「ったく……どうしてくれんだ。お前のせいで、ロキの奴毎回完全に誤解してんだぞ」
     閃光がしゅるりとシャツに袖を通しながら舌打ちをすると、ベッドに腰かけているライラはくすくすと揶揄するように笑った。
    「あらぁ、まんざら誤解でもないじゃない? 寝室で服脱いで肌に触れるようなあんなことやこんなことするんですもの」
    「『俺だけ』脱いで『お前だけ』触れる診察のどこに何を求めてんだ」
    「そう言うプレイが好きな殿方だっているでしょ? 据え膳食わぬはナントカって言うじゃない。貴方が望むなら、そう言う関係だって私は全然オッケーだけど?」
    「冗談だろ、有り得ねえ」
    「それは残念だわ」
     彼女が専属医師となってからもう結構な年月が経っているが、未だにロキはライラと閃光が医師と患者以上の関係だと勘違いをさせられている。
     ああまであからさまにスキンシップを見せつけられれば仕方のないことかも知れないが、閃光にとってそれは非常に不本意なことだった。そりゃあライラが女性として魅力的なことは認めるが、それとこれとは別問題である。
     手袋を嵌め直し、先程はかけていなかったサングラスまできっちりかけてしまう閃光に、ライラは幾分不服気な視線を投げて来た。
    「あら、今さら私に隠す必要はないんじゃない? 貴方の身体のこと、貴方よりよく知ってるつもりだけど」
    「お前が良くても俺が嫌なんだよ」
     サイドボードに置いてあった簡易キットが、微かな電子音を立てて検査の終了を告げる。ネクタイを締める閃光の背中からそちらへ視線を移したライラは、馴れた手付きでそれを開けると数本の小さな試験管を取り出した。透明なガラス容器の中で揺れる液体は、採血した閃光の血だ。
    「それにしても、本当に呆れるくらいいつも回復が早くて助かるわ。普通ならまだベッドで唸ってるわよ……それが、縫合した傷跡一つないなんて」
    「そりゃどうも。生憎これが俺に取っちゃ『普通』なんでね」
     上着を羽織り、懐から煙草を取り出して一本をくわえると火をつける。馴染みの匂いの紫煙が室内に広がり、閃光はそのままライラに近付くと機械が吐き出した紙片に視線を落とした。
    「で? 俺が『普通じゃねえ身体で払って』協力してる研究は進んでんのかよ」
    「ええ、感謝してるわ……手探りだから少しずつだけど。ようやくちゃんと解析して、貴方の血には〈魔晶石〉と同じ成分が含まれてることが解ったの。あと、やっぱり赤血球の数が異常に多いわね」
     獣化の呪いの影響で閃光の身体は随分普通とは異なる。本来なら薬になるはずのものがアレルギー反応を起こして死に至る可能性などそこらじゅうに転がっているものだから、馴染みの彼女でなければ風邪薬一つ勝手に飲めない有り様だった。
    「〈魔晶石〉と同じ成分……? 〈存在固定粒子〉なら他の献体からだって出るだろうが」
     〈存在固定粒子〉はありとあらゆる物質が『そのものであることを決定付ける粒子』のことであり、〈魔晶石〉を介して発動する〈魔法術〉はこれに干渉して物質の情報を書き換えることで某かの変化を齎している。つまり物質として存在しているもの全てにこの粒子は付属している訳で、定義自体は古くから周知のため今さら「大発見!」などと言えるものではない。
     が、閃光の問いにライラは眉を顰めたまま首を横に振った。
    「〈存在固定粒子〉じゃないわ、〈生命の蒼・第六元素マナ〉の方よ」
    「………………」
     それこそまさに稀代の芸術家にして科学者、万物を意のままにした『魔女』ことルナ・クロウリーが特定、物質としての視覚化に成功した新種のエネルギーである。
