藤堂平太【とうどう へいた】は何とはなしに嫌な気分になりながら、自室で支度を整えるといつもの時間に学校へ向かった。
もう習慣と化して流れ作業のように一分の違いもない動作ではあったが、その僅かな時間の経過で空の雲はますます色濃くなり、重たい鈍色となって今にも泣き出してしまいそうだ。
しかし、この街はこうなってから実際雨が降り出すまでが長い。
それを経験上知っている平太は、念のため折りたたみ傘を鞄に忍ばせていた。
――あーあ……こんな日はついてないんだよなあ……
別に天気と運勢に因果関係がある訳ではないだろうが、そう思わずにはいられない。実際忘れ物をしたり、何か失くしたり、散々な結果の抜き打ちテストが返って来たりするのは、こんな日だ。
みんな登校時間はばらばらだから、この時間は人気が殆どない。
初等部のちびっ子たちは既に学校に行ってしまった後だし、夜更かしを覚えた中等部より上の連中は登校組とベッドに居残り組とにきっぱり分かれて、ちょうど誰も街にはいないくらいだからだ。
煩わしいのが嫌な平太は、わざとこの時間を狙って登校しているのだが、それでもこんな天気の日は誰か歩いていないものかと無意識に視線で探してしまう。
――まあ、いたらいたでアレなんだけど……
どんっ!!
不意に横の路地から飛び出て来た小柄な影が、勢いよく平太にぶつかった。
こちらは思いもかけない衝撃に僅かよろめいただけだったが、半分ほどしか背丈がなかった相手の方がアスファルトに転がってしまう。
「あ、ごめん。大丈夫?」
差し伸べた手に、パッと顔を上げたのは初等部でも恐らく年少であろう少女だった。まだ幼い顔が恐怖に強張っているのは、平太が厳つい顔つきだからな訳ではないだろう(最も平太が厳ついならば世界中の八割の男はゴリラだ)。
少女はその手を借りずに自力で立ち上がると、
「ぶつかってごめんなさい!」
早口でそう叫ぶなり、脱兎のごとく逃げ出した。駆け出した、と言うには余りにも背後であるこちらを一瞬見遣った双眸に怯えを含んでいたのである。
「うーん……子供からはあんまりビビられたことないんだけどなあ」
首を捻った疑問はすぐに解決された。
少女が飛び出て来た路地から、少年の集団が追いかけて来たのだ。
「くそガキ待ちやがれ!」
「…………」
一体彼女が何をしでかしたのか、そんなことなど平太は知らない。
しかし、年端も行かない子供のやることなど高が知れているし、集団であんな小さな女の子を追いかけ回す輩に道理があるようには見えなかった。
何やら叫びながら傍らを駆け抜けようとする彼らの足下に、さり気なく引き伸ばした折りたたみ傘を差し出す。
先頭の少年がまるで漫画か何かのように面白いほどあっさりとそれに蹴躓き、続く数人も突然の停止など出来るはずもなく、折り重なるようにして地面に倒れ込んだ。
「てめー……今、わざと傘突き出しただろう!?」
転んだ際に顔面を擦り剥きでもしたのか、鼻血をぐいっと拭いながら先頭の少年がこちらを睨みつける。
立ち上がったその体格は平太より一回り大きく、話を聞いてくれそうもない雰囲気と相俟って、自分の差し出がましい行為を後悔するには充分な相手だった。
――あーあ……やっぱり慣れないことはするもんじゃねえな……
胸中で独りごちたものの、平太は首を横に振って彼の言葉を否定した。
「わざとだなんてそんな……確かに俺の傘に躓いて転んだみたいだから謝罪はしますけど、他意はないです。いや、本当に。すみません」
「嘘吐け、そんな都合のいい偶然があってたまるかよ! ちょっと面貸せこるぁ!」
眉と眦を吊り上げた少年は、逃げる間もない勢いで平太の腕を掴むと飛び出て来た路地に引き摺り込んだ。そのまま軽々とぶん投げられるようにして壁際に追い詰められる。
真正面に立った彼の左右を、残った少年たちが逃げ道を塞ぐかのごとく固めた。
「なあ、藤堂平太クンとやら」
掴み上げた懐からいつの間にか奪ったらしい生徒手帳を見遣ってから、男はじろりとこちらを睨めつけた。その迫力たるや、とても一学生とは思えない殺伐とした眼差しである。
人数を笠に着た脅しとは言え堂に入ったその余裕の態度は、普段からこうして弱い立場の者を足蹴にしていることが窺える慣れっぷりだった。サディスティックな笑みがずい、と近づけられて、きれいに喉元を押さえられた。思わず詰まった呼気をけほっと吐き出す。そんなことに躊躇する訳もなく、彼は口端を嘲弄で歪めた。
「例え今さっき行き交った相手だろうと何だろうと、礼儀は大事だろう? 礼儀は」
「小さな女の子をそんな大人数で追い掛け回すのは、無礼じゃないんスか」
「あんだとこら!」
「口答えしてんじゃねえよ、屑が!」
「す、すいません……」
背後に控えていた手下らしき少年からも恫喝が飛んで来る。
平太は思わず首を竦めた。
