瞬間、
    「誰!?」
     まるで緊張感をつんざくように鋭い誰何の声が上がった。跳ね起きた少女の姿に咄嗟に引っ手繰るようにしてオルゴールは手にしたものの、後退って距離を取ることだけがフェイに出来た唯一だった。
    「え、えっと……」
     不審者と騒ぎ立てられたら一巻の終わりだ。今は逆光でこちらの顔はよく見えないかも知れないが、だからと言って「バレットの旦那の代理でさぁ」などと名乗る訳にもいかない。躊躇しているこちらに威嚇するような視線が投げられる。
    「まあ、別に誰だって構いやしないわ……その手にしているオルゴールを返しなさい。兄様からのプレゼントに汚い手で触らないで」
    「で、でも……アンタはこいつを貰ってから、体調崩したんでしょうに。傍に置かない方がいいと思いやせんかぃ?」
    「…………それとこれとは関係ないわ。いいから返して」
     やはり、綾香は自分の義兄が何のためにこれをプレゼントしてくれたのかを知らないのだろう。そもそも〈魔晶石〉の存在を知っているかどうかだって怪しい。
    ――いや、違う……
     例えそのどちらも知っていたとしても、きっと彼女の答えは同じだっただろう。綾香にとってこれは、晴貴から貰った彼と自分とを繋ぎ止めている唯一の糸なのだ。殺意や悪意の乗せられた枷だったとしても、赤の他人の二人が家族でいるために必要な鎖なのだ。両親を亡くした彼女にとって頼るべき存在は唯一この義兄しかいない。
     あの日以来、フェイが無我夢中で怪盗バレットを探し続けたように。
     ずきりと痛む良心が足を縫い止める。本当に彼女の希望を奪ってしまってよいものか。
     少女が立ち上がる気配。もう限界だ。今逃げなければ離脱する機会は失われる、と警告する本能。そうだ、目的の品は掌中にある。逃げろ。じり、と床に足を滑らせれば、同じだけの距離を詰めて来る白い影。
    「お願い……大事なものなの。盗らないで」
    「でも……でも、アンタはこれを持っているべきじゃないんでさぁ!!」
     揺らぐ視線と軋む声を振り切るようにして叫び、入って来た窓へと走る。が、フェイの言葉を耳にした少女の表情は、懇願から赫怒へと豹変した。
    「絶対アンタみたいなコソ泥に、そのオルゴールは渡さないんだからっ!!」
     ネグリジェの裾をたくし上げて、少女はそこに忍ばせていたらしい銃をこちらに向けた。暗闇の中でも僅かな月の光を弾いて鈍く光るその口は、まるで冥府の深淵のように昏い。
    「…………っ!!」
     咄嗟に振り向いてしまったフェイは思わず足を止めた。
     閃光からは「何があっても目的の物を手にしたら何も考えずにとっとと逃げろ」と言われていたにも関わらず、人生で初めて向けられた凶器に――指一本で間違いなく自分の命を奪える代物に、恐怖で身体が強張り、竦む。
     相手とて素人だ、閃光のように寸分違わず心臓や頭を狙い撃てる訳ではない、撃たれたからと言って致命傷になると言う訳ではない、と思考回路の冷静な部分では理解出来るものの、一度目にしてしまえばまるで蛇に睨まれた蛙のように全身の血が凍る。
    あの時目にしたシスターや友人の死に様が脳裏に蘇る。
    「これ、は人を……殺してでも、守らなきゃならないものなんですかぃ?」
    「少なくとも私にとっては、ね。でも、当たらなくても銃声がすれば警備が飛んで来るわ。そうしたらアンタは捕まる。別に殺さなくたっていいもの……運悪く死んじゃったらゴメン、だけどね」
     カチリ、と弾丸が装填される冷たく乾いた、音。
    「だから早くそれを……兄様から貰ったオルゴールを返し……」
     トッ、といつの間にか少女の背後に現れた人物が、その細い首筋に手刀を落とした。力なく倒れる華奢な身体を危な気なく受け止めたのは、誰であろうくわえ煙草の閃光である。
    「だ……旦那!!」
    「ったく……遅えと思って見に来てみれば、たかが女に銃向けられたくらいで狼狽えて……何をもたくさやってやがんだ馬鹿」
     少女を軽々と抱え上げてベッドへ横たえると布団をかけ直してから、閃光は懐を探って何かを投げて寄越した。受け止めたそれは、今フェイが持っているのとまるで同じオルゴールである。が、オーダーメイドの特注品だと言っていたそれが二つもある訳がない。
    「忘れ物だ。摩り替えて来いっつっただろ」
    「え、あ……」
     慌てて渡された方をベッドサイドのテーブルに置く。もう片方をおずおずと差し出すと、一体どこで見分けているのかフェイには見当もつかなかったが、小さく鼻を鳴らしてそれを懐に仕舞い込んだところを見ると、どうやらちゃんと本物であったようだ。
    「言ったはずだ。相手がいい奴だろうが悪い奴だろうが、俺は俺の目的のために〈魔晶石〉を盗む。だが、それに縋って生きてる奴にとっちゃ、いかに禁じられたものであろうと害を成すものであろうとそいつが必要なんだ……例えその信じるものが本物であれ偽物であれ」
     くしゃり、と黒い革手袋越しの手がフェイの頭を撫でる。
    「現場に留まるのは長くて三分。とっとと帰るぞ」
    「…………はい」
     ちらりと一度だけ意識を失った少女の顔を振り返る。目元に滲んだ涙は、己の大事なものをむざむざと奪われる悔しさ故にだろうか、それとも真実を知っていてもなお、それに縋らねばならない己の弱さに対する不甲斐なさ故にだろうか、と自問しながら、フェイは入って来た時とは反対に窓から庭へ飛び降りた。


