舞台の袖からまだ煙の立ち上る銃を手に姿を現したのはミツキだった。一体どこから入り込んで来たものやら、あちこち泥跳ねが飛んでいるし、蜘蛛の巣や埃でかなり汚れているが、表情も眼差しも真剣そのものだ。緊張のためにかその手は震えていたが、伝わる気迫は本物である。
    「は、はは……本当にちゃんと撃てるようになってらあ。まさか、お嬢ちゃんに助けられるとはな」
     安堵したせいか、身体中から力が抜けた。再び溢れて来た血が口端からこぼれシャツの胸元を赤く染める。ロキから支えて貰わねば、とてもではないが立っていられなかっただろう。途切れかける意識を懸命に繋ぎ止める。
    「だが、悪いな……獲物なら粉々にしちまった」
    「そんなの……文保局に戻れば修復専門のチームがいるから問題ないわ。私は両手が塞がってるから一欠片も残さず回収して、貴方が責任を持って預かっていてちょうだい」
    「そりゃまた……信用されたもんだ」
     自嘲のように笑ったものの、肝心の〈魔晶石〉を壊したと言うことは首飾りそのものの価値がこちらになくなったから、とミツキは判断したのだろう。
     油断なく銃を構えたまま、ゆっくりとこちらへ近付いて来る。ジャックは身動ぎしない。が、ここは彼の巣だ。オペラ座から地下深く連なる彼の懐だ。一体どこに何の罠が潜んでいないとも限らない。
     怪人は茫然自失の体でクロエを見つめたままだった。至上の音楽のために個を捨てることすら厭わなかった彼女を憐れむように、仮面の下で滂沱の涙を流している。
     始めから二人の目的はずれていた。
     共に生きる相手を求めて音楽を手段にした男と、揺るぎない自信の才能を求めて愛を手段にした女とでは、重なる部分などあろうはずもなかった。
    「ならば……私はどうすれば良かったと言うのだ」
     胸を掻き毟るように膝を落として蹲り、血を吐くほどの軋んだ声を上げる男に、閃光は震える手でジャケットの内ポケットから煙草を取り出すと一本をくわえた。火をつけゆっくり紫煙を吸い込むと、細く吐き出す。馴染んだ苦い味よりも今は血の味の方が濃い。
    「決まってんだろ。『化け物』に『人』を愛することなんざ出来やしねえさ……誰かと共に生きたいなら、必死に真実を隠して人間のフリをするしかねえ。それが出来ないなら、一人孤独に地下にでも沈んでおくことだ。大事なものを守るためには、離れて距離を取ってその爪牙が届かないように、傷つけないようにするしか出来ねえこともある」
    「ならばお前は……これからもそうやって自分自身をも騙し続けると?」
    「騙す? 人聞きの悪いこと言うんじゃねえよ」
     冷たい床に転がった首飾りをどうにか拾い上げ、閃光はその闇の中にあってもなお美しい蒼をぎゅっと握り締めた。
    「こちとら、必死扱いて地べた這いずり回ってもがいて足掻いてんだ……人間になるために。人間であるために。化け物のままのテメーを愛して貰おうなんざ、都合のいいこたぁ言えねえよ。誰もがそうやって抱えた闇をコントロールしながら生きてんだ。そいつと闘うことを放棄した奴に、誰かを愛する資格なんざ、誰かに愛して貰う資格なんざ、ありゃしねえ」
    「…………」
    「テメーはただ拒絶されることが怖かっただけだろう、ただテメーが可愛くて可哀想だっただけだろう! そうやって諦めて自分で終わらせてたら、変わる訳ねえじゃねえか。認めて貰いたいなら何で自分から動かねえ、〈力〉じゃねえテメー自身で抗わねえ!? 何もしないで悔やむくらいなら、何で傷ついてでも前に進もうとしねえんだ!?」
    「私は……お前のように強くも誇り高くもない」
     不意に観客席側が轟音を立てて爆発した。紅蓮の炎が噴き上がり、続く激震が劇場の空間そのものを揺るがす。
    「いずれ生涯最高の曲が出来上がったら、妻となる女と共にこうして地下深くで眠るつもりであったのだ。今この瞬間、お前のおかげでどうしても気に入らなかった部分の旋律が浮かんだ。感謝するぞ、怪盗バレット……化け物の同胞よ」
    「テメー……っ! 待ちやがれ!!」
     ひらりと舞台下に身を躍らせたジャックを追おうとするが、ぐらりと視界が歪んだ。まるで身体が他人のものであるかのように全ての感覚が遠い。
     ミツキが威嚇の一撃を放ったものの、最早そんなもので彼を止めることは出来なかった。
    「無茶です、閃光! 動かないで下さい! 出血だけじゃない、いくら代謝が早い貴方でも毒の対処をしないと手遅れになります!」
    「うるせえ、あいつ独りで死なせるか……そんな都合のいい終わらせ方させて堪るか!!」
    「閃光……」