「お前、こちらのお方を誰だと思ってんだ!? ネオ京都は島原地区で知らぬ者はいない、『風天党【ふうてんとう】』頭目安立【あだち】ハルさんだぞ!」
――いや、知らねえし……
とは思ったものの、そんなことを正直に口にして無駄に殴られるほど平太は物好きではない。
こう言った輩はどこにだっているもので、腕に物を言わせて徒党を組んで暴れ回るのもそう珍しいことではないのだ。多くの者はそれを見て見ぬふりで自らに火の粉がかからぬようにするし、平太もいつもならそうしていただろう。ただ、何となく見過ごせなかったせいでこんなピンチを招いている訳だが。
安立と呼ばれた男は平太よりも縦横一回りは大きな身体と言い、周囲を威嚇するようなドレッドヘアーと言い、着崩した制服と言い、如何にもそんな集団の頭を絵に描いたような風貌をしている。
彼は得意気に胸を逸らしたまま、平太に向かって右手を差し出した。この場合、勿論友好的な握手を求めている訳ではないだろうから、自然続く言葉は容易に想像が出来た。
「まあまあ、俺だってな、そんなに物分かりが悪い訳じゃあねえんだよ。出すもの出して詫びを入れりゃあ許してやるのが人情ってもんだ」
「さっすがハルさん! 男前っすね!」
そんな人情など聞いたことはなかったが、それを抜きにしてもこちらは間違ったことをした訳ではない。はいそうですか、と財布を差し出す道理は微塵もなかった。だが、こうして追い詰められた壁際でこの人垣を如何にして抜けるかということを考えると、素直に端金を渡してさっさと学校へ向かった方が効率的なような気もする。
平太はとかく目立ちたくない。特別なことなどしたくない。普通に、地味に、無難に過ごして平穏に生きて行きたいのだ。
そう思う傍ら今回余計なお節介を焼いてしまったのは、自分でも実に矛盾していると思いはしたが。
「あの、俺そんな金持って……」
「ほらよ、ちょっと跳ねてみろ」
「いや、ちょ……」
「あーもう面倒くせえな。お前ら、剥いじまえ!」
「うっす!」
手下たちに押さえ込まれて、わらわらと群がる手があちこちを探る。鞄も引っくり返されて、中身がぶち撒けられた。
「マジ勘弁して下さい……!」
「持ってねえ訳ないよな? 懐にゃなかったから、バックポケットか? それともそのニット帽の中か?」
芋虫のように太い指の大きな掌が無遠慮に頭上に伸ばされる。
目深に被った白いニット帽を奪おうとする安立の手を、平太はばしっと乱暴に振り払った。
「帽子に触んな」
「…………っ!」
それは今の今まで許しを請うていた気弱な少年と同一人物が出したとは思えない、底冷えのする声音だった。一瞬だけ交錯した眼差しにぞくりと総毛立つような寒気を覚えた安立は、思わず平太の胸倉を手放して数歩後退さった。
が、既に目の前の少年は先程と同じ懇願するような笑みを浮かべており、まるで見間違いだったのではないかとしか思えなかった。こんなへらへらした獲物でしかない弱虫に、ー瞬僅かでも脅威を感じたことに羞恥を覚える。
「ハルさん……?」
「あ、ほんとすいません! あの、俺……マジで金持ってないんで、勘弁してく……」
「ふざけるなぁっ!」
気の迷いのような怯懦と部下の不審とを振り払うように叫ぶ安立に、平太はびくりと身体を強張らせた。
「金持ってないだ? だったら、別の方法で詫び入れて貰おうじゃねえの」
瞬間―ー
ぐあっと空気が滾った様子が見えた気がした。
微かに景色が揺らぎ、蜃気楼のようなものが安立の身体に纏わりつき始める。『それ』が何であるのかを理解した時には、最早逃げることは叶わない。
男の身体が見る見るうちに変化して行く。ざわざわと濃くなり始めた体毛が顔全体を覆い、裂けたロからぞろりと並んだ牙が覗いた。赤黒く染まった皮膚が固くなり、鉤爪の生えた手を見せびらかすように翳す。<猩々>――それが発症した彼の〈能力〉であるらしかった。
酒臭い瘴気がむわりと立ち込めて、平太は思わず顔を顰めた。
ここ数年驚くほど増加したと言われている脅威で異様なその様を、無論平太とて初めて見る訳ではないが、あからさまに攻撃対象として獲物として認識され向かい合ったことはない。背筋が逆立ち、本能的に身体が逃げを打った。
部下たちは悲鳴とも歓声ともつかない声を上げて、平太から距離を取る。
それは要するに、誰も巻き込まれたくないような惨事が展開することを意味していた。
「ちょ……それ、詫び入れるとか言うレベルじゃない!」
「うおりゃあっ!」
大きく振り被られた拳が、渾身の力で持って叩きつけられる。
勿論、そんなものを受け止めようものなら生命が幾つあっても足りないため、平太は紙一重で悲鳴と共にその一撃を躱した。
真っ直ぐに空気を切り裂いた一撃が喰らいついたコンクリート壁を勢いよく粉砕し、勢いを殺すことなく追撃が繰り出される。
――こいつ……すげー馬鹿力!