    * * *


     翌日閃光に言われたまま、フェイは先日とは違う駅構内のファーストフード店へと足を運んだ。いろはへ獲物のオルゴールを渡すためである。
     ピークになりそうなランチタイムの時間帯は外したものの、平日昼間にも関わらず店内は客で溢れており、小さく押し込まれた印象の座席は八割ほどが埋まっていた。よく考えれば、この手の店は長く居座る客はそうそういないものの、いつ訪れても必ず誰かの人目がある。
    ――こんなとこで大丈夫なのかね……
     少なくとも、こう言ったやり取りはもっと秘密裏にこっそり行われるものだと思っていた。しかし、先日の依頼の話の時と言いその考えは素人のものなのかもしれない。隠そうとすると却って悪目立ちして怪しく見えるものだから、一番見られてはならないものほど堂々と晒しておくと言っていたのはテレビに出ていたマジシャンだっただろうか。
     現われたいろははやはり裏社会に通じている雰囲気など微塵も感じさせない清楚な出で立ちで、差し出したオルゴールを笑顔で受け取った。
     これもあちこちに店舗のある有名な雑貨屋の包みでカモフラージュしてあるとは言え、慣れないフェイにとっては口から心臓が飛び出そうなほど冷や冷やものなのである。ここに来るまで誰かに気付かれるのではないか、通報を受けた警察から職質を受けるのではないかと泣き出しそうになりながらやって来たのだ。これならまだ、昨日南条邸に侵入した時の方が落ち着いていた気がすると自分でも思ったほどである。
     閃光ではなく自分が来たことを訝しく思われるのではないかと心配したが、こう言ったことは日常的であるようで、彼女は「あら、今日は例の新人くんなのですわね」と言っただけで手にしたこの前と同じカフェオレに口をつけた。
    「それで……こうして『おつかい』を任せられていると言うことは、あの万年不機嫌面男を納得させるだけの仕事をこなせたと言うことですかしら?」
    「解りやせん……ただ、『これ持ってけ、今すぐだグズグズすんな』って蹴り出されちゃって」
    「相変わらずですわね。人使いの荒いこと……貴方の方こそ幻滅したんじゃなくて? 憧れの『怪盗バレット』の実態を知って」
    「いえ……ただ、旦那はこの前貰った資料なんて殆んど見てないはずなのに、この持ち主の子のこと解ってたのかなって思って」
     でなければ、予め獲物を摩り替えて来いなんて偽物を準備出来ているはずがない。例え自分の命を奪うかもしれないものでも、彼女に取っては唯一家族との繋がりと信じて縋るものであったことを知らないで、あんな言葉が出て来るはずがないのだ。
     フェイがそう言うと、いろはは何でもないことのように頷いてみせた。
    「当然、彼のことだから全部知っていたでしょうよ。いつも別口で提供された情報の裏を取ってますもの。閃光は私のことも依頼人のことも百パーセント頭から信じるほど愚かじゃありませんの」
    「別口って……」
