「またそんなことがあったの?」
     翌日登校時間が一緒になった春香は、平太から昨日の出来事を聞いて形のいい眉を思い切り顰めてみせた。
     詳細はともかくとして、ある程度平太の事情を知る幼馴染である彼女の立場からすれば、眞撰組の行動は横暴極まりない権力組織に見えるだろう。
     結局部屋に帰ったところで神経が高ぶったせいで碌に眠れなかった平太は、その双眸の下にくっきりとクマを刻んでいた。見た目にあまり色の良くないその顔を覗き込みながら、春香はなおも煮え切らない平太の背中を押すように言葉を紡ぐ。
    「ねえ、あんまり酷いようだったら管理委員会か何かにでも言った方がいいんじゃないの? そう言うのって不当捜査よ」
    「まあでも……別に腕力に訴えられた訳じゃねえし……」
    「………………平太くんが大丈夫なら、私からは何も言えないけど」
     納得はしていない表情で春香は小さく溜息を吐く。
    「でも、我慢しちゃ駄目よ? 私たちが毅然とした態度でいないと、ああ言う人たちってずっと調子に乗るんだから」
    「ああ……うん。解ってる」
     本当はどうするべきなのか、多分平太はよく解っている。
     けれどその行動を取ろうと決意するにはあまりにも彼らとの距離は開き過ぎている。
    ――俺一人が加わったからって、何が変わる訳じゃない……だったら、俺はそんな危険な橋を渡りたくねえんだ……
     大事なものを失う絶望など一度味わえば充分だ。
     とその時、ひゅん……っ、と何かが空気を斬り裂く微かな音が平太の鼓膜を打った。考えるより先に身体の方が反応して、咄嗟に春香をその場に引き倒すと庇うようにその上に被さる。
    「きゃあっ!? ちょ……っ、平太くん!! 何すんのよ!?」
    「いいから動くな、伏せてろ!!」
     状況が理解出来ていない春香はその拘束を逃れようと身動ぎしたが、平太は構わずそのまま彼女をアスファルトに押さえつけた。その傍らで通学路を示す標識が耳障りな金属音を立てて細切れになる。ガラガラと崩れるそれを見遣って、ようやく何かが起きていることに気付いたようだ。
    「ひ……っ!? な、何アレ……」
    「いいか立花、合図したら走れ。絶対後ろを振り向くな」
     突然降りかかった災厄にがくがくと震えながらも、春香は小さく頷いた。そう何度も遭遇する訳ではないとは言え、彼女だってもうこの街に住んでしばらくになる。これが<能力者>の仕業であることは解っただろう。
     全神経を耳に集中する。動くものの気配はない。
    「今だ、走れ!!」
     ばしんと勢いづけるために背中を叩くと、春香は弾かれたように立ち上がって一目散に走り出した。その足音に獲物を仕留め損なったことを理解したのだろう。横合いの路地から一人の少年が姿を現した。
    「あれ……逃げられちゃいましたか」
     その顔を見遣って平太はぎょっとした。思わず目を疑ったと言っていい。
     そこに立っていたのは屯所でぶつかった少年――眞撰組に取り調べを受けたと言っていた、あの目立たないくせに強烈な違和感を覚えた少年だったのだ。
    「マジっスか……」
    ――っつーか、何やってんだよアイツら!!
