天狼閃光(てんろう ひかり)の朝は遅い。
     怪盗と言う職業柄必然的に夜の活動時間が多いから、往々にして夜行生物のような生活を送っている。今日も帰宅してベッドへ倒れ込むように入ったのが朝方空の白み始めた頃で、午前中をまるっと潰して昼を回った辺りに目覚めたとしても、それは仕方のないことだろう。
     真っ当な人間らしい社会生活を送っている時もあるのだが、本拠地である日本から移って間もないフランスのこのパリスにおいて、まだ上手いこと身体が時差の調整が出来ていないことも大いに関係していた。こう見えて妙なところで神経質なのである。
    「…………」
     序でに言うと寝起きは非常に悪い。
     精悍な作りの顔立ちは黙っていればそれなりの出来であるはずなのだが、常に眉間に居座る不機嫌な皺と凶悪さ三割増の眼差しのせいで、もし誰か起こしに来たとしても即刻踵を返すだろうオーラを漂わせている。
     放り出したままにしていたシャツを適当に羽織って、閃光は寝室を出た。取り敢えず洗面所で顔を洗うも、冷たい水ごときで張りついた眠気は完全に引き剥がせない。リビングへ通じるドアを開けると、何やらスープのいい匂いが鼻先をくすぐる。
     無論、台所に立ってその腕を惜しみなく振るっているのは公私共に相棒を務めてくれているロキだ。こちらの姿を見つけるなりいつも通りの穏やかな笑みを浮かべて、
    「おはようございます、閃光。今ちょうど、ご飯だって起こしに行こうとしてたところでした」
    「……ああ」
     どかりと乱暴な仕草でダイニングテーブルの椅子に腰かけると、ロキはその前にてきぱきと皿を並べてくれる。
     今日のメニューは照り焼きチキンとトマトとレタスをたっぷり挟んだベーグル、スクランブルドエッグにコンソメスープ、丸ままの林檎とコーヒーだ。閃光はそれを見遣って僅かに双眸を細めてから、ベーグルへ手を伸ばした。常は手放さないサングラスを外しているため露わになっている鮮血のような真紅の瞳は、若干の不満を滲ませている。それを敏感に察してロキは僅かに苦笑を浮かべた。
    「すみません、さすがにこっちで和食は無理でした。お米はともかく味噌がなくて……今度は忘れず持って来ます」
    「いい……美味えよ、充分」
     豪快に噛みつきながら、閃光は空いた手でテーブルに並べられている新聞を手に取った。現在パリスで手に入るのは十紙だ。政治経済や株などの情報を主に扱う社会派紙から、芸能人のゴシップ中心のサブカル系までそのジャンルは多岐に渡るが、どこの国のどの街に行こうと閃光のこの行儀の悪い習慣は変わらない。
     無論、最速最新のネタはネットを見るに越したことはないのだが、報道規制がかけられ官憲の耳目を通して流布された『一般的な』情報が、一体どれくらいのものであるかを知る必要があるからである。
    ニュースのトップを揃って飾っていたのは、先週エジプトの国立美術館が武装集団に襲撃された件についての続報だった。
     大規模な破壊と略奪が行われたとのことで、観光客や職員に多数の死傷者が出ているようだ。それに伴っていくつかのテロ組織から犯行声明文が出されている、と記事は締め括られていたが、そんなものは便乗の売名行為に決まっている。
     正式に発表することなど口が裂けても出来ないだろうが、こう言った情報は必ずどこかから漏れるもので、既に裏社会の情報網へ流出している強奪されたもののリストと現場画像を確認する限り、真犯人は閃光と浅からぬ因縁を持つウォルフ・キングスフィールド率いる強盗団〈神の見えざる左手〉の仕業であることに疑いの余地はなかった。
