「でも……」
     躊躇うようにその蒼い目が閃光を見遣る。
    「痛みがちょっと引いたら、後から絶対追いかけますから」
    『……行ケ、ろき』
     閃光のその言葉で意を決したように頷くと、ロキは軽々とクロエを抱え上げた。
    「……すぐ戻ります!」
     その背中が瓦礫の向こうに再び消えたのを確認してから、閃光が小さく溜息を吐いた。その僅かな身動ぎだけでパラパラと細かな破片が落ちて来る。
    『……コノ馬鹿』
    「な、何よ! 私は貴方が独りで残ったりしたら、また余計なこと考えたりするんじゃないかなーって心配して上げたんじゃない!!」
    『余……ナ、世話ダ』
     あの時閃光がジャックに放った言葉は、きっと何度も彼自身が自分に投げ続けて来た言葉だ。この怪盗が今までどんな風に生きて来たかなんてミツキは知らない。けれどこの〈力〉を秘めたまま、人間の中で生きることを選んだ彼には、苦渋の末に捨てねばならぬものも人よりたくさんあっただろうとは思う。
     だからこそ、同じ境遇に苦しむ男を放っては置けなかったのだ。
     厳しい台詞は苛烈な言葉は、一体どんな覚悟の中で磨かれたものだろう。それを求められたジャックは首を横に振ってしまったけれど。
    ――あの人と閃光と私たちとの間に、一体どれくらいの違いがあるんだろう……
     昔からポジティブ過ぎると他人から呆れられることの多いミツキは、この感覚が普通とは随分違うと言うことは自覚している。危機管理が甘いのだと、何度も注意されたこともあった。
     それでもやはり、ミツキは怪人やこの怪盗を恐ろしいとは思えない。
     ぱたた、と再び頭上から赤黒い雫が降って来る。傷の具合がどれくらいかは解らないが、痛みや失血のせいで閃光が獣の本能に飲まれてしまっては元も子もない。意識を繋ぎ止めるためには何か会話していなければ。
    「えっと、あの……こんな時にこんなこと訊くのもアレなんだけど、昨日一緒にいた女の人って、誰?」
    『ア?』
     ミツキがこぼした予想外の言葉に怪訝さから思わず顔を顰めると、彼女はそんなことを問うつもりではなかったのか、慌てたように両手を振り回しながら何故か真っ赤になった。
    「べべべべ別に『恋人かな?』なんて気になったとか、そんなんじゃないんだからね!」
    『…………らいらノコト、……ナラ、アレハ……恋ビ、ジャネエ。俺……医者ダ』
    「い、医者……?」
     その答えは想像していなかった、と呆気に取られてから、ホッとした反面その割にやたらと親密そうだったのは何故かとか、多分彼女の方は閃光が好きなのだろうとか、気になるところは多々あったものの、ミツキは空元気の乾いた笑いでその諸々をごまかした。
    「そ、そっかー。いやあ、何か閃光が女の人連れてるのって意外だったから……」
    『………………意外?』
    「うん、何となく……苦手なのかと思ってた」
     脳裏に一瞬彼女の面影が過ぎる。
     成程、他の存在を近付けまいと思って無意識に取っていた行動は、傍から見るとそんな風に感じるものなのか。
    『別ニ、ンナンジャ……』
     ない、と続けようとして喉奥から熱い塊が競り上がって来た。堪え切れずに口から溢れたのはどす黒い血だ。身体を支えている全ての細胞から、根こそぎ気力を奪われてしまったかのように急激に力が抜けた。意識が明滅する。己の中で暴れる獣が首を擡げて牙を剥く。
    ――うるせえ、黙れ!!
     喰らえ。
     無茶苦茶に蹂躙して、跡形もなく屠ってしまえ。
     喚く昏い感情が身体を揺さぶる。
    「閃光……大丈夫!? しっかりして!!」
     ついに低く唸りながら膝を屈してしまった閃光に、ミツキは慌てて声をかけた。それでもなお自分が押し潰してしまわないようにと、必死に空間を保とうとしてくれる彼の鼻先にぎゅっと縋りつく。こんなことをしたって彼の苦痛は和らいだりする訳ではないのだろうけれど。
     ロキが出て行ってからどのくらいの時間が経っただろう?
