「危ない仕事じゃないって言ったじゃない」
     アジトに戻ったライラのご機嫌は、大層低空飛行だった。
     それはそうだろう。彼女は閃光との付き合いが長く、医者でもあるからそれなりに度胸が据わっているし、咄嗟の事態にも冷静さを保っていられる女性ではあるが、だからと言って目の前で人が死んだ直後に、あんな凄まじい逃走劇を体験させられてはぐったりもすると言うものだ。
     予定外の不可抗力だったとは言え、巻き込んでしまったのは事実である。
    「……悪かったな、こんな目に遭わせちまって」
    「まあ、いいわよ。お詫びに今度買い物に付き合ってちょうだい。それでチャラにするわ」
    「……解った」
     本気で怒っている訳ではないのだろうライラはそう笑ったが、彼女の買い物の長さを知る閃光としては、頬の一つでも張られた方がマシだったと言いた気なうんざりした顔だ。
     ロキが煎れたてのコーヒーを運んで来る。二人の前にそれぞれカップを置いてから、
    「取り敢えず、今日はホテルに戻るのは危険だと思います。お部屋の用意しますから、ライラさん泊まって行かれた方が……」
    「そうね……お願い。さすがにあんなもの見た後に完全に一人でいるって言うのは、正直心許ないわ」
     小さく溜息を吐きながらライラがカップに手を伸ばした時、不意に内ポケットの携帯端末が震えるのを感じて閃光はそれを取り出した。受信を告げるライトがちかちかと光り、画面には非通知の文字が刻まれている。が、この番号を知る者は限られていた。
    「俺だ」
     応じた後思い切り腕を伸ばして端末を遠ざける。その理由は単純だった。
    「はいは~い、どうもどうも世界中どこの何の情報でもバビューンと光速お調べしますがモットーの、情報屋スワロウテイルでーす★ 旦那旦那、さっき頼まれた件サクッと調べちゃったよ!」
     通話口からきいいんっ、と鼓膜がハウリングを起こしそうなハイテンションの甲高い機械合成音が飛び出して来る。閃光は不機嫌な顔をますます苦々しく歪めながら、新しい煙草をくわえて火をつけた。
    「テメー……よく悪びれもせずに俺に電話かけて来られるな。ライラに居場所バラしたこと、俺ぁ許してねえぞ」
    「はっはっはっ、嫌だなぁバレットの旦那。それはちゃんと謝ったし、今回のネタはタダでいいって言ったじゃーん? 大体そんなこと言いながら、旦那はオイラを頼ってくれたっしょー?」
    「テメーしかこの短時間で調べられねえから、『仕方なく』だ。しかもメールで頼んだのにいちいち電話して来やがって……」
    「だって、旦那の声聞きたかったんだもーん。その声で罵倒されたら、ゾクゾクして堪んない気分になるよ。ねえ、もっと言って」
     うへへと不気味な調子で笑うスワロウテイルに、閃光からぶちっと言う音が響く。幸いにも苛立ちで血管が切れたのではなく、煙草のフィルターを噛み千切ってしまったのだが、こめかみに浮かんだ怒りマークにライラは呆れて肩を竦めた。
    「相変わらず一方通行なのね……」
    「ははは……」
     迂闊に頷く訳にも行かず、曖昧に笑ってごまかして吸い殻を拾いに行こうと立ち上がったロキを遮るように、閃光はダンッ!! と乱暴な仕草でそれを靴底で踏み消した。まるで目の前にいたならスワロウテイルの顔面をそうしていたのだろう、と思えるほどの勢いでぐりぐりしながら、地獄の底から響くような低音で告げる。
    「御託はいいからさっさとデータを送れ。それ以上要らねえ口叩くなら、今すぐ銃口ぶち込んで脳みそ吹っ飛ばすぞ」
    「はいは~い、せっかちなんだからなもー。また何かあったら言ってねー♪」
     そんなこんなで送られて来たのはオペラ座の詳細な設計図だった。最初の施工は十七世紀――約四百年以上も前の話だ。それから数度に渡って増改築が施され、彼の〈大戦〉の戦火も潜り抜けた現在の建物は、五十数年前に完成したものとされていた。
    「そうは見えなかったけど、やっぱり結構古いのね」
