宵待月(よいまちづき)は玖街(くがい)の南部に軒を構える大店で、灰色にくすんだ今にも崩壊しそうなこの街中において、一際目を惹く体を成している。
     鮮やかな朱色の行灯、暖簾は濃鼠色に屋号と月の図を真白に染め抜き、日が暮れ夜ともなれば色とりどりの瓦斯(ガス)灯がまるで桃源郷のごとく、この不夜城を闇の中に浮かび上がらせるのだ。軽やかな三味線や琴の音、艶やかな歌声は、まるで知らぬ間に身体を侵す毒のように蠱惑的に人々を誘い、束の間の夢心地を味わせてくれる。
     玖街をぐるりと囲う鋼壁の門を潜る前に、蒸気四輪は置いて来た。話をしている間に盗まれて丸ごと売り払われるくらいならまだ可愛い気のある方で、下手をしたら車体の下に爆発物の一つや二つは括りつけられてしまうからだ。
     平素から差別され虐げられて、虫けらのごとき扱いを受けるのが当たり前の平民が暮らすこの街は、自然政府や帝国軍に対する反感が根深い。
     おかげで名だたる反政府組織は、殆んどがここに拠点を構えていると言っても過言ではなかった。それぞれ思想や思惑の違いから牽制し合って結託こそしていないものの、帝国軍が彼らを一掃しないのは万が一そうなった時の戦闘力で勝てると言う絶対の自信がないからである。火力や武器でまだ押さえているものの、いつそれが引っくり返されるか冷や冷やしていると言うのが本音だろう。
     もしナナキが対人間要員として戦線に立たされることがあれば、帝国軍の圧勝は約束されたようなものだが、問題は彼女が応とは頷かないことだ。
     とは言え、たった二人でこの辺りを歩くのはやはり無謀と言うより馬鹿のやることだろう、とカゲトラは思う。
     昨日はまだ中央の辺りを歩いていたからそこまであからさまな態度はされなかったが、今日は門を潜るなりばしばしと敵意剥き出しの視線が投げつけられる。
     いつ後ろから狙い撃たれるか、横合いから斬りかかられるか――シュラモドキを落とし差しにしたまま、総毛立って威嚇するような顔付きで歩くカゲトラに、ナナキは小さく溜息をついた。
    「主、疲れるぞ。何も喧嘩をしに来た訳ではないのだから、もうちょっとこう……にこやかに笑ってみろ」
    「突然んなこと言われても……こ、こうか?」
     に、と口角を上げて笑みを浮かべてみせるナナキに強要されて、仕方なしにカゲトラもぎこちなく笑う努力をしてみるものの、何しろ普段はしかめっ面で無愛想極まりない男である。不自然を通り越して、取って喰われそうな迫力があった。
    「うむ、気色悪いの」
    「テメー無理矢理やらせた挙げ句、何だその感想は!?」
    「あ、あの!」
     ナナキの胸倉を掴み上げてぶんぶか振り回しているカゲトラへ、遠慮がちに声がかけられる。
    「あぁん!?」
     不機嫌さ最高潮で振り向いた彼に、ひぃっと引き攣った悲鳴を上げたのは、まだ十にもならない少年だった。カゲトラの攻撃的な反応に涙を滲ませながら、それでも何かを言いた気に、今にも踵を返しそうな足を懸命に踏ん張っている。
    「わしらに何か用かえ?」
     ひょこりと脇から顔を覗かせたナナキに、彼女の方が話しやすそうだと判断したのか、少年はぱっと顔を輝かせて手にしていたものを差し出した。カゲトラは本能的に咄嗟に柄へ手を走らせたが、小さな掌に握られていたのは手作りらしい紙細工の人形である。
    「あの、これ。買ってくれませんか? お守りなんだ」
     正直、それはお世辞にも出来映えがいいとは言えない代物だった。紙自体が薄汚れていたし、よれている上に造形も崩れていて、とても金を払ってまで買おうとは思えない。
     しかし、恐らくは少年自身が必死になって作ったのだろう。ただで物乞いなんて真似が情けなくて惨めで悲しくて、それでも小銭でも稼がねば今日食べるものがない――それが、ここで暮らす人々の実情だ。
     一人相手にしていたら僕も私もと群がって来られそうだったが、ナナキはにこりと笑って、
    「うむ、可愛いの。そっちの籠の奴も一緒にくりゃれ」
    「……これで足りるか?」
     舌打ちをこぼしたものの、財布から紙幣を数枚引き抜いて少年に手渡そうとした刹那、カゲトラの鋭敏な聴覚は微かな音を捉えた。かちこちと規則正しく刻まれる歯車とゼンマイの音――
    「ナナキ、伏せろ!!」
     瞬間、辺りの空気を巻き込んで、少年の小さな身体が爆散した。巻き起こる激震と紅蓮の炎、飛び散った血と肉片の焼ける胸の悪くなるような臭い――咄嗟にシュラモドキを起動させた盾で直撃は避けられたものの、それは予め事態を想定していたからに過ぎない。
    「何故じゃ……」
     受け取った人形をぎゅっと握り締めながら、ナナキが振るえた声で問う。怯えているのではない。怒りのあまりに、だ。
    「多分警告だろ。さっさと失せろって言う……あいつらにとっちゃ、子供は目標物を的確に吹っ飛ばしてくれる生きた装置に過ぎねえ。知ってたはずなのに油断した……すまん」
     反政府組織の行動は、決してその全てが悪政に対抗しての正義故ではない。犠牲になり、踏み躙られて食い物にされるのは、いつだって力を持たない者たちなのだ。
     それを改めて突きつけられたような気がして、カゲトラはナナキの背を支えていた手をぎゅっと握り締めた。


    →続く

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