     例え短い距離であったとしても、人一人を抱えて安全を確かめながらの移動では、そんなにすぐには戻って来られまい。
    ――こんな時に私が〈魔法術〉を使えれば……
     それは文保局員としてはあるまじき考えだった。けれどミツキは思うのだ。〈魔法術〉もありとあらゆる道具と同じではないのか、と。使い方さえ間違わなければ、誰かを救うことも幸せにすることも出来るのではないか、と。
    ――お願い、〈天道〉……お祖母ちゃん……力を貸して、この人を助けて!
     シャツの下、鎖を通して首から下げた指輪の〈魔晶石〉をぎゅうっと掴み、ミツキは誰にともなく祈った。
     元々とある貴族の遺産を手に入れるための鍵の一つに過ぎないこの指輪には、そんな大層な〈魔法術〉の術式が収められている訳ではない。それだって先の一件でロキが綺麗に分解してくれたのだから、今この指輪は本当に祖母の形見としての価値と役割しかないことは、ミツキだって承知の上だ。
     けれど、それでも。
     この指輪は他でもない閃光が、命を懸けて身体を張って守り通し盗り返してくれた指輪だ。だから彼のためになら、たった一度くらいはありもしない奇跡を起こしてくれそうな気がした。
    『動ケンダロ……ガ……ク、逃ゲロ』
     辛うじて紡がれる言葉の端から、チロチロと口腔内で燻る紅蓮の焔が見える。怪我の具合よりももう、自分の意識を保っておくのが限界なのだろう。
     けれどミツキは、ぎゅっと閃光の鼻先を抱き締めたまま頭を振った。
    「嫌よ、絶対貴方も一緒に連れて行く!」
     気付けばいつの間にか、遠くで聞こえていたはずのパイプオルガンの音色は途絶えてしまっている。怪人もまた業火に包まれ地獄へ旅立ってしまったのか、はたまたパイプオルガン自身が音を奏でられない損壊を負ってしまったのかは解らない。
     熱風と炎がもう間近に迫っている。
     逃げ道は塞がれていた。
    『馬鹿タレ』
     この期に及んでも名前の一つも呼んでくれはしなかったが、閃光は呆れたように小さく笑ったらしかった。初めて鼻先が擦り寄せられる。
    『諦メテンジャ、ネエヨ』
     急速に〈魔力〉の高まって行く気配――視界を焼く蒼い光にミツキは慌てて閃光の口元から離れた。思い切り息を吸い込んでいるのか、周りの酸素濃度がぐんぐん低下して行く。
     ミツキが息苦しさと酸欠でくらりと眩暈を覚えた瞬間、閃光はカッと口を大きく開けて溜め込んだ炎を吐き出した。
     ゴフォ…………ッ!!
     周りの空気と煙が巻き込まれて灼熱の息吹に薙ぎ払われる。一気に放出された〈魔法術〉は瓦礫を焼き障害物を押しのけ――いや、そんな可愛らしいものではない、一気にあれだけの質量を『蒸発』させたその温度は一体何万度あるのだろう。
     塞がれていたはずの道が拓いた。その先に待ち望んでいた影が佇んでいるのが見える。
    「閃光……っ!! ミツキさん!! 無事ですか!?」
     今の〈魔法術〉の反動で彼の背中に乗っていた瓦礫もいくらか消し飛んだのだろう。少し空間に余裕が出来たおかげでか、巨狼はようやく安堵したようにどっとその場に倒れ臥した。
     その体躯が少しずつ、人の形を取り戻して行く。
    それは見てはならないもののような気がして、ミツキはそっと目を背けた。どこか遠くで消防車だかパトカーだかのサイレンが鳴っているらしい。騒がしい気配が漣のように寄せて来た。
     頭上から差し込む光を追って視線を上げれば、一部がぶち抜かれた天井から抜けるような青い空が覗いている。
     深く澱んだ地下の空気を一層するように、焦げ臭くはあったが一陣の風が吹いた。


    * * *


     夜遅くもう誰も残ってはいない部屋の中で、ダミアンはパソコンに向かって今回の件の報告書類を作成していた。真っ暗な室内はしんと静まり返っており、それが余計に画面のブルーライトが突き刺さる原因になっている気がする。
     しばしばと痛む目頭を押さえ、そろそろ帰るかと電源を落とそうとした時、懐で携帯端末が震えて着信を告げた。非通知と刻まれたブラウザを確認するか否かのタイミングで、勝手に回線が繋がりホログラムが立ち上がる。