    「どんなになってでも生きてて欲しい、なんてそりゃ綺麗ごとだよ。反吐が出るほどの綺麗ごとだ。でも死んだらそれで終えだ、やり直しも挽回も出来ねえ正真正銘の終えだ。逃げっ放しの人生のまま、あいつは終えだ。そんなこたぁ、許さねえ……あいつが泣こうが喚こうが、そんな終わり方は俺が許さねえ!!」
     遠くで爆発音に混じってパイプオルガンの音色が聞こえて来る。それは歌姫の部屋に置かれていた書きかけの譜面と同じものだ。彼が生涯をかけて紡ぎたかった一曲――それは美しくも物悲しい、激しく甘く魂を根底から震わせる旋律だった。
    「放せ、ロキ……!!」
    「もう無理ですよ、閃光!! 今行ったら貴方が死んでしまう!!」
     ガッと羽交い絞めにされて憤りが込み上げたものの、ロキの言うことがもっともなのは解り過ぎるほど解っていた。それに恐らくジャックは助け出されることを望んでいない。これ以上生きることを望んでいない。
    「……………………っ、っ!!」
     助けたかったのは怪人として生きねばならなかった憐れな男なのか、過去に囚われ続けている己自身であったのか――崩れ行く劇場を前に無力さを噛み締めながら、閃光は吼えることしか出来なかった。
     仕掛けられた爆弾は次々と連鎖して誘爆を引き起こしている。このままでは上に構えられたオペラ座も無事ではあるまい。ジャックがどこにいるにしろ、今は自分たちの安全を確保してこの地下から脱出することの方が先決だ。ぐずぐずしている暇はない。事態は一刻を争う事態なのである。
    「とにかく逃げましょう! ロキさんはバレットをお願い。私はクロエさんを連れて行くわ……私が通って来た通路なら、多分まだ潰れてないはず」
    「解りました、先導頼みます」
     ロキが再び閃光へ肩を貸したのを確認してから、ミツキはクロエへ駆け寄った。同じように肩を貸して、細い身体を引き摺って歩き出す。
     本当に人形のように無抵抗の歌姫は、ミツキにされるがまま全てを預けて来るため、自分で歩こうとはしてくれない。意識がないのと同じだ。ふわふわと豪奢なドレスも相俟って小柄なミツキにとって、全身にのしかかる彼女の存在は思った以上の負担だった。
    「く……っ、んんん――っ!」
     しかし、ここで弱音を吐いている場合ではない。
     揺らぐ床を踏み締めて、裾に隠された通路へロキを導こうと必死に歩く。
    ――私だって……いろんなこと諦めたくなんかない! 最後まで諦めたくない!
     その頭上で天井がぴしりと音を立ててひび割れる。轟音と共に降り注ぐ瓦礫――天井、いやその上のオペラ座自体の崩落だ。
    「ミツキさん……っ!!」
     ロキの叫んだ声が聞こえた気がしたが、今さらどんな〈魔法術〉を展開しようとこれだけの重量の物質をどうにか出来るはずもない。
     爆音が世界を真っ赤に染めた。


    * * *


     一瞬とは言え意識を失っていたのだろう。ハッと我に返ったミツキは辺りを見回した。生きている。完全に崩れて来た劇場の瓦礫の下敷きになって押し潰されたものと思ったのに、掠り傷をいくつか負っただけで殆ど怪我らしい怪我はない。
     すぐ傍らには眼差しの焦点の合わないクロエが倒れていて、壊れた人形のようにぶつぶつと何事かを呟き続けている。
     この状況でその様子は酷く不気味ではあったが、ひとまず彼女も無事なのだ。
    ――一体どうして……
     ぱらぱらと破片が降り注いで来たことで、ようやくミツキは何かが自分たちに覆い被さってくれているおかげで轢かれた蛙のようにぺちゃんこにならずにすんだことを理解した。
     視線を上げ、その先にあった鮮血のような真紅の双眸に思わず鋭く息を呑む。この世の憎悪と怒りをふつふつと煮立たせてどろどろに溶かし込んだようなその鮮やかな赤を、ミツキは一度見たことがある。
     忘れたくとも忘れられるはずがない。
     視線を這わせた先にあるのは、まだ記憶も醒めやらない夜闇よりもなお濃い漆黒の毛並み、大きく前方に突き出た鼻筋とぞろりと覗く鋭い牙――優に四メートルはありそうな巨大な狼が、その逞しい背中で多大な瓦礫を受け止めていた。
    「…………ば、バレッ……ト?」
     まともにそれらを被る形となった彼は、さすがに前回のような圧倒的パワーを見せつけて全てを破壊するために動くことが出来ないのだろう。少しでも気を抜けば、総重量何トンものオペラ座の成れの果てがこの巨狼ですら押し潰そうとのしかかって来るに違いない。それでもその凶暴性を目の当たりにした身としては、例え庇ってくれたのが閃光であったとしても呑気に安心している訳には行かなかった。
     いつ何時、地面で踏ん張っている脚の鉤爪が襲い来るかも解らないのだ。
     果たして今、閃光の意識はあるのだろうか? それともまた獣に飲まれてしまっているのだろうか?