    「そりゃ内装は弄ってるだろうからな」
    「ちょっと待って閃光、この図おかしいわ。壁の中に階段がある……」
     ライラが指差したのは劇場ホールの裏手の図面である。
     所謂舞台裏と言う奴で、奈落の仕掛けがあったり様々な通路や機材の在処などが記されていてなかなか複雑な有様になっている。が、問題はその地下部分に更なる下層へ降りるための階段が存在することだった。それも階段の設計は、公式に政府に提出され公開されている図面には記載されていない。
     つまり、あの劇場の下には公にはされていない何かがある。
    「序でにもう一つ、面白いネタがあるぜ。言ったろ、オペラ座にゃ古いなりのいくつかの噂があるってよ」
     スクロールして行くと画面に表れたのは『オペラ座の怪人に纏わる報告』の表題である。オペラ座の怪人――それはエルザへの脅迫文とも取れる求婚のメッセージをフィルマン支配人の遺体に添えた人物ではなかったか。そんな噂話を鵜呑みにして捜査をする訳にも行かないため警察からは捨て置かれているが、劇団員たちの中では氏を殺害した最も有力な犯人と認識されている、とゴシップ紙には載っていた。
     が、資料に寄るとオペラ座の怪人なる人物の名が初めて表舞台に姿を表したのは、ここ数年の話ではなかった。
     約五十年前――つまりは全ての増改築が取り敢えずは完成形として終止符を打った、オペラ座が現存の建物と同じ状態になった頃のことである。しかもこの時も、数名の看板歌姫が連続して怪死する事件が起こっており、〈大戦〉のどさくさに紛れてろくな捜査も行われず犯人は見つからないまま、事件は迷宮入りとなっていた。
    「これ……どう言うこと? 怪人は本当にいるって言うの?」
     今回の件とあまりにも類似している。
     閃光はライラの問いには答えず、添付されていた画像ファイルを拡大表示してみせた。それは当時の上演ポスターなのだろう。幾分劣化して色褪せた状態でデータ化されたのか、あまり鮮明な画像ではなかったがそれでも彼が何を言いたいのかは明白だった。
     中央に立つ主演女優の白い首には、例の『クリスティーヌの涙』がかかっている。
    「恐らくこの時も、死んだ歌姫の元には今回と同じような脅迫状が届いたんだろう。絶対的音楽の才能を与える代わりに自分の伴侶となれ、ってな。地位や名声が喉から手の出るほど欲しかった彼女たちはそれに応じ、首飾りを手にした」
    「でもいざとなると怖くて取引をご破算にした……と言うことですか? 噂が正しいなら、怪人はとても恐ろしい外見をしているそうですし」
    「ああ……多分な。まあ、今回のあの歌姫の気性を想像するに、恐ろしくてって言うよりは、首飾りが手に入れば用はねえって感じで破談にしたんだろうがよ。ありゃ簡単に男の言うことに頷くタマじゃねえぜ。逆に踏み台にしてでものし上がろう、って強かさが初見でも窺える」
     それくらいの野心がなければ芸術家や表現者は成功しないと言われているが、彼女にとってはパトロンであるマフィアン貴族ですら、その手駒の一つだったのだろう。最も、支配人たちを首肯させたのが彼の暴力か怪人の権力かは定かでないが。
    「この時の怪人が十代だったとして、今は若くても六十過ぎのジジイだ。同一人物の可能性はゼロじゃないが、それならずっと何十年も沈黙を守って来た理由が解らねえ。今再び動く理由もな。それこそ〈不老の呪い〉でもかけられてんじゃない限り、別人だとは思う」
    「動かなかったんじゃなくて動けなかった、とか? 〈魔晶石〉を一度使ってしまって、また魔力が溜まるのを待っていたってことはないかしら」
    「それこそねえな。〈魔晶石〉の魔力ってのは消費性じゃねえ。重力や浮力なんかと同じ、法則として純然とそこにある力だ。だから〈術式〉を分解しない限り〈魔晶石〉が使えなくなる、なんてことは絶対にない。発動条件もいろいろあるしな」
     あと可能性として考えられることがあるとすれば、何らかの理由で首飾りが怪人の手元になかった場合か。いずれにせよ、エルザも他の女優たちも才能と引換に愛を得ようとした彼を拒絶したがために殺されたのだろう。
