「それはそうだけど……アレだってバレットが変装してないとは限らないじゃないですか」
    「はあ……まあでも、怪盗より中をうろついてるかもしれない殺人犯を警戒すべきだと、俺は思いますけどね」
     ダミアンが言うのは先日亡くなったもう一人の支配人フィルマンのことだ。その遺体の胸ポケットにはエルザを妻にと言うメッセージが残されていたと言う。
     差出人は『オペラ座の怪人』を名乗る男――ここ数か月ほど劇団員を震え上がらせている数々の怪奇現象の原因とされている人物だ。誰が見たとも定かでないが、この世の者とは思えない恐ろしい姿をしていると専らの噂だった。
    「冗談じゃないわよ……例え嘘でもあんな怪物に愛を囁くなんて反吐が出るわ。どの面下げてこの私に求婚してんのよ」
     その言葉を聞き咎めたのか、柳眉を吊り上げて顔をしかめるエルザの機嫌を取るように、フレデリックは薄い笑みを浮かべてみせた。
    「解っているとも、エルザ……君が愛を囁いてくれるのは、このオレだけだってね。だからもう少しだけ辛抱しておくれ。どうにかしてその変態ストーカー野郎を始末してみせるよ。そうしたら、君は晴れてオペラ座一の歌姫として舞台に立てる」
     屈んで薔薇色の口唇へとキスを落とす恋人に、エルザはわざとらしく顰めっ面をしてみせた。
    「失礼しちゃうわ、今だって充分オペラ座一よ」
    「そうだった。すまない、怒らないでくれよ」
    「ねえ、ちゃんと特等席で私の歌を聴いていてちょうだいよ?」
    「勿論だとも、いつだって君の歌を聴くためだけにオレの耳はあるのさ」
     人目も憚らずに睦み合う二人の姿は『奥ゆかしい』ミツキにとってはとても刺激が強く、気まずさから真っ赤な顔で目を逸らし咳払いでそれをごまかすと、くるりと背後のダミアンを振り向いた。
    「と、とにかく警備を怠る訳には行きません。彼女が何と言おうと駄々を捏ねようと、バレットを首飾りに近付けないようしっかり見張りましょう!」
    「そいつ、どんな警備も突破してありとあらゆるお宝を自由自在に手にする、世界的に有名な怪盗なんでしょ? 俺らが頑張ったところで、あっさり持って行かれるのがオチじゃないですか?」
     気弱――と言うよりは、やる気のなさそうな口調でそう言うダミアンに、ミツキは眉を吊り上げて彼の鼻先に指を突きつけた。
    「馬鹿言ってんじゃないわよ!! そう言ってすぐ諦めてテキトーな対応するからあいつが調子に乗るんでしょ!? あのスカした態度、鼻をへし折って吠え面かかせてやりたいとは思わないの!?」
    「…………何か個人的な恨みでもあるんで?」
     ぼそりとこぼされた指摘は存外に鋭い。ボーっとしているのかと思いきや、意外と油断ならないぞとぐぬぬと口をへの字にして、ミツキは「別にそんなんじゃないです」と返した。どちらかと言えばあるのは恨みではなく恩であるが、そんなことをいちいち訂正して怪盗と繋がりがあるなどと要らぬ噂を立てられてはならない。
     それに前回助けられたあの時、バレット――閃光自身が「もし、『また』会うことがあれば今度は味方じゃねえだろ」と言っていたではないか。
     ミツキとしては彼にこれ以上罪を重ねて欲しくない。例え何か〈魔晶石〉を必要とする理由があったとしても、犯罪は犯罪だ。その手に錠をかけるのは躊躇があったが、だからこそ自分が止めねばならないような気もした。
    ――この前みたいには行かないんだから……
     ぎゅっと手を握り締め、鏡の前に飾られた首飾りを見遣る。『クリスティーヌの涙』はミツキの決意などいざ知らず、ランプの光を弾いて蒼く輝いていた。