    「閃光……私のこと、解る?」
     ぱたた、と何かが滴る音。頭上から降り注いだそれは血だ。あれだけの倒壊を生身で受ければ無傷でいられるはずがない。毛色のせいで解りにくいが閃光は随分な傷を負っているのだろう。
     獣化すればその前にどれほど瀕死の重傷を負っていようとダメージはゼロになるらしかったが、巨狼は決して無敵でも不死身な訳でもない。
     寧ろこれは自分を守るための最終手段のようなもので、余裕があるのでも後がある訳でもない、閃光のぎりぎりのラインなのだ。もし、この姿で限界を超えたらきっと彼は死ぬ。先日白い獣と激闘を繰り広げた際、トーキョー・ブリッジから海に落ちた姿を思い出して背筋が冷たくなった。
    ――どうすれば……
    『…………ニシテ、ダ……ク逃ゲロ』
     まるで新聞紙をくしゃくしゃに丸めたようなノイズ混じりの嗄れ声が響く。それが目の前の巨狼から放たれたものと理解して、ミツキは慌ててその眼差しを覗き込んだ。
    「閃光、解るのね? でも、私たちを庇ったせいで貴方怪我を……」
    『問題ネ、エ……長クハ保タネ……サッサト、行ケ』
     必死に意識を繋ぎ止めて言葉を紡いでくれているのが解る。暴力的衝動に抗うことがどれくらいの苦痛かはあくまで想像するしかなかったが、傷のこともこの場の倒壊具合も考慮した上での台詞だろう。強気で自信家なイメージのある彼の偽りない要望だけに、それほど切羽詰まった状況であることが伺えた。
     解ったわ、と頷いて立ち上がりかけたところで、不意に脚に激痛が走った。思わず顔を顰めて見遣るが傷はない。恐らくどこかが骨折しているのだ。今の今まで痛まなかったのは、感覚が麻痺して上手く伝わって来なかっただけなのだろう。
     しかし、自分一人なら匍匐前進して這ってでも逃げるだろうが、それではクロエを置いて行かねばならなくなる。
     閃光もそれに気付いたのか、唸るような声を上げた。
    『悪ィ、ナ……』
     獣の声帯では閃光の感情を正確に掴むことは難しかったが、ミツキはそっと剛毛に包まれた前脚に触れた。
    「謝んないでよ、貴方のおかげでこれくらいですんだんだから」
    「閃光、脱出経路確保出来ました」
     その時、泥と砂埃に塗れた姿のロキが、瓦礫の向こうから姿を表した。
     かく言う彼とて鋼材芯が脇腹辺りを貫いていたり、表装の皮膚が剥がれて機械部分が露わになっていたり、と無惨な様子を晒しているのだが、駆動に影響が出るような箇所はどうやら無事であったらしい。
    「良かった、ミツキさんも気がつかれたんですね。急いで出ましょう」
    「それが……脚、骨折しちゃったみたいで立てなくて」
     ははは、と乾いた笑いを浮かべながら言えば、ロキの顔が強張った。慌てたように駆け寄って来る。
    「どこですか?」
    「た、多分右です」
     あまりの剣幕に押されて答えると、ロキは失礼します、と丁重に断りを入れてからミツキの右脚に手を翳した。〈魔導人形〉である彼には患部を探索する機能でもあるのか、脛の辺りでぴたりと手が止まる。
    「ああ……これは、確かに。でもすみません、僕では治せない」
     そもそも破壊兵器として作られたロキに治癒能力など備わっているはずもない。ミツキは慌てて顔の前で両手を振った。
    「だ、大丈夫ですから! 私ちゃんとカルシウム取ってますから、こんなのすぐくっつきますから!」
    「とにかく応急処置だけでもしておかないと」
     ロキは己を貫いていた鋼材芯を引き抜いて添え木代わりにすると、シャツの袖を裂いて簡易包帯を作り、慣れた手付きで固定してくれる。
     が、その顔が晴れることはない。理由は簡単だ。自分の意思で動けないクロエと負傷したミツキの両方を一度に抱えて外へ連れて行くことは、彼にも出来ないのに違いない。閃光の限界を考えれば、往復するのは一か八か――いや、万が一を考えればそれは危険な賭けなのだろう。
     それでもこの逡巡している時間すら無駄には出来ない。
    「ロキさん、クロエさんを連れて先に行って下さい」


    →続く

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