    「細かい事情なんざ別にいいんだよ。ともかく奴を取っ捕まえて首飾りをいただく。もし怪人があのどさくさで首飾りを取り戻したってんなら、必ず『駄目になった花嫁の代わり』を探すはずだ。これ以上目の前をうろちょろされて堪っかよ」
     新しい煙草をくわえて閃光がそう言うと同時に携帯端末が再び着信を告げ、こちらが通話ボタンを押すより先に回線が繋がった。勝手に起動したホログラムがくるくると視界の中で派手に躍る。それが例え彼の二つ名を冠したモチーフでなくたって、外部からこちらの端末自体をどうこう出来る時点で犯人が誰かは明らかだ。
    「テメー……調子乗ってんじゃねえぞ、スワロウテイル」
    「うふふ……怒っちゃ嫌だよう、旦那。せっかく耳寄りな情報をゲットしたからいの一番に知らせてあげたのに……聞きたい? ねえ、聞きたい? 安くしとくよ」
     画面越し、ホロのアゲハチョウが笑ったりするはずはないのに、ニヤニヤとこの状況を楽しんでいるだろう顔が容易に想像出来て、閃光は顰めっ面のまま溜息をついた。
    「言い値で買ってやる。何だ」
    「例のオペラ座、大体の事情聴取が終わってみんな帰路に着いたんだけどさ。たった一人自宅とは違う方角へ向かった奴がいる。旦那のアジトから車飛ばせば三十分てとこかな?」
     今この状況で素直に自宅へ戻らないなど、疚しいことがありますと大声で叫んでいるようなものだ。関わっているかどうかは別にして、少なくとも『何が起こったか』は知っているのではなかろうか。閃光は躊躇せず問いを重ねる。
    「前置きはいい。誰がどこに行った」
    「クロエ・ヴォーティエが東へ。怪しいなあと思って追跡したら、今はもう使われてない礼拝堂があってね……何かあると思わない?」
     にんまりとしたスワロウテイルの声色に、ロキとライラは思わず顔を見合わせる。が、閃光にとっては想定の範囲内であったのか、大して驚いた様子も見せぬまま静かに紫煙を吐き出した。その口元が皮肉気な調子で吊り上がる。立ち上がったその眼差しには不敵な光が宿っていた。
    「面白えじゃねえか……この俺を出し抜こうなんざ、随分愉快な輩がいたもんだ。地図を送れ、スワロウテイル」
    「はいはーい♪」
    「閃光……罠かもしれませんよ?」
    「だったら余計に行かなきゃなるめえ。売られた喧嘩に尻込みしてちゃ、怪盗バレットの名が泣くぜ。罠だってんなら、そんなもんぶち壊して返り討ちにしてやるよ」


    * * *


     どろりと身体に纏わりつくような夜闇の中にあって、朽ちかけた礼拝堂はまるで冥界へ繋がる入口のように不気味な佇まいをしていた。かつては多くの人間が祈りを捧げるために足繁く通って来たのかも知れないが、老朽化が進んで便利の良い場所に新しいものが建てられてから、そのまま打ち捨てられているのである。
     パリス中心部から車を走らせること三十分の郊外――住宅街も途切れた地区は畑や小さな果樹園が続いているものの、この時間は人気などあるはずもなく、太陽の下で見れば清々しいはずの景色は鬱蒼と影を湛えて沈んでいる。
    「本当にこんなところにクロエさんが来られたんですかね……」
     スワロウテイルの情報の正確さを知りながらも、ロキが思わずそう疑問を覚えたのは無理もない。これほどおどろおどろしい雰囲気を湛えた建物の中に入るには、余程の事情や理由がなければ到底決心が出来ないだろう。ましてや女性が一人で足を踏み入れるには相当の覚悟が必要だ。
    「あのクソ蝶々が『来た』っつってんだからそうなんだろ。奴ぁ頭は腐ってるが、俺に嘘は吐かねえ」
     細く紫煙を吐き出しながら閃光はそう言うと、助手席のドアを閉めた。
    「取り敢えずお前はここで待機しててくれ。十分経って俺が何も連絡しなけりゃ一度戻るんだ。いいな」
    「……解りました」
