夕刻、オペラ座前に一台のロールスロイスが静かに止まった。
     中から降り立ったのは明るいエメラルド色のドレスを纏った美女――無論、ライラである。彼女が姿を現すとざわりと周囲の空気がどよめいた。深いスリットから時折ちらりと覗く魅惑的な生脚が衆人の(主に男性陣の)注目を一気に浚う。その後車内から出て来たのは東洋人の青年――閃光だ。
     様々な人種が行き交うこのパリスにおいても、その黒尽くめの姿は人目についた。
     本来なら目立つ行動は避けたい身の上であるにも関わらず、あまりにも堂々と振る舞う彼の様子を見て、よもや件の怪盗がこんな風に正面から訪ねて来るとは誰も思うまい、と半ば呆れながらライラはその傍らに寄り添う。
     いつもの黒革の手袋に包まれた手が、恋人のように腰を引き寄せて添えられているのが若干照れ臭い。
    「……普段からこんな真似してるの?」
     訝しそうに彼女が眉を寄せるのは、閃光が反対の手にステッキを模した白杖を握っているからだ。視力が不自由な人間が己の歩く先の道を探るそれを、彼が必要とする理由が解らない。その意を察したらしい怪盗は苦笑しながら、
    「まあ、なくたっていいんだけどな。常時グラサンかけてても不自然じゃない状態ってのはなかなかねえんだよ。けどこいつなら余計な詮索をされずにすむだろ」
    「そう言うことね……でもいつも変装する時は、カラーコンタクトを使ってるでしょ? 何で今日は頑なにサングラスなのよ」
    「俺ぁ元々コンタクトは嫌いだ。気持ち悪い。出来るなら使いたくねえ」
    「あ、そ。偶に今時珍しいわよね、貴方って」
     入口のところで例の招待状を差し出すと、案内係の男は愛想よく恭しい調子でそれを受け取った。
    「クラウン様、本日は遠路はるばるご足労ありがとうございます。いつもご贔屓にしていただき誠に光栄です。ごゆっくりお過ごし下さい」
    「ああ……楽しみにしてる」
     思ってもないことを柔らかく返事しながら、閃光はライラを伴って案内係の後に続いた。小刻みに先を探りながら歩く仕草や、どことなくぎこちない身のこなしがわざとなされていると解っていても、医者であるライラの目から見てすら、不自然なところがまるでない堂に入った演技であるから、やはりこの手口は何度も使って来たものなのだろう。
     通されたのは舞台を真正面に見下ろす二階のテラス席で、豪奢なベルベットが貼られた贅沢な椅子の広々した空間だった。まるで高級ホテルのリビングのようにサイドに置かれたテーブルには冷やしたシャンパンと軽食やフルーツなどが用意されており、開幕までの時間も退屈せずに最大限のもてなしを堪能出来るようになっている。
    「すご……やっぱりセレブの世界は違うわね」
    「せっかくなんだから食えよ。腹減るぞ」
     当たり前のように押し遣られたそれを、今さら遠慮するような間柄でもない。ライラは礼を告げて皿のフルーツへと手を伸ばしながら、
    「それで……? 貴方がわざわざそんな真似までしてここに来た目的は何? まさか本当にオペラが観たかったとか、私をデートに誘ってくれたなんて訳じゃないんでしょう?」
    「……そう言う身も蓋もない言い方されるとアレだがな」
     ライラのぴしゃりとした物言いに思わず苦笑してから、閃光は料理の脇に置かれていたパンフレットを手にして広げて見せた。
     今日のために新しく刷られたのだろうそれは、大々的にエルザ・スカーマインがピックアップされておりその注目度の高さが伺える。紙面の自信に満ちた艶やかな笑みをコツコツと指先でノックしながら、閃光は悪辣な笑みを浮かべた。
    「この女が着けてる首飾り……こいつは〈魔晶石〉だ」
    「成程、今回の獲物って訳ね」
     呆れたように吐かれる溜息は知らないフリをする。危険な仕事でないと言った以上、今日は下見であることくらい彼女だって解っているのだ。
    「銘は『クリスティーヌの涙』……身に着けた者に絶対的な音楽の才能を齎すと言われている。代償は不明。現在裏社会での相場はざっと二十億ってとこだな」
    「絶対的な音楽の才能って……それじゃあ彼女の歌声はこれの賜物――偽物ってこと?」
    「エルザ・スカーマインがこいつを手にしたのはオペラ座へ来てからだ。売り込んだ彼女のパトロンはこの国じゃ珍しいマフィアン貴族様だが、それにしたって話にならん歌姫じゃあ舞台になんか立てやしねえさ」
     そもそも劇団にもオペラ座にも何の縁もコネもないエルザが籍を置けるようになったのも、マフィアがパトロンについていたからだけではない、と言うのが専らの噂だった。
     彼女をスカウトした誰かが――支配人すら首肯せざるを得ない権力を持った人物がオペラ座には存在するのだ、と。彼に認められたが故に、エルザはトップの証であるあの首飾りを送られたのだ。
     煙草を吸いたいのを我慢しているせいだろう、閃光の指先は苛立ちを堪えるようにトントンと小刻みなリズムを奏でている。
    「問題はずっと昔からここにあったはずの首飾りが、何故今まで使用されていなかったのか。そしてもし秘すべき存在であったなら、エルザはどうやってそれを知ったのかどうやって手に入れたのか。ただ単に、今までの看板たちがそれに見合う実力を備えていなかった? 俺ぁそうは思わねえ」
    「……閃光はそれが、一昨日支配人の一人が死んだことと何か関係あると思ってるのね。もしかして、彼はその秘密を知ったから誰かに殺された……?」
    「さあな……だが、偶然にしちゃあタイミングが出来過ぎだろう? それにこのオペラ座にゃ古いだけあって面白い噂がいくつかある。例えば、ここの地下には昔から正体不明の怪人が住んでいて、彼の秘密を暴こうとした者にはもれなく死の災いが齎される、とかな。仮に〈魔晶石〉が怪人の持ち物だとしたら、厄介事はこれで終わりじゃねえはずだ」
     ほんの小さな記事でしかなかったが、ライラは先日このオペラ座で起きた不可思議な事件を知っていたらしい。そして、不敵な笑みを浮かべる閃光は、既にスワロウテイルに必要な情報収集の依頼は手配済みと言う訳だ。
    「まあ、今日はのんびり歌姫サマのお手並みを拝見と行こうぜ。もしかすると思いも寄らねえもんが見られるかもしれねえよ?」
     しかし、そう言った閃光自身舞台の裏で予期せぬ事態が進行していることは露ほども知らなかった。