     本来目的の品であったのは『なかったことにされている』宝物庫の『黄金期』の作品であり、〈魔晶石〉なのである。他のものはカムフラージュであり、ついでであり行きがけの駄賃と言う奴だ。部下への現物報酬と言い換えてもいいかもしれない。
    「相変わらず……暴れ回ってるみてえだな」
    「ええ……被害に遭われた方たちが心配です」
    「……運が悪かったな」
     別に閃光とて、この前の僅かな邂逅でウォルフの中に何かを芽生えさせたり残せたり出来たと思っている訳ではない。そんなことで曲げられ撤回出来るほどの意志や信念ならば、既にあの場でどうにか激突を回避する方法があったはずだからだ。
     けれど出来れば、顔を合わせるのはまだ先の話であって欲しい。
     いずれ決着をつける未来は避けられないにしろ、あの獰猛で狂暴なエネルギーを毎度まともに受け止められる程にはこちらの体勢が整っていなさ過ぎた。
    ――どうしたもんか、な……
     渋面のまま別の新聞を手に取る。
     こちらは半分以上が捏造記事と言っても過言ではないほどのタブロイドで、でかでかと掲載されている写真はさすがに崩壊した美術館の残骸ではなく、本日からオペラ座で開演される『ファウスト』にて新進気鋭と注目される歌姫エルザ・スカーマインが舞台に立つことを、いつものセンセーショナルな調子で綴っていた。
     今回閃光の狙っている首飾り『クリスティーヌの涙』の現在の持ち主だ。誇らしげな表情で前日の舞台挨拶に立ったと言う彼女の首筋には、豪奢なデザインのそれがきらきらと輝いている。
     毎度仕事前には予告状を出すのが怪盗バレットの流儀ではあるのだが、一昨日支配人の一人であったフィルマン氏が何者かに惨殺されてしまったとの小さな記事が各紙に載っていたことを考えると、向こうはそれどころではないかもしれない。期日は書かなかったから、本当なら警察がうろついている最中よりはほとぼりが冷めた頃を狙った方が利口なのだろうが、こちらもなかなか悠長に構えていられないのが現実だ。
    「今日の予定はそのまま進めますか?」
    「ああ……あいつら気にしてたら仕事にならねえ。それこそ一つでも多く一日でも早く、こっちが〈魔晶石〉を手に入れる方がいいってもんだろ」
     皿を下げるロキを目で追いながら、閃光はテーブル端の灰皿を引き寄せた。傍らの煙草の箱から一本を取り出してくわえると、ジッポーで火をつけて紫煙を吐き出す。いつもと変わらないその様子に安堵したのか、ロキはやや不安気だった表情を拭って頷いた。
    「それもそうですね。じゃあ、夕方は準備して……」
     瞬間――
     軽やかな音を立てて、玄関のチャイムが来客を告げた。
    「…………っ!」
     追われる身であるが故に、このアジトのことを知る者は限りなく少ない。今日訪問予定のある知り合いはいないはずだ。
     勿論こちらの予定など知らず唐突に訪ねて来る輩がゼロだとは言い切れないが、それにしたって閃光が『現在この』アジトにいることは誰も知らないはずだ。とは言え、長期に渡って滞在することもあるため、ロキなどはそれなりにご近所付き合いをしており交流が皆無な訳ではない。一階に住む大家などがそのいい例で、こちらが帰ったタイミングであれこれ用件を告げに来ることも珍しくなかった。
    ――どうしますか?