     いくら腕が立ち常人離れした身体能力を持つとは言え、危険な場所へ主人を一人で向かわせるのはロキの本意ではない。だが、二人で何かに巻き込まれて足がなくなっては元も子もない。最優先すべき事項はいつだって、閃光の命なのだ。
     だから毎度、ロキは心配の言葉をグッと飲み込んでその背中を見送る。
    「閃光、気をつけて」
    「ああ」
     返事はいつも簡潔だ。けれど僅かにこちらを振り向く顔は不敵な笑みを浮かべていて、それがある限り大丈夫だと安堵出来る何かがある。
     迷いのない足取りで入口へ向かった怪盗は、戸を開けようと伸ばした手を不意に止めた。
     両開きの扉はがっちりと鎖を巻かれ、南京錠がかけられていたからだ。古くはあったが壊れたり錆びたりはしておらず、かと言って最近開けられた形跡もない。埃を被り風雨に晒されて来たそれは何年も前から時を止めているようだった。
     恐らくどこか別の入口があって、クロエはそちらから中に入ったのだろう。
    ――窓は鍵……まあもう、中にゃ何もないんだろうが……
     ぐるりと外壁を周回していると、やはり裏手にはもう一つ簡素な作りの扉が備えつけられていた。ノブを回すと鍵はかかっていない。
    「ビンゴ」
     中の気配を伺うが、クロエは既に退出しているのか何者かの気配は感じなかった。職業柄この手の建物には些か入り難いきらいがあるが、閃光は根っから無神論者だ。躊躇は一瞬だった。なるべく音を立てないように気を配りながら、僅かにドアを開けてその隙間に身体を滑り込ませる。
     中は古い建物特有の空気が澱んだような黴臭さに満ちていたが、廊下に降り積もった埃の上にはいくつもの足跡が刻まれている。そのいずれも小さな女性のものだ――つまり、クロエがここを訪れるのは今夜が初めてではない。
     物置や控え室など諸々の脇を通り抜けてドアを開けると、そこは高い天井とステンドグラスを正面に設えた馴染みの礼拝堂の風景が広がっている。古びてはいるがまだしっかりした造りのままの長椅子が整然と列を成し、入口から中央の祭壇までの通路には赤い絨毯が敷かれている。脇には立派なパイプオルガン。
    「……さすがに像はそのまま移したか」
     本来なら聖人の像が飾られているべき場所は空白だ。
     しばらくあちこちへ鋭い視線を走らせていた閃光は、溜息を吐いて不遜に灰を撒き散らすと、躊躇のない足取りでその台に近付き端へ指をかけた。引き戸は何の抵抗もなく開く。そこには本来なら儀式の道具やら何やらが収められているのだろうが、教会の移設に伴って全て撤去されてしまったのか、がらんどうとした空間が広がっているだけでクロエの姿はない。
     しかし閃光は慌てず、床板の隅を指先で押さえぐっと力を込めた。途端に梃子の原理で薄っぺらい板が跳ね上がる。その下には真っ黒な闇が口を開けて侵入者を飲み込まんと待ち構えていた。入口は大人一人がぎりぎり通れるくらいの狭さだ。少し体格がいい男――例えば先日会ったアレンなどはつかえて通れないかもしれない。
     昔から教会と病院はいかなる軍事力でも侵してはならない、と言う暗黙の了解があったから、こうした建物の中に追手を撒くための隠し通路があるのは不思議でも何でもなかったが、問題はこれがどこに繋がっているかと言うことだ。
     恐らく地下には無数に張り巡らされた水路があるのだろうが、だからと言って何の目印もサインも残していなければ、確実に安全な場所には逃げられない。板をくるりと引っくり返した閃光は僅かに双眸を細めた。この教会の信仰する神を表わすシンボルマークが刻まれている。
    「これか……」
     教会のものだからと言い訳にも出来る上手い手立てだ。神の加護を信じて進め、と言う追われる者への励ましにもなるだろう。
     閃光はインカムのスイッチを入れると、ロキへと通信を繋げた。
    「俺だ。地下通路があった。車避けてこっち来てくれ」


    →続く

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