オペラ座の地下には正体不明の怪人が住んでいる。彼の秘密を暴こうとした者にはもれなく死の災いが齎される――
     それは昔から伝わる他愛のない噂話だ。所謂怪談だの都市伝説だのと言った類いのものに括られる、オカルトじみた根拠のない妄想である。言ってしまえば妖精やモンスターのような御伽噺に過ぎない。
     何しろオペラ座は、建築されてから四世紀を優に超える長い歴史を持つ建物だ。この芸術の都花のパリスの中心にずっしりと根を下ろし、国の移り変わりを時代の流れを見守って来た象徴なのである。古い、とたった一言で表してしまうには些か重すぎる過ぎた時間の中には、勿論好ましくない事例や痛ましい出来事も多々あったに違いない。
     しかしそれを口さがなく吹聴して回るのは分別もつかない、理性よりも面白おかしい噂を重んじる年頃の娘くらいなもので、良識的かつ思慮深い立ち居振る舞いをしなければならない大人の代表のような自分たち支配人が、そんなデタラメに振り回されているのはいかがなものか、とルノーは思っていた。
     だから例えこのところ奇妙な噂を――例えば誰もいないはずの楽屋で声が聞こえただの、黒マントの男が舞台裏を歩き回っているのを見ただの、原因不明の小火が立て続けに起こっただのと言った報告を耳に入れても、それは団員たちの気のせいだとか注意が足りないせいだと固く信じていた。
     同僚のフィルマン支配人はすっかり怯えてしまい、警察か軍部に定期的に巡回に来て貰おうなどと提案して来たが、この長きに渡って守られて来たオペラ座の名誉と歴史と伝統にかけて、そんな不粋でみっともない真似など出来ようはずもない。観劇に訪れる客は皆、スキャンダルや揉め事を嫌う上流階級、貴族に名を連ねるような人々ばかりである。彼らの援助があるからこそ巨額の運用資金をどうにかやりくり出来ているのだ。興が醒めるようなことをしてその足が遠ざかっては、経営はたちまち立ち行かなくなるだろう。
    ――私が支配人の間にそんなことがあって堪るものか……
     ただでさえ、最近抱え込んだ歌姫のことで頭が痛いのである。
     これ以上の厄介事が起こる前に何とか団員たちを落ち着かせねば……ルノーが寄った眉間を揉み解しながら書類を手にした時、忙しない調子のノックで扉が叩かれた。
     案内係を務めているニルスだろう。何度言っても直らないその癖に溜息をついてからルノーが返事をしようとすると、答えるより前に扉は勝手に開かれた。つかつかと歩み寄って来る彼に一つ苦言でも投げるべく再度口を開きかけたものの、その血の気の失せた顔に只事ではない何かの気配を感じて言葉を飲み込む。
    「ルノー支配人、直ちに舞台裏の地下までご足労願えますか?」
    「一体何事だと言うんだ、騒々しい……順を追って説明したまえ」
    「申し訳ありません。でも、緊急事態なのです。それに説明しろと申されましても、私には説明出来るほどの情報がある訳ではありません」
    「とにかくその緊急事態とやらは一体何なのだね? ついにあの歌姫のパトロンが劇場内の設備を壊しでもしたのか」
    「その方がどれほどマシだったでしょうね……ルノー支配人、よく聞いて下さい。フィルマン支配人が亡くなられました」
     ニルスの告げた言葉はルノーの想定したどの答えとも違っていた。けれどそれを遥かに上回るほど――これ以上、いや以下の答えなど起こらないだろうと思えるほど、最低最悪の答えだった。
     考えることを放棄したい、と一瞬どころかたっぷり数秒思考を停止して、椅子から立ち上がりかけた姿勢のまま、ルノーは彼の知らせてくれた事実を反芻した。
     死んだ。同僚のフィルマンが。一体何故? どうして? 来てくれ、と言うからには舞台裏の地下に彼の遺体があるのだろう。その確認と今後の対応の支持を仰ぐために、自分は呼ばれたのだ。
     思い切り叫び声を上げてベッドに飛び込みそのまま夢の中へ旅立てたなら、どれほど楽だっただろう。けれど今この場において決断を下さねばならない最高責任者は、最早ルノーしかいないのだ。フィルマンは頼れるべき相棒ではなかったが、それでも良き相談相手ではあった。これからはその助言なしで一人で全てを取り仕切って行かねばならない。少なくとも今現在、ニルスは机の前に佇んだまま、こちらの返答を待っている。
    「…………解った。案内してくれるかね?」
     顔色が紙のように白いことを自覚しながら、ルノーはそう告げた。
     こちらへ、と先達て歩いて行く彼の痩せた背中を追いながら、舞台の方へ向かう。支配人の執務室や団員の控え部屋である楽屋は舞台裏よりもさらに奥まった位置にあった。
