ナナキに指示されて向かったのは廃棄区画から一番近い下層地区――通称玖街(くがい)だった。
     この国の大半を占める最も身分の低い平民たちの中にも、目に見えない格差と言うものは確実に存在する。弱い者虐げられる者搾取される者と言うのは、己より下の存在があると安心するものだ。
     生まれながらにして築かれた抗えないほど強固な身分の壁を、上を目指すことは出来ずとも、あそこまでは堕ちまいと、現状を維持するために努力はする。それは不平不満の矛先を自分たちから逸らすために政府が採っている厭らしい方針なのだが、目の前しか見えていない者は見ようともしない者は、この巧妙なからくりに気付かぬように出来ているらしい。
     ともあれ、玖街(くがい)はそんな最底辺の貧民やならず者が溢れ返っている区画である。
     任侠、博徒、女郎に盗賊、反政府組織のお尋ね者――脛に傷のある、叩けば埃が出る訳ありの者たちが行き着く最後の場所。まるで生きながらにして死んでいるかのような。
     そんな街だ、当然揉め事喧嘩は挨拶代わりと言わんばかりに、諍いの絶えない場所である。
    宿無しや物乞いが憂さ晴らしに襲われたり、墓場の代わりに外から死体を捨てに来る輩もいると言うから、人死になど話題にも上らない。
     この国で最も命の軽い場所。
    「それでもこんな悪たれな現世の地獄にも、独自の掟はある。守らねばならない義理人情はある。それを破ろうとしている者がいるのだと、密告が入ったのが十日前。本当はすぐにでも足を運びたかったんじゃが……」
    「一人じゃ動けなかったって訳か。それがお前の守らなきゃならねえ掟かよ?」
    「まあ、そんなところだ。わしの力は何かを守るために使いたい」
    「……戯れ言だな。児戯で飯事だ」
    「構わぬ。何とでも言え。甘いのは百も承知じゃ」
    「で……俺たちは何をすればいい?」
     漂う黴臭い溝(どぶ)と饐えた臭いがない交ぜになった空気に眉をしかめながら、カゲトラは問う。時折加わる重油と廃蒸気の臭い――とかく悪いものは下へ深くへ澱となって溜まる。
     どことなくべったりと纏わりつく大気に、長く滞在すれば肺から侵されてどうにかなりそうだ。
     足元も剥き出しの路面は整備されているはずもなく、水捌けが悪い土地柄、どこもかしこも泥濘んでいるような状態だった。溢れる下水と溜まる塵と、見るも無惨な光景がそこかしこに散見される。
    「『鬼化』した者が出た際に、その暴走を止めることが最優先事項じゃ。帝国軍ではそいつらを『ナレノハテ』と呼んでおる」
    「『鬼化』って……お前みたいに角が生えたりとか、そう言うのか?」
    「そんな可愛らしいものではない。熊以上の猛獣を相手取るつもりで、相手を討つ戦のつもりでおらねば、主は死ぬぞ」
    「成程。でも、そのナレノハテ? ってのは誰がいつどこでなりそうなのか、解るようなもんなのか? そんなに頻度が高い訳じゃないにしても、俺たち二人だけじゃあ同時にあちこちで多発したら、対処出来ねえだろ」
     兆候があるものなのか。
     はたまた、共通項があるものなのか。
     今回は玖街(くがい)巡回とのことだが、もしここから例えば士族や華族が住まう高層地区などに向かわねばならなくなった際、いざと言う緊急時には間に合わない距離である。
    が、カゲトラの問いにナナキは僅かに表情を曇らせて、
    「……この五十年、玖街(ここ)以外でナレノハテが出現したことはただの一度もない」
    「まあ……ここは何が起ころうが生まれようが不思議じゃねえ魔窟だがよ。で、最優先じゃねえ事項もあるのか?」
    「無論じゃ。ここのところ鬼化する者が増えていると聞く。この街は確かに出入りが激しくて、正確に住民の全てを把握することが難しい場所ではあるが……」
    「よからぬ物を持ち込んだ馬鹿がいる可能性もなくはない、ってことか。まあ、人の手で鬼を作れるなんて呪術師みたいな真似事が、実際出来ればだけどな」
    「…………」
    「それなら道具や機巧や生物より、ヤバいクスリが出回ってる可能性の方が高そうだ」
     とは言え、玖街は下層区画の中で最も広い。二人で回るにしてもかなり手間取りそうではあった。
    「なあ、おい。面倒臭えから片っ端から職質かけた方が早いんじゃ……」
     煙草をくわえて火をつけながらカゲトラがそう言った時、通り向こうから女の悲鳴が上がった。


    →続く

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