翌朝の新聞には派手な見出しがでかでかと掲げられた。
    『照明が歌姫エルザを直撃!! 恐るべきオペラ座の怪人の悪魔の所行』
    『消えた首飾りの謎。犯行予告の盗賊か?』
     〈魔晶石〉はあくまでも世間には存在しないことになっている代物だ。当然それを狙うバレットのことも関係者以外には非公式となっており、各紙メディアはただ単に派手な強盗殺人と噂の都市伝説の仕業の二本立てで面白おかしく騒ぎ立てている。
     彼らの仕事は真実を伝えることだけではない。いかにセンセーショナルに事件を脚色出来るか、だ。おかげで根も葉もない妄想に近いでっち上げの大喜利大会が繰り広げられていたが、警察の発表は事実の中でも限られた範囲のものであったため、事態の重要さと鮮烈さを伝えるためには多少の憶測も交えて書かねばならなかったのだろう。
     あれしきのネタでは民衆の好奇心を満足させられるはずもない。
     が、そんなデマに躍らされて初動捜査がとんでもない方向へ舵を切られては堪ったものではないと、怒りに震える人物がいた。
    「バレットは犯人じゃありません!! 少なくとも、彼は一般人に向けて引き金を引くような卑劣漢じゃないわ!!」
     だんっ! と思い切りテーブルを叩いた手が痛い。ミツキの剣幕に思わず気圧されたのか、室内は一瞬水を打ったようにしんと静まり返ったが、フランス支部特務課長らしき年長の男性が、窘めるようにまあまあと柔らかな声を上げた。
    「ミツキ、落ち着いて。確かに彼はエルザ嬢を狙ったのではないかもしれない。けれど何かの手違いで弾は逸れて照明に当たり、それが落下して彼女の命を奪った。少なくともそう考えるのは理に適っていると思うがね」
    「それこそ一二〇パーセント有り得ません。彼の射撃技術は何度も日本で目にしていますが、万が一にも手違いなんて起こすはずがないです」
     きっぱり断固とした口調でそう告げると、『お預かりの研修ヒヨッコが偉そうに』と言いた気な視線がいくつも飛んで来た。が、そんなものに構っている余裕などミツキにはなかった。例え他国の部署で生意気だとレッテルを貼られようとも、バレットに無実の罪を着せる訳には行かない。
     そうでなくとも殺されたフレデリック配下のマフィアの一団体は、敵討ちだと早くも血眼で彼の行方を探し始めていると言う。それに遅れを取るような可愛気の持ち主ではないと思うが、それはそれこれはこれだ。
    「じゃあ、ミツキさんはオペラ座の怪人が犯人だとでも言うつもりなんですか?」
     ぼそりと問うて来たのはダミアンである。口の中でもごもごとはっきり喋らないところは苛立ちを覚えるが、少なくとも彼は一連の事件の犯人がバレットだと決めつける姿勢を貫こう、と言う訳でもないらしい。
    「それは解らないわ。警察は現場検証の詳細を教えてくれる訳でもないし。でも彼は自分の目の前で人を死なせることを恐れてる……だからどんな捕り物でも絶対に人を殺したことはないのよ」
     最も彼の口を借りるならば「殺して奪うことは誰にでも出来る、不粋でダセー仕事」と言うことになるのだろうが。ミツキの言葉に何を感じたかは解らないが、ダミアンは呆れたように溜息をついてから、
    「で、この後どうするつもりで?」
     確かに首飾りは現時点で行方不明にはなっているものの、少なくともバレットがその掌中に収めている訳ではないだろう。
     昨日の様子を見る限り、予告状は出しているもののまだ不明瞭な点があって現場の下見に来ている、と言う風情だった。いつもなら細かく日時が指定してあるはずなのに、今回それがなかったことからもこの推測は当たらずとも遠からずではないか、とミツキは自負している。
     昨日の事情聴取と身体検査で首飾りは発見されなかったものの、他の人間が外部に持ち出せる状況でもなかった。となれば誰が持っているにせよ隠しているにせよ、現物はオペラ座内にまだある、と考えていいだろう。そして獲物がそこにある以上、バレットは必ず仕掛けて来る。
     もしかしたら今この瞬間にすら『クリスティーヌの涙』に手をかけているかもしれないのだ。こんなところで雁首を突き合わせて、逮捕状がどうのなどと下らないことで喧々囂々している場合ではない。
    真っ直ぐに相方十日目の男を見遣って、ミツキは宣言した。
    「決まってるじゃない。今すぐオペラ座へ戻るのよ」