重たそうに視えるのはあくまでも外見上のことで、そのトップスピードは動体視力が割りと優れていると褒められた平太でも微かな残像が捉えられるだけだ。あとは最早へたれとして培われた勘で避けているようなものである。
〈能力者〉として発病した者は必然的に身体能力が異常なまでに向上し、同じ人間とは思えないほどの力や速さを持つようになると言われていた。そう長い間躱し続けられるものではない。
「ひえええっ!」
体制を崩して転ぶように避けたおかげで、距離が開く。そこを詰めなかったのは相手の致命的なミスだった。
大きく空振りした胴がガラ空き、寧ろこれは即座に跳ね起きて反撃のチャンス、と言うのに、己の肩から上腕、肘、手首、拳――その一連の部位が滑らかに連結し、無防備なボディーに食い込む軌跡が見えた瞬間、平太の身体は頭の天辺から爪先まで貫いた恐怖で凍りついた。
思考が停止する。
理性が無理矢理筋肉の動きを止める。
まるで透明人間に腕を掴まれでもしたかのように、平太はその場に縫い止められた。
その数秒の空白を見逃す者がいるとすれば、それは平和に生きて来てこれからもこうした場面に出くわすことがなかった人間だろう。
逆に決定的なその間を安立は勿論見逃すことなく、体勢を整えて平太の脇腹に蹴りを叩き込んだ。
「ぅぐ……あっ」
肺が、肋骨が軋む。
急激に押し出された酸素を求めて、一瞬無呼吸になった。重い――攻撃されたカ所から膝を突き抜け衝撃が走る。
体格差、体重差を考えるなら、このまま真面に向かい合うことはそのまま死を意味した。
何分、手加減やら何やらと言った単語はどこかに置き忘れて来たらしい輩だ。
都合のいいサンドバッグを見つけた、とでも言うように、安立は次々とパンチやキックを繰り出して来る。最早、彼に金銭を奪おうと言う考えは、遥か彼方に消え失せて残っていないようだった。
その狂気が致命的な急所に振り下ろされないことをひたすらに祈りながら、平太はしっかとニット帽を押さえて丸めた身体で衝撃を耐える。
口の中が切れたのか、鉄錆臭い味が舌を刺した。
散々殴られ蹴られした身体はぎしぎしと悲鳴を上げて言うことを聞かない。
一方的な防御はエラく体力と気力を消費する、と言っていたのはどこの誰だっただろうか、と平太はどうでもいいことを考えていた。
「ち……っ、強情な奴め! だったらもう死んじまえよ」
安立は吐き捨てるようにそう言うと、少しの躊躇もせずに一際大きく拳を振り被った。
「素直にならなかったことをあの世で後悔しな!」
――あ、やべ……これ死んだかも……
平太が思わず目を瞑って首を竦めた瞬間、
ひゅん……っ!
どこからともなく唸りを上げて飛来した物体が、太い手首を強打した。
そこに込められていた破壊力には安立以上に微塵も情け容赦が存在せず、ぶち当たった瞬間に「ごきゃ!」と痛々しい音がすぐ傍にいた平太の鼓膜を打つ。勿論悲鳴を上げて蹲る相手に、同情の余地など一欠片も持ち合わせていなかったけれど。
そのままくるくると宙を舞ったそれはブーメランのような軌跡を描いて、持ち主であろう人物の掌中にぱしりと小気味いい音を立てて収まった。
そこでようやく、全員が飛来物の正体が黒い鞘に収まったままの日本刀であったことを理解した。
→続く
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