    * * *


     予定開始時刻の通りに劇場内の照明は落ち、オーケストラの華やかなBGMと共に深紅の緞帳がするすると開かれた。舞台は何の問題もなく進行し、観客たちはそれぞれに素晴らしい歌と音楽と演技を堪能した。
     さすがに四百年の伝統に支えられて来た劇団はあんな悲劇があったことなど微塵も感じさせず、それどころか亡くなったフィルマン支配人への餞と言わんばかりの磨き抜かれた上演を行い、途中感極まった女性たちがバッグからハンカチを取り出すほどであった。中でもやはりトップの歌姫として舞台に君臨する新たなスターは、誰もが一目見ようと挙って注目するだけのことはある実力を余すところなく発揮した。
     エルザの声がホールの中に響き渡る。高温になっても掠れることのない力強い歌声は、生命力に満ち溢れており伸びやかで様々な色に彩られていた。
     悩ましげに眉を顰め、情念たっぷりの艶やかな表情でヒロインを演じるエルザの首元には豪奢なデザインの宝石が輝いている。華やかなドレスを纏い、スポットライトを一身に浴びながら観衆に視線を注がれる彼女は、確かにこのオペラ座において一等の才能を誇る歌姫であった。
     が、幕が進むに連れて、閃光の渋面はますます不機嫌さを増す。苛々と眦を凶悪に吊り上げて行く様子に堪りかねて、ライラは頬杖を突きっ放しのその袖をそっと引いた。
    「ちょっと……何よ? やめてよね、そんな顔するの。台無しな気分になるじゃない」
    「台無しにしてんのはあっちのお姫ィサマだろ。あんなのマルガレーテじゃねえ。ここはあんな風に歌うシーンじゃねえんだよ。全編カルメンみたいに色気振り撒いてりゃいいって訳じゃねえ。それを解ってねえとは歌姫が聞いて呆れる。あんな程度を看板に据えるなんざ、四百年の伝統も地に落ちたもんだ」
    「…………殿方はそう言うのが好きなんでしょ。見なさいよ、前の方に座ってる人たちみーんな鼻の下伸ばしちゃってるわよ」
    「そうだな。あの辺のピーマン共吹っ飛ばしたら、さぞかし眺めがよくなるだろうぜ」
     へっと悪態を吐くように冷めたような視線で鼻を鳴らす閃光は、これ以上機嫌を損ねたら本当にそれを実行しかねない迫力があった。呆れて溜息を吐きながら、ライラは冷えたシャンパンを手に取った。甘口のアルコールは彼の好みではないが、この際苛立ちの矛先を逸らせられるなら何でもいいだろう。
    「じゃあ、どんなだったら貴方のお眼鏡に適うのかしら?」
    「そうだな……例えば、あっちの」
     顎をしゃくって示したのはエルザの傍で街娘役を演じている明るい茶髪の女優だった。派手な顔立ちの歌姫と比較すると、勿論美人ではあるのだが随分控えめな印象だ。ライラが開いたパンフレットには、柔らかく笑う彼女の顔写真の下にクロエ・ヴォーティエと名前が刻まれている。
    「歌唱力の基礎はエルザと大差ない才能の持ち主だ。だが表現力で言うなら彼女の方が上だろ。少なくとも役は弁えてる」
    「私には難しいことはよく解んないわよ。でもそうね……どっちが『ぽい』かって訊かれたら私もそう思うわ」
    「もう帰るか……劇場内の大体の感じは掴んだ。これ以上舞台を見る必要はねえだろ」
    「マナー違反よ、不粋だわ。それに、私そっちのキッシュ食べてない」
    「…………解ったよ」
     差し出されたグラスを仕方なく受け取り、指差された皿を押しやる。確かに彼女に無理を言って同伴を頼んだのはこちらだ。こうなれば、二度とこんなゴージャスな体験は出来まいと思い切り満喫しているらしいライラのお遊びに付き合うのもいいかと、甘ったるいシャンパンを飲み干す。
     きし……っ、
     それはオーケストラが鳴り響き、舞台が盛り上がりの最高潮を迎えるシーンにおいて、普通なら聞こえるはずのない不協和音だった。けれど他の人間にはかき消されて聞こえなかったのであろうその音は、確かに閃光の鼓膜に棘のように突き刺さり、完璧な調和を保っていたはずの旋律を不快に乱した。
    ――何だ……
     エルザの力強い歌声は変わらずきれいに音程をなぞっている。実力のない歌手がいくら張り上げても掠れてしまうその難しい高音部を、情感や人物の気性を抜きにすれば彼女は確かに素晴らしい才能で表現しているだろう。
     きぃ、っ……ぎ、っぃ……
     まるで死神が近付く不吉な足音のように断続的に聞こえる音の出所を探して、閃光は照明の落とされたホール内を見渡した。例えどんなに暗かろうと僅かな光源さえあればその目は、常と同じように見える。
    「ちょっと……どうしたの? キョロキョロして……」
    「静かにしてろ」
     見咎めたライラから訝しむような視線が寄越されるが、それに構っている暇はない。ぞわぞわと全身が総毛立つ。それは殺気と言うにはあまりにも緩慢で微弱なものだったが、人を害することに躊躇ない悪意の純度は限りなく高いものだ。
     今夜、この場で。
     最も死を与えられるに相応しい人物は誰か――
    ――まさか、
     脳裏に浮かんだ名前にゾッとしながら視線を向ける。
     観客の全てを魅了するオペラ座の歌姫、エルザ・スカーマイン。
     舌打ちをこぼして立ち上がり、ホルスターの銃を抜いて肺活量の限りに怒声を上げた。
    「おい、命が惜しけりゃ今すぐ舞台から降りろ!!」
    「閃光、貴方何考えて……」
     その血相にライラも只事ではないらしいと気付いたものの、今まで閃光が一般人に対して銃口を向けたことなどなかったから気でも違ったかと思われたのだろう。
     瞬間、ぐらりと傾いだ照明が派手な音と共に落下し辺りを粉々に破壊する。
     それを見越して引き金を引いたものの、舞台幅と同等の長さがあるその重量は小さな鋼の弾丸が――通常のものより随分勢いがあるはずのそれがいくつか牙を穿ったところで、軌道を変えることは出来なかった。轟いたはずの銃声は一拍遅れて空気を劈いた悲鳴にかき消される。
    「くそ……っ!!」
    「無駄よ、閃光……もう、死んでるわ」
     思わず駆け寄ろうとした肩を掴まれてハッと我に返った。舞台の上には劇場関係者と彼女の後援者であり恋人であるフレデリックや、警備を担っていたのだろう者たちが集まりつつある。
     これだけの大事が起きたのだ。元々支配人の事件や自分が予告状を送っていたせいで、警備は常より厳重だったはずである。今はまだフレデリック配下のチンピラや雇われガードマンくらいの手数しかいないが、警察もすぐにすっ飛んで来るだろう。早く脱出せねばマズい状況だ。
     こんな騒ぎの渦中に飛び込んで人目につくことは避けねばならなかったし、ましてやあの鉄骨を除けて歌姫を助けようなどとすればどうなるかは目に見えている。
    「残念だけど行きましょう。紛れるなら今しかないわ」
    「…………ああ」
     冷静なライラの声に背中を押されて踵を返そうとしたその瞬間、
    「止まりなさい、バレット!!」


    →続く

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