだが、彼女はいちいちピンポイントで他人の逆鱗を刺激して来る嫌なタイプの天才だ。
    ――この歳でこんなデカい子供がいて堪るかってんだよ……
     そんな胸中の呟きが聞こえた訳ではないのだろうが、いろはは軽く肩を竦めると、
    「まあ構いませんわ。そちらのトラブルの始末はそちらでつけて下さいましね。依頼人のことを口外したり、任務に失敗したりなんてことがあれば、二度と仕事が来ないことは解っていらっしゃるんでしょうし」
    「テメーに指図される覚えはねえ。やべえと思うなら他を当たればいいだろ」
    「他で事足りるなら貴方に頼みませんわよ。〈魔晶石〉関係は特にヤバい筋か警備が厳しいところばかりなんですもの。進んで引き受ける物好きはそうそう見つかるものではないですわ」
     もう数年はこうしたやり取りをしているのだから、彼女との付き合いも結構長い部類に入る。お互い文句を言いつつも、何やかんやでそれなりに信頼はしているのだ。
     口唇を僅かに噛んでから、いろははA4サイズの茶封筒をこちらへ押しやった。どこにでも売っている事務用のそれから閃光の指先が引っ張り出したのは、数枚の写真と建物の見取り図、コピーらしき書類の束である。写っているのは高級住宅とその住人らしき家族、そして宝石の散りばめられた小箱だ。大きさは宝石箱くらいか。
     閃光は小さく口笛を吹くと、
    「こいつが獲物か。この一等デカい蒼い宝石が〈魔晶石〉だな」
    「ええ、オルゴールになっていますの。時価三億ってところですわね」
    「さ…………っ」
     想像など遙かに超えていたのだろう金額に少年が叫び声を上げるよりも早く、閃光の掌がその口を覆った。もがもごと暴れる彼を力尽くで押さえ込む。
    「解った。いつまでだ?」
    「依頼人はあまり時間をかけたくないみたいですわ。なるべく早く、待っても三日後の夜明けまでとの申し出でした。どうします?」
    「引き受けた。依頼人にはそう伝えろ」
    「…………解りました。では、依頼料はいつもの方法で渡しますわ」
     そう言うと、カフェラテを飲み干してから「じゃあよろしく頼みます」といろはは席を立った。そのまま振り向きもせずに出て行く背中を見送って、ようやく閃光は少年から手を離す。こちらへちらりとも視線をやらず、苛立ちと共に残ったコーヒーに口をつけるその横顔を見遣りながら、少年はオレンジジュースを啜った。
     本当なら、こんな席に部外者を関わらせてはならないことくらい、少年にだって解っている。
     この世界では一度貼られた負のレッテルを剥がすことは難しい。たった一度の失敗で全てを失う可能性だってある、ギャンブルのような業界だ。これまで長く高ステータスを誇り維持して来た『怪盗バレット』にとって、少年を口封じに始末してそれを守ったとしてもおかしくはない価値はある。
    「おい、お前名前は?」


    →続く

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