    「彼を贔屓にしてくれる世界一の化け物ハッカーに調べて貰っているのですわ。獲物の〈魔晶石〉の特性、来歴から持ち主の関係者、その懐具合まで余すことなく、ね。完璧な仕事をするには万全の準備が必要不可欠、と言うのが口癖ですし。集めた情報からそれくらいの事情を察するのは、閃光にとっては朝飯前ですわ。貴方より子供の頃から、この世界を裏側から見続けて来たんですもの、捻くれた性格になるのも無理はありませんわね」
    「…………」
    「まあ、それくらい調べておかないと、ちょっとしたミスが命取りになる仕事ですもの……念には念を入れ過ぎるくらいでちょうどいいのかもしれませんわ。情報と言うのはあくまでも、客観的事実に基づくものでなければ信じるに値しないものです」
    「そんなもんですかぃ?」
    「ええ。あの用心深さと警戒心の強さ……まるで本物の野生の狼みたいなその習性こそが、私が彼を信用評価している最たる理由ですもの」
     それは確かに彼女の言う通りなのだろう、とは思う。足元を掬われないように本来なら知らなくていいことにまで注意を払って、隠しておきたいだろう実状を把握し秘密を掌握し仕事に臨むのは、閃光のプロとしての在り方なのだろう――例え仕事が終わればすぐにでも忘れてしまいたくなるような、抱えたい訳ではないはずのものでも。
     同じことを求められて平静を保っていられる自信は、フェイにはない。
    ――オレには向いてないってことなのかねぃ……
     落胆してしまったとしたらそれは自分自身に、だ。始めから解っていたではないか。閃光と自分とでは何もかもが違い過ぎる、と。身体的なものではなく精神的な意味で、きっと自分は彼に遠く及ばない。
     閃光が何度もやめておけと口にしていたのは、こう言った結末が多々あることを熟知しているからだったのだろう。そして恐らくは、フェイがこの後味の悪さに耐えられるほどのタフさを備えていないことを看破していたからだったのだろう。
     けれどフェイは彼の不器用な心遣いを汲まずに、この世界へ足を踏み入れてしまった。
     ならば後悔するより、一日でも早く慣れて痛みに疼く心を受け流す方法を身に着けるより他に術はない。
     俯いてしまったフェイへ呆れたように溜息をついてから、いろははカフェラテに口をつけた。
    「別にこのまま戻らなくても……閃光は貴方を責めたりしませんことよ。まだその気があれば引き返せるんじゃなくて?」
    「いえ……やっぱり、オレの選択は間違ってやせんでした。絶対オレも旦那みてえな立派な怪盗になってみせやす」
     視線を上げていろはを真っ直ぐに見遣る。
     彼の心遣いを途絶えさせてはならない。〈魔晶石〉によって人が不幸になるのではない。誤った使い方をする者のせいで誰かが不幸になっているだけだ。あの蒼い石はあくまでも道具に過ぎないのである。その存在に救われている人だっているはずだ。
    だからこそ、閃光は手にした獲物を元の持ち主に返したりするのだろう。痛みを抱えて蹲っているばかりではなく、前に進む力にするために。
     そんなフェイの心粋が伝わった訳ではないのだろうが、いろはは面白がるように小さく笑って肩を竦めてみせた。
    「そう……彼の扱きに耐えられるかどうか期待していますわ、新人くん」