     現在、文化圏や宗教観で多少の違いはあれど世界を構成する元素は五つあるとされていた。その内ルナが提唱したのは『風』『火』『地』『水』『空(エーテル)』と言われ、これに『マナ』を加えた六つの元素によって世界は構成されていると言う説を新たに唱えたのである。当時は科学発明全盛期、〈産業革命〉と呼ばれた画期的な技術発展が目覚ましく活躍する中で、ジャングルの奥地に住まう原住民くらいしか信じていなかったその存在を、彼女は圧倒的なまでの頭脳で誰にも解る形にして見せた。
     そればかりか文字通り、世界を作り替える技術として科学を遙かに超える凄まじい発展を――自滅への旗手になるかのような絵図を示してみせたのだ。
    「成程。現在進行系で俺の身体の情報は、本来と異なる形に書き換えられ続けている訳だ」
     本来なら手に余るほど発達した身体能力と五感、人間離れしたそのポテンシャルも、引換のような獣化の呪いも、恐らくはその『マナ』の影響なのだろう。果たしてそんなものが組み込まれ、人間が進化だか変化だかしたところで『魔女』がそこに何を見出そうとしていたのかは解らない。解りたくもない。
    「でも、もし上手くこれが抽出出来たとしたら……力や効果をコントロールして必要なワクチンや治療薬が作れるかも知れないわ」
    「そうしたら、原因不明のままもう十年も眠り続けてるお前の妹が、目を覚ます方法を見つけられるかも知れないって訳だ。医学界としてはこれ以上ない発展だな」
    「解ってるわよ……本当はこんな人体実験みたいなこと、貴方に頼むべきじゃないことくらい……でも、今の医学じゃあの子は手の施しようがない。どうしてやることも出来ないのよ……私は医者なのに!!」
    「別に責めてる訳じゃねえさ。好きに使えよ。血くれえいくらでもくれてやる」
     白衣の裾を無意識に握り締めている手をそっと奪って、閃光はライラの隣に腰を下ろすとくしゃりと金色の髪を撫でた。僅かに濡れていた緑瞳が驚いたようにこちらを見遣る。
    「閃光……」
    「他人の役に立ちてえとか、んな気取ったこと言うつもりはねえよ。ただ、身近で世話になってる奴が困ってるなら、それをどうにか出来る力が俺にあんなら、惜しむつもりもねえ。お前にゃいつも迷惑かけてるからな」
     本当ならライラは、専門機関に勤めていたっておかしくはないほど優秀な人材なのだ。自分と関わらなければ、こんな無免許医師のような非合法な真似をせずともすんだだろうと言う自覚が閃光にはある。
     が、苦さの滲んだこちらの顔を見遣って何を思ったのか、ライラは微かに笑ってから閃光の腕に身体を預けた。
    「相変わらず狡い男ね。弱ってる時に限って女を優しく慰めるなんて」
    「弱ってる自覚があんなら男の傍に寄るんじゃねえよ。つけ込まれるぞ」
    「閃光はつけ込まないの?」
    「…………馬鹿言ってんな」
    「冗談よ……そうね。気をつけるわ」
     ぽんぽん、と背中を叩くと、気持ちを切り替えるように息を吐いてライラはいつものように立ち上がった。手早く簡易キットを片付け始める。これからホテルに戻って検体用のプレパラートを作ったり何だり、やらなければならない仕事は山ほどあるのだ。不安や焦燥やどうにもならない感情をぶつけて閃光の同情を引いている暇があるなら、手を動かし頭を動かし少しでも前に進まねばならない。
     事実、泣いて助けを待つだけの女になど彼は手を貸さないだろう。
    「…………」
     てきぱきとしたキレのある動きの背中を見遣って小さく鼻を鳴らした閃光は、短くなった煙草をサイドボードの灰皿に押しつけて細く紫煙を吐き出した。
    「そう言えば、お前この後の予定は? 別の仕事入ってるか?」
    「いいえ……取り敢えずこれの急ぎの作業が終わったら何も。せっかく花の都パリスに来たんですもの。のんびり二三日ショッピングでも楽しんで帰るわ。どうせ日本に戻ったら、しばらくは研究室に籠もりきりになるでしょうからね」