     目深にフードを被り、先端に〈魔晶石〉の飾りのついた大仰な杖を手にしたその典型的な〈魔法遣い〉の映像を見るまでもなく、他人の携帯端末を外部から操作して好き放題に扱える化け物は、この世界が広いとは言えそうそういるものではないだろう。
     〈魔法遣い〉は僅かに覗く口元ににこりと柔らかな笑みを浮かべ、
    「やあ、ダミアン。今回はご苦労だったね。君のおかげでいろいろと楽しめたよ」
    「はあ……どうも。アンタが満足してくれたんなら何よりだけども、それにしたって『たかが』最高の曲を手に入れるためだけに築四百年のオペラ座を一つ丸々潰しちまうとは……相変わらず見た目と違って剛毅なお人だ」
    「フランス人としては、大事な文化財の破壊に手を貸した形になって心が痛むかい?」
    「……そう言うんじゃないですけど」
    「四百年なんてちょっと前のことじゃないか。それにあれは僕が作ったんだから、どう使おうと僕の自由だよ。まあ確かに天賦の才があったとは言え、たかだか化け物一匹の墓標にしてしまうには、些か豪奢過ぎたかも知れないね。でもまあ、『あんなもの』はまた作ればいい」
     誰も気付いてなどいないだろう。
     今回の一件は数十年がかりでこの〈魔法遣い〉が仕掛けた一大叙情詩であったことなど、きっと想像すらしていないだろう。怪人自身も、あの全てを見透かしたような顔をしていた怪盗も何も知らず、この神の掌の上で無様に踊っていた――踊らされていただけなのだ。
    「それで」
     男とも女とも獣とも機械ともつかない不思議な声音で〈魔法遣い〉に促され、ダミアンは沈みかけていた思考を引き戻す。
    「君は『アレ』を実際に見て、どう感じた?」
     『アレ』と言うのは勿論、彼の怪盗バレット――天狼閃光のことである。
     〈魔法遣い〉が最高傑作に成り得る唯一の作品、一番近いと手放しで賞賛して止まないあの獣と相対したのはダミアンも初めてのことだったが、いい印象は覚えなかった。
     寧ろ血の暴走と言う形での獣化以外の能力を持たない彼は、『使い勝手』がいいようには思えない。それどころか真っ向から牙を剥いて来るであろう未来が簡単に予測出来て、面倒にならない今の内にさっさと処分してしまった方が賢明だと感じた。
     計画に支障を来たすようになってからでは手遅れだ。
     尊敬してやまない――命じられれば、この命を捨てることも躊躇わない〈魔法遣い〉へそんなことを告白するのは非常に心苦しかったが、嘘を吐いてもすぐにバレて機嫌を損ねてしまう。そして、それが解っていながら無駄な手間を踏む愚者が一番嫌いな神を、煩わせてはならない。溜息をこぼしてからダミアンは率直な意見を述べた。
    「成程」
     面白がるように〈魔法遣い〉は笑う。
    「でもね、ダミアン……『だから』面白いし楽しみなんだよ」
     きっと若い君にはまだ解らないかもしれないね、と続く言葉が不満だとは言えない。そんな感情すら伝わっているのだと思うと、己の未熟さが恥ずかしく思えて嫌になる。
    「とにかく一度戻っておいで。あまり長居して気付かれても良くない」
    「……承知しました」
     本当はこの後、続けてウォルフ・キングスフィールドの周辺調査も行うように予定されていたはずだが、言われたように少し時間を置いた方がいいのかも知れない。冷静な判断が出来なくなっては務まらない任務だ。たかが一度接触したくらいで、こんなに感情が乱されてしまうなどとは情けない話である。
     その後いくつか事務的なやり取りをしてから、ダミアンは携帯端末を切った。
     そのままパソコンの電源を落とし、揮発性の〈魔晶石〉を仕掛けてから席を立つ。これでこの場所にダミアンがいた痕跡は何一つ残らない。物質に残る記憶や気配すら完全に断ち切って改竄する〈魔法術〉は、部屋に入った者全員に効果を齎す。
     仕事の後に大量の人間を殺さなくていい楽な案件だ。
    「『だから』面白い、ね……」
     肩を竦めて部屋を出る。
     〈魔法遣い〉には〈魔法遣い〉の考えがあるのだろう。自分はその障害となる全てを叩き潰せばいいだけだ。


    →続く

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