    * * *


     どうか嫌いにならないであげて、憎まないでいてあげて。
     少年の怪我の手当てをする彼女の優しい手は、いつもそう言って包帯の上から酷い傷を撫でた。じわりと伝わる体温の温もりが、冷えて凍えて引き攣れた皮膚を温めて元に戻してくれるような気がして、言われるままに逆らわずその手に身を委ねられるようになったのはいつからだっただろう。
     世界の全てが敵だった。
     誰もが揃って少年を憎み嫌い忌避して恐れ、殴り罵倒し蔑み続けた。そんな中で生まれて初めて、自分に対してそんな態度を取らないのが彼女だったのだ。
    「あの人たちは、ただ自分たちと違う貴方が解らないだけなのよ」
     だから理解して歩み寄ろうとせずに、拒否して遠ざけ距離を取ろうとしている。逃げようとしているのだ、と。食事を運んで来てくれるたびに、彼女は折れそうな粉々に砕け散りそうな少年の心を励まし続けた。
     矜持を持ちなさい、と彼女は言った。
     全てを許して受け止められるだけの強さと誇りを持ちなさい、と彼女は言った。
     彼女の言葉はいつも漠然としていて謎かけのようで、恐らく幼い自分は半分も理解出来ていないのだろうと思いながらも、少年はくり返し己の中に刻み込んだ。
     嫌いになってはいけない。憎んではいけない。
     いつかきっと解ってくれる日が来る。その時胸を張って己に恥じない自分でいなければならない。
     そうくり返しくり返し己に枷をかけ続けた。
     例え覚えなき無礼を働かれようと、石を投げられ獣憑きと虐げられ続けようと、甘んじてその爪牙を押さえ続けた。
     誰よりも大事であった――少年にとって生きる理由の全てであった、彼女を失うまでは。


    * * *


    「OK、大丈夫。ちゃんと塞がってるわ。他に何か違和感は」
    「ねえよ。悪かったな、手間ぁかけて」
     閃光の耳奥を経過観察していたライラは、ペンライトを消して白衣の胸ポケットにしまった。溜息を吐き、カルテへ記入しながら眉を顰める。
    「あのねえ……何度も言ってると思うけど、鼓膜に開いた穴が数時間で塞がるのは貴方が異常に回復力が高いからなのよ? 普通はほんの小さな穴だって完治に何週間もかかるの」
    「……解ってる」
    「丈夫だからって無茶したら、取り返しがつかなくなるのよ。壊れない訳じゃないの」
    「……解ってる」
    「貴方は自分のことを軽んじる傾向にあるから何度でも言うけど、貴方が怪我して平気じゃない人はたくさんいるのよ。ロキ君だってそう、私だって勿論そう」
    「解ってる」
     サングラスをかけ直し、心配そうな顔をしたロキから上着を受け取って羽織ると、閃光は不満を隠そうとしないライラに向き直り、小さく笑みを浮かべた。
    「解ってる。お前にはいつも感謝してる。ありがとな、ライラ」
     華奢な彼女の手を取り、そっと甲へ口付けを落とす。
    「…………調子いいんだから」
     呆れたようにそう言いながらも、満更でもない表情へと変化したライラへ再度礼を告げ、閃光はロキを伴って部屋を出た。古めかしいエレベーターを使って一階まで降りると、借りている部屋が入った雑居ビル前に停めておいた愛車のヤツフサに乗り込んだ。


    →続く

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