     細い煙草をくわえて火をつけると、先端から独特の甘い香りが立ち込める。気怠げな仕草でライラが吐き出した紫煙を双眸を細めて見遣ってから、閃光はニヤリと笑ってみせた。
    「だったら今晩付き合えよ。オペラ座にパリスで噂の歌姫が立つらしいぜ」
     黒革の手袋が嵌められたままの指先が掲げたのは、オペラ座からの招待状だ。
     通常の料金と引き替えに発効されるチケットとは違い、世界でも有数のセレブ階級の人間しかなれないと言われている会員権を持つ者に、オペラ座側から送られるものである。
     無論莫大な年会費を支払わねばならないが、一般人が血眼で奪い合うプラチナチケットなど足下にも及ばない好待遇の席から、素晴らしい舞台を観覧出来る特別指定券――そんなものを大よそオペラなどに興味のなさそうな閃光が何故持っているのか。
     ライラがよく目を凝らしてみると、金色の箔押しがされた封筒の宛名は『アーノルド・ノワール・クラウン』――現在世界屈指のお菓子メーカー『ノワール・カンパニー』永久CEOのフルネームが刻まれている。
     滅多に表舞台へ出て来ることがないこの有名人に直に会ったと言う数少ない人間は、よぼよぼの老人だったともまだ年端も行かない少女だったとも証言していて、複数人の共同名義なのだろうと言うのが世界中の人々の認識であったが、万全の警備がなされていたに違いない彼の自宅だか会社だかからでも、この男は必要なものを手に入れられるのだ。
    「呆れた。どうやって手に入れたのよ、こんなもの……それともわざわざ偽造した訳?」
    「失礼な奴だな……ちゃんと『本物』で、『俺』宛てだ。表にゃ一切面を出さない最高責任者なんて、怪盗の副稼業にゃお誂え向きだろう? ジジイの道楽の名残だよ」
     僅かに双眸を細めて招待状を見遣る閃光の眼差しは、存外柔らかい。本意ではなくとも満更ではない、と言ったところか、と素直でない彼の性分をよく知るライラは見つからないようにこっそりと笑った。
     あまり過去を振り返ったり思い出に浸ったりすることがない閃光ではあるが、血の繋がりなど微塵もないにも関わらず、唯一『親』と呼べた人物の話をする時だけは、恐らく無意識なのだろうがどことなく自慢気で楽しそうで、共に過ごした時間が悪くないものだったと言っているような顔をする。
     指摘すれば照れ隠しですぐに元の無愛想で仏頂面のふてぶてしい顔に戻ってしまうだろうが、ライラは年齢相応の閃光のその表情が好きだった。
    「いいわよ、危ない仕事絡みじゃないなら付き合ってあげる。でも、私が来なかったらどうするつもりだったの? まさか目立つのに男二人か一人きりで出かける予定だった訳?」
    「その時は俺かロキか、じゃんけんで負けた方がお前に化ける算段だった。生憎オペラなんぞ行くような女のモデルが他にいなくてな」
    「寧ろそっちを眺めてる役が良かったわね。まあ、いいわ。夕方までには用意しとくから、迎えに来てちょうだい。それくらいはサービスしてくれるでしょ?」
    「ああ。六時に迎えに行くからホテルの前で待ってろ」
    「解ったわ、六時ね」
     まだ長い煙草を吸い差しのまま灰皿に残すと、ライラは到底往診鞄には見えないスタイリッシュな小型トランクを手に歩き出した。擦れ違いざま肩に手をかけられ、親しげに寄せられた魅惑的な口唇を避ける訳にも行かず、触れられるままキスを受け止める。
     すぐに離れて手を振りながら去って行く彼女の背中を溜息をついて見遣ってから、さてロキを何と言って迎えに行ったものかと考えるだけで、閃光の頭はずきずきと痛んだ。


    * * *


    →続く

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