    * * *


     金持ちになるためにはある性格的要因が必須であるのか、それとも金を持てば自ずと誰もがそうなってしまうのかは定かでないが、少なくともミツキはこんな風な人間になってまで有り余る湯水のような大金を手にしたいとは思わない、と考えながら、真っ赤なマニキュアを爪に塗り重ねるエルザ・スカーマインを見遣った。
     まだ乾かないうちにその上へパールのラインストーンを落として行く。形の良い爪は確かに美しく彩られていたが、如何せん派手すぎて自己主張の強さを全面に押し出している気がした。
    「アンタさー、いつまでそこに突っ立ってるつもり? いい加減気が散って邪魔なんだけど。本番前に集中出来ないでしょ?」
     化粧台の光に一頻り翳して満足の行く出来に仕上がったのか、ひらひらと両手を動かしながらエルザはミツキをジト目で見遣った。それを負けじと見返しながら、ミツキはさらに一歩踏み出して彼女へ詰め寄る。
    「お言葉ですが、エルザさん! バレットは『盗む』と宣言した以上、どこからでも侵入して来ますし、どんな手を使ってでもその『クリスティーヌの涙』を奪いに来ます。先日殺人事件も起こったばかりですし、警備させていただくのは当然です!」
     世界中にその名を轟かせる怪盗バレットからオペラ座へ予告状が届いたのは、つい一昨日のことだった。
    『近くかの歌姫エルザ・スカーマイン嬢が所有する『クリスティーヌの涙』をいただきに参上いたします。努々ご用心されますよう』
     数々の鉄壁と言われた名だたるセキュリティーを潜り抜け、狙った獲物を必ず掌中に収めて来た彼から直々に指名されて震え上がったのは、近頃台頭して来た歌姫本人ではなく、彼女を擁するオペラ座の方であった。
     噂の怪盗が〈魔晶石〉と呼ばれる前時代の遺物のみをターゲットにすることは、裏の社会においても一握りの人間しか知らない事実であったが、万が一にでも金看板に傷を負わせられるようなことがあっては、泥を塗られるようなことがあっては、申し開きも許されぬまま命を落とす羽目になりかねない、と泣きつかれ、腰を上げざるを得なかったのが〈世界文化財保護局〉――通称、文保局である。
     本来支配人のルノーはそんなタイプの人間ではないらしいのだが、立て続けに様々な問題が起こり過ぎて気弱になっているようだ。が、一人では手に余るのもまた事実だろう。
     その文保局の特務課に一員として籍を置く鴉葉(からすば)ミツキは、本来なら日本支部に属する人間であるため、いちいち辺鄙な島国から芸術の都花のパリスと呼ばれる欧州屈指の都市にまで出張して来るほどの立場にはない。そんな彼女がどうしてこんなところに呼び出されて歌姫と睨み合っているのかと言えば、理由は至極簡単だ。
     入局したばかりで経験の浅い彼女は、その主な業務対象であるところの〈魔晶石〉の造詣についても、歴史や文化についてもまだまだ知識が足りないため、暇を見てはこうして研修と銘打たれてあちこちの支部に派遣されている最中だった。
     要は人手が足りない箇所への体のいい雑用係である。
     が、つい半年ほど前までは場末のクラブやバーの片隅でマフィア相手に歌っていたと噂の絶えないエルザは、怪盗如きに狙われたところで痛くも痒くもないと言いた気に、キツそうな弧を描く眉をさらに跳ね上げてみせた。はっと目を見張る派手な顔立ちの美女ではあったが、その琥珀色の眼差しは気の強さを表わすように尖っている。
    「だからっていつ来るかも知れない怪盗なんかを、四六時中張りついて待ってられるのは迷惑だって言ってんの! 外出ててよ、アンタの警護なんかなくたってねえ……」
    「どうしたんだエルザ……そんなに怒鳴ってたら本番で声が出なくなってしまうよ?」
    「あーん、フレデリック遅いじゃない!」
     不意に扉を開けて中に入って来たのは、派手な色のスーツに柄シャツを纏った男だった。年は三十手前と言ったところか。優男だが見るからに堅気ではないだろう彼が登場した途端、今まで般若のような顔で激怒していた勢いはどこへやら、猫撫で声でしなだれかかってその胸に飛び込む歌姫に、ミツキは呆れて溜息をついた。
    「ごめんよ、エルザ。君に似合う花を探していたら、なかなかいいものがなくてね」
    「…………誰ですか、あの部外者」
     彼を案内して来たらしい一時的な同僚に問う。文保局フランス支部のダミアン局員である。押せば倒れそうなほど虚弱そうな雰囲気を醸し出している彼は、その見た目に違わず言われるまま引け腰に男を案内して来たらしかった。
    「彼女のパトロンのフレデリック・ブリュネ子爵です。毎度本番前にこうして挨拶に来られるとかで……我々には止める権利などないですからな」


    →続く

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