     音を立てずに移動しながら、ロキが口唇だけを動かして問うて来る。警戒して然るべきではあったが、探った限りでは注意を施すほどの悪意や殺気は感じられない。例え警官隊に踏み込まれたとしても対応に手間取ることはない、と見て閃光は小さく頷いた。
     ロキの手がドアノブをゆっくりと回す。
    「はーい、どちら様で……」
     扉が開かれる刹那、閃光の第六感が――彼の最も信頼を置く動物的本能の直感が警告を告げた。一人、いるではないか――日本から遠く離れたこの地までも、自分を追って探し当てねばならない人物が。
    「ま、待てロキ! 開けるな!!」
    「え?」
     制止の言葉を放った時には既に遅く、僅かに開いたドアの隙間から空気を切り裂いて何かが飛来した。カカカッと鋭い音と共に向かいの壁に突き刺さったのは、外科手術用のメスである。
     敵襲ならばすぐさま対応せねばならなかったが、思いも寄らない武器に呆気に取られてしまったロキの目の前で、ドアは微かな音を立てて開いた。
    「はぁい、私の患者さん(クランケ)。元気そうで何よりだわ」
     姿を現したのは二十代後半ほどの美女だった。メリハリのある身体のラインを強調するような濃いワインレッドのシャツとタイトスカートの上から不釣り合いな白衣を羽織り、カツコツとハイヒールを鳴らしながら遠慮のない足取りで室内に入って来る。
     本当はその侵入を止めるべきだったのかもしれないが、ロキは目の前を通り過ぎる彼女に手を伸ばすどころか声をかけることも出来なかった。脱兎のごとく逃げるか、懐の銃を突きつけてしまえば勝ちであることが解っていても、閃光が椅子の上で身動ぎ出来なかった理由と多分同じだ。
    「ら、ライラ……テメー何でここが解って……」
     ようやく一つに掠められて血の伝う頬を拭いながら、閃光が軋んだ声を吐き出す。それを楽しげに眺めながらライラ――彼の専属医師であるところの、ライラ・シャインストーンは艶やかな笑みを浮かべた。
    「あら、アゲハチョウさんの顧客が自分だけだなんて思わないことね」
    「あンの裏切り者が……っ!」
     全世界中にネットワークを持ち、どこへでも侵入して行ける腕を持つハッカーの情報屋スワロウテイルは、確かに閃光のことを贔屓にしてくれる頼りがいのあるやり手ではあったが、決して味方ではない。情報屋たるもの全ての依頼に平等であるべし、がモットーである彼の蝶々は、閃光に重要な情報を提供する傍ら、害のない範囲では方々に彼の情報を売り渡しているのである。
     無論そのことは閃光とて承知しているのだから、油断していたと言えばそれはこちらの落ち度ではあった。が、よもや本気でライラが海外まで追って来るほどの行動力を示すとは計算外で、今の今まで考えもしなかったのだから、完全に失念していた自分が確かに甘かったのだろう。
     少なくとも彼女の目を掻い潜って日本を発つ時には、通常より回復の早い閃光は既に先日負った傷は塞がっていたのだ。が、どちらかと言えば女医の眼差しは具合を心配して、と言うよりは別件でご立腹なように見えた。
    「彼を責めるのは筋違いでしょ? 元はと言えば、貴方が約束を破って逃げたりするのが悪いんじゃない」
    「この前の金ならいつもの口座に入れてただろ」
    「お金の問題じゃないわ。私を満足させてやるって言ったでしょ? まさか忘れたなんて言わせないわよ。私、あれっぽっちで使われるほど安い女じゃないの」
    「…………いや、その」
     思わず視線が泳ぐ。まるで蛇に睨まれた蛙のように立ち上がれない閃光の胸倉を乱暴に引っ手繰ると、ライラはその血色の双眸を覗き込むようにして今にも口唇が触れんばかりの距離で囁いた。
    「解ったら、さっさとこれを脱いでベッドへ行ってちょうだい」
    「ぼぼぼぼ僕そう言えば買い物行かなきゃいけないんでした!! 失礼します!!」
    「ちょ……っ、おいロキ!! 助けろよ!!」
     慌てて取り繕うように上着と財布を引っ掴んで、ばたばたと忙しく部屋を飛び出して行くロキに、ライラはにこやかな笑顔で手を振った。
    「ごゆっくり~♪ 出来れば二時間くらい帰って来なくていいわよー」
    「ライラ、テメー……あとで覚えてろよ」
     その手は華奢で繊細な造りに似合わず、がっしりと閃光のシャツを掴んで逃がさないように握り締めている。まるで手綱かリードでも握られているような気分で、渋面と言うには幾分凶悪な表情を浮かべている彼へ視線を戻すと、ライラは男なら誰でも心が蕩ろけてしまいそうな魅惑的な笑みを浮かべて椅子へ膝を乗せた。
     二人分の体重を受けた木材が抗議の声を上げる。ふわりと香る甘い匂いと寄せられた柔らかな身体に酔うには、自分たちの関係は些か捻じれているはずだ。
     つ、とピンク色のマニキュアで彩られた形の良い爪が頬を辿って頤を上向かせる。
    「吠えてる場合じゃなくてよ。さあ、患者さん(クランケ)……逃げ出した分のツケをたーっぷりその身体で払って貰うわ」


    * * *


    →続く

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