「ご苦労さん。お入りやす」
     鈴を転がすような軽やかな声に、最早殆んど聞くことのなくなった西訛りの柔らかな口調。促す言葉に従って襖を開けた男――ワスケは、中へ入れと言うように二人に向けて顎をしゃくった。が、自身は入ることを許されていないのか脇に控えたままだ。
     ともあれ、先達て足を踏み入れたナナキに続いて、カゲトラも座敷の中へ歩みを進めた。一等贅を尽くした室内は、士族の屋敷もかくやと言うほどに広い。金箔張りの大きな屏風、細工の美しい瓦斯(ガス)灯、中央に敷かれた大きな蒲団。
     その寝乱れた敷布の上に身体を横たえていたのは、思わず感嘆の息を吐いてしまうほど美しい女性だった。
     天から降りた女神のごとき神々しさと、慈悲深げな笑み。赤い襦袢だけを纏った艶めいた肢体と透き通るように色の白い肌。その容貌は記憶にある十年前のものから、微塵も変化がない。それどころかますます磨きがかかって妖艶さを増したような気がして、内心で舌を巻いた。
     普段カゲトラは他人に対して殆んど礼儀など払わない不遜極まりない男であるが、彼女には受けた恩義がある故に最低限な振る舞いくらいはする。今も軍帽を取ってぺこりと小さく会釈をした。
     廊下に佇むワスケは、玖街(くがい)筆頭の花魁に何たる無礼かと言いた気に顔を歪めたが、コチョウは満足そうに微笑を浮かべて一つ頷いた。
    「相変わらず無愛想な男やねぇ……十年ぶりに顔を見せたんやから、挨拶の一つくらい投げたらどうなん、小虎」
    「…………突然出てって、突然戻ってすまん」
     彼女こそ相変わらず自分を小虎と呼ぶのだと思うと、感慨を覚えた訳ではなかったが、ふと己の奥深いところにある懐かしさはくすぐられた。
     久し振りより元気だったかより先にそう詫びるカゲトラに、コチョウはふふと吹き出して笑う。口許を手にした扇でさりげなく隠してみせるのも大人の余裕だ。
    「ほんまのこと言うと、うちも半分くらいは信じてへんかったんやけど……こないな阿呆な返事するのは、うちの小虎以外にはおらへんわ。どこぞで野垂れ死んだんやろかて、心配しとったんえ? 昔はまだくりくりして愛らしかったんに、すっかり雄の面構えになりよってから……ほんま、美味しそうやわ」
    「…………すまん」
    「それで……何がどうなってその首にでっかい輪っか填めてるんや? 何であんたの最も憎んどる奴らと同じ服着てるんや? 答え如何によっては、ここで腹召して貰わなあかんよ。今はそのお嬢ちゃんに飼われとるって、そう思うてええのん?」
     コチョウの視線が、ようやくナナキに向けられる。
     意図的に避けられているのは解っていたが、花魁の声の温度がぐっと下がったのを感じて、ちくりと棘を刺されたような気がした。それも、悪意と言う猛毒がこれでもかとたっぷりと塗られた棘だ。
     反政府派だからと言うよりは、ただ単に昔世話した男が他の女といるのが面白くないから、と言うのが本当のところだろう。けれど朴念仁なカゲトラは、二人の間に漂う緊迫した空気に気付かないに違いない。
     ナナキは小さく息をついて真っ直ぐにコチョウを見やると、姿勢を正して敬礼を掲げた。
    「ヒノモト帝国軍第十三大隊軍曹、ナナキじゃ。カゲトラとは、つい最近組んで任務に当たることになった同胞になる。主は十分じゃと言うたから、手短に問うぞ」
     聞いているのかいないのか、コチョウは煙草盆を引き寄せて気怠そうに煙管に火を入れた。ふわりと独特の匂いが室内に満ちる。ふーっと細く吐き出された紫煙に目を細めながら、ナナキは言葉を続けた。
    「この街の禁を犯す輩がいる、と……そう密告して来たのは主じゃな?」


    →続く

    COMMENT FORM

    以下のフォームからコメントを投稿してください