     階段を下りて衣装や大道具がみっちりと置かれたせせこましい通路を歩く間も、行き来する職員たち数人と擦れ違った。いずれも酷く動揺しているのか、ルノーの顔を見るなり質問責めにしようとして来るものだから、それをいなしながら現場へ急ぐのは骨の折れることだった。
    「ちょ、ちょっと通してくれたまえ」
     怖いもの見たさで集まっている団員の人垣を掻き分けて輪の中央に進み出たルノーは、そこに横たわる同僚の死体に思わず息を詰めた。
     オペラ座はサーカスではないのだから動物の類は飼っていない。もしかしたらよその劇場では飼っているところもあるのかもしれないが、舞台や装置、道具が傷むことを考えてここでは飼っていないのである。
     それが一体どうしたことか、フィルマンの死体はまるで熊か何かの獰猛な大型の獣に殴り倒され蹂躙されたかとでも思うような無惨な傷を晒して舞台裏の地下に転がっていた。まるで弾けた西瓜のような頭部は、本来なら人生で目にすることなどただの一度もなかったはずだ。思わず込み上げて来たものを抑えるために掌で口元を覆う。
     遺体の場所はちょうど上下する奈落の床の上であったが、支配人であったフィルマンが例え蓋部分が何らかの故障で開いていたとしても、知らずに舞台上を歩き回って誤って転落することは考えにくかった。そもそも一階分の高さを叩きつけられたからと言って、打ち所が悪く亡くなってしまったとしても、この鉤爪のような傷がつくのはおかしいはずだ。
     そして彼には自殺する理由がない。
     事故でも自殺でもないなら、それはもはや他殺としか言いようがなかった。しかし一体誰がどうやってどんな理由でフィルマン支配人を殺したと言うのだろう?
    「怪人の仕業よ、そうに決まってるわ」
    「何て恐ろしい……」
    「私たちも呪われてしまうのかしら?」
     未だにあれやこれや取り留めのない憶測を口にして、遠巻きに自分を取り囲んでいる団員たちに意識を移してから、ルノーはゾッとしない気分になった。
     呪いだなんて、この科学が発展した現代においてそんな意味の解らないものが存在して堪るものか。しかし、こんな事態になってしまってはさすがに体面を気にしている場合ではない。早急に当局へ連絡して対応をして貰わねば、団員たちも落ち着かないだろう。
     いつまでも浮き足立っていられては困るのだ。演目のスケジュールはずっと詰まっているのである。それをこちらの都合で疎かにしたり中止したりは出来ない。
    「……ルノー支配人……」
     が、ニルスが示してみせた先に視線をやって、ルノーは顔からさらに血の気が失せたのを自覚した。フィルマンの上着の胸ポケットから何かカードらしきものが頭を覗かせていたのだ。よもやこの不埒な殺人犯は何かメッセージでも残しているのかと、冷たい汗がどっと全身を濡らす。
     指紋をつけないように細心の注意を払いながら、残された哀れな支配人はハンカチでそれを包むようにして取り出した。
    「な……」
     そこに血のような赤いインクで書かれていたのは、まるで釘字のように癖のある筆跡だった。恐らく一度見たら忘れられないような。そして紙面に刻まれている文面は、血も凍るような悍ましい内容だった。

    『我が妻にエルザ・スカーマインを所望する。邪魔立てする者には天罰が下るだろう。  ―オペラ座の怪人―』

    「一体これはどう言うことだ!?」
     しかし事情を訊こうにも、当の歌姫本人は公演前だと言うのにまだ控え部屋にも姿を見せていない。彼女にファンが増えて来たのは確かだが、こんなことまでする輩に心当たりはあるのだろうか? 
     いや、とルノーは胸中で首を横に振った。そんな単純な一言で済ませてしまうには、あまりにも文面から漂って来る感情がおどろおどろしい。深い情念が拗れて裏返ってしまったかのようなこの不気味さは、熱狂的なファンと言ってしまうには少し度が過ぎている。この言葉を正直に受け止めるならば、フィルマンは無断で押し入った何者かを止めようとして殺されてしまったと言うことだろうか。
    ――そうだ、怪人なんていやしない……
     そう自分に言い聞かせるように一人ごちるも、ルノーは先程から絶えず込み上げて来る不安に身体の震えが止まらなかった。まるで悲劇の幕はたった今上がったばかりだとでも言うように――


    →続く

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