    * * *


    「は? 不合格に決まってんだろ。俺の手を借りねえって条件だったはずだ。使えねえ奴を弟子にする趣味はねえ。失せろ」
     いろはに教えて貰った閃光がよく足を向けると言う喫煙席のある古いカフェを訪れたフェイは、素気なくそんな辛辣な罵倒を投げつけられて思わずその場でふらりと倒れた。師と仰ぐ男の隣に座る彼と親しいらしい欧州人からは「あーあ……」と言いた気な若干憐れみを含んだ視線が飛んで来るが、そんなものでブレイクハートのダメージを軽減出来るはずもない。
     紫煙を撒き散らしながらブラックコーヒーを啜っていた閃光は、床に蹲って涙をこぼすフェイをちらりと一瞥だけ見遣ってから、
    「まあ、でも昨日の便利グッズは正直驚いたからな……エンジニアとか技術屋とかその辺りなら、贔屓にしてやらんこともない」
    「本当ですかぃ!?」
     たちまち表情を輝かせて元気を取り戻したフェイに思わずうんざりしてしかめっ面をしていると、追い打ちをかけるように皿を拭いていたマスターが力一杯閃光の肩を張り飛ばした。その凄まじい勢いにさすがの彼もげほ、とコーヒーを噴き出す。
    「んもうやっだぁ、閃光ちゃんったら! あんな年齢で道を踏み外させる訳には行かねえから、とか何とか言ってたクセに、本人にはあんな酷い言い方して! 相変わらずツンデレなのねえ」
    「痛ってえなこの馬鹿力!! 元レスラーが本気でツッコミ入れてんじゃねえよ!!」
    「照れちゃってもー、可愛いんだからぁ。でもそう言うとこ好・き・よ♪」
    「よーし、解った。一回その腐った頭きれいに吹っ飛ばしてやるから。痛くねえから。あっと言う間にあの世に逝けるから」
     カウンターへ行儀悪く足を乗せてマスターの胸倉を掴み上げ、銀色の銃を眉間に突きつける閃光に、呆れたような溜息をついてから隣の欧州人は優しい笑みを浮かべてフェイに手を差し出した。それを借りて立ち上がる耳元に、こっそりと教えてくれる。
    「本当ですよ。閃光が他人をスカウトするなんて、天変地異の前触れくらい滅多にない珍しいことなので、良かったら前向きな方向で考えてみて下さいね」
    「いえ…………」
     立ち上がり、服の埃を払ってからフェイは既に決めていた言葉を口にした。
    「元々旦那には弟子入り志願してたんで……オレ、やります。是非、やらせて下せえ」
     真っ直ぐに高い位置にある蒼い双眸を見つめながら答えると、彼は嬉しそうに破顔してからもう一度改めて手を差し出した。今度は助け起こすためではなく、握手を交わすために。
    「では、よろしくお願いします。僕は閃光の相棒を務めさせていただいているロキと申します」
    「俺はフェイでさぁ。こちらこそよろしくお願いしやす」
     瞬間――銃声と同時に、カウンター向こうの棚に収まっていた高級そうなカップが幾つか派手な音を立てて粉々に砕け散った。どうやらすぐ傍らでは本気のファイトが開始されたらしい。
    「…………」
    「…………」
    「まあ、ちょっと偶に騒がしいこともあると思いますけど」
    「は、はあ……」
     一ミリも笑顔を崩さずにそう言うロキに、若干の心許なさを覚えて曖昧な愛想笑いを浮かべたものの、何故かフェイは後悔することはないだろうと言う、予感と言うにはあまりにも確信めいた想いを感じていた。


    以上、完。

    COMMENT FORM

    以下のフォームからコメントを投稿してください