     みすみす容疑者を捕まえておきながら野に放ってしまったと言うのか。いや、取り調べを担当したのが平隊士などであったとしたら見逃してしまったとしても仕方がないのかもしれない。
     フリーズしている平太に彼の方も気付いたのか、小さく口元に笑みが浮かぶ。
    「おや、この前の」
     舌打ちして咄嗟に踵を返す。
     どんな飛び道具を持っているのかは解らないが、彼の傍にいるのは危険だ。少しでも距離を取らなければ。
     が彼は――<人喰らい>は焦った様子も見せず、寧ろ逃げるこちらの姿を楽しんで嘲るように舌なめずりをすると徐に右手を掲げてみせた。
    「まあ、二度でも三度でも機会はいくらでもありますから」
     ひゅんっ、と再び空気を裂いて何かが迫る音に、手にしていた鞄を背後に向かって投げ出す。テキストが入ってそれなりに強度はあったはずのそれはまるで玩具か何かのように呆気なくバラバラにされた。けれどその一瞬のやり取りで、視界を過ぎったきらきら輝くものの正体を掴んで平太はぞっとしながら足を止めた。
     初等部の少女ばかりを狙っていたはずの<人喰らい>が何故急に目標を変えたのか、その理由を理解したからだ。
     突然平太が逃げるのをやめたのが<人喰らい>には意外であったようだった。興味深そうに眉を上げてわざとらしい驚きの表情を作りながら首を傾げる。
    「逃げなくていいんですか?」
    「お前……昨日の野次馬の中にいたんだろう?」
     質問に質問で返すのは本来なら礼儀に欠く行為なのかもしれなかったが、そんなことに構っている場合ではなかったしそんなことを気遣う必要がある相手でもなかった。<人喰らい>は即答しなかったが、その沈黙こそが何より雄弁な答えであると平太は判断した。
    「あの中にいて、土方のせいでバレた俺の傷を見たんだろう? あの距離でそれが確認出来るのは身体能力が飛躍的に向上した<能力者>しかいねえ……そして、この傷を理由に俺を殺そうと狙う<能力者>はたった一人しかいねえ、はずだ」
     怖い。
     震えて逃げ出したいと叫ぶ足を叱咤しながら懸命に踏み止まる。
     冷たい汗が背中を伝う。
     そうして虚勢を張る平太の目の前で、<人喰らい>の身体が大きく震えて変化した。
     べきばきと人間の骨格を失う嫌な音を立てながら、皮膚が硬化し質量を増した身体が肥大し、今まで内側に隠されていたのだろう脚がぞろりと胸の辺りを彩る。大きく割れた頑丈な顎からは鋭い牙が覗き、複眼と化した双眸が恐怖で血の気の失せた平太の顔を写し出す。
     その姿はさながら人と蜘蛛とが融合した性質の悪いスプラッタ映画か冗談じみた夢でもあるかのような、出来の良くないグロテスクさだった。
     忘れもしない。
     十年前に妹の有希を殺した犯人だ。
    「何で……何でお前が生きている!? お前は死んだはずだ……俺が殺したはずだ!!」
     平太は思わず血を吐くように叫んでいた。
     ズクン、ズクン、ズクン……
     胸の奥が嫌な音を立てて痛む。額の古い傷が抉られるように軋む。必死に閉じ込めようと押さえつけていたものが己を食い破ろうとする。
     フラッシュバックのように脳裏に残像が甦る。視界を埋める赤い炎、黒煙、無茶苦茶に壊された家の残骸、血に塗れた幼い妹の事切れた顔。
    「お兄ちゃ……」
     頬を濡らしていた、涙――
    「ああ……ふふふ。そうですよ……ずうっと探してた、その額の傷……昔僕を殺そうとした君を、僕はずうっと探してた」
     ニタリ、と歪む〈人喰らい〉の口元。
     あの時、平太は死にたくないあまり無我夢中で必死に抵抗した。瀕死の重傷を負った身でありながら、圧倒的なまでの恐怖と焦燥と怒りと悲しみとに突き動かされて、傍にあった得物をがむしゃらに振り回したのだ。
     確かに当時は剣道の世界でそれなりに知られた腕ではあったけれど、死に直面した幼い彼に出来たのは訳も解らず刃を振るうことだけで、それは決して剣と呼べるだけの代物ではなかっただろう。けれど気づいた時には<人喰らい>はバラバラの体で地面に転がり、平太は駆けつけた警察に寄って保護された。
     その証拠に、目の前の<能力者>の八本あるはずの腕は左の一本が欠けている。
    「でも、残念でしたね。僕はこうして生きている。あの時君は僕の肉体を即時再起不能なくらいにまで徹底的に壊してくれたけど、僕の本体に止めを刺さなかった。失敗でしたね……それとも知らなかった? どちらにしろ、そのおかげでこうしてまた僕は食事にありつけるし、君に復讐する機会にも巡り合えた訳だ」
     奇妙にくぐもった――けれどはっきりとした人語で<人喰らい>は平太に向けて告げる。姿形はどう見ても化け物のような彼が未だにきちんとした理性と思考能力を保っているのは、恐怖を通り越して悍ましさすら覚えた。
     先日、歳哉は彼らが言葉も通じない異形だと最早人間とは呼べない存在だと言ったが、それは変化に寄る価値観の違いのことを指しているのだと充分解ってもなお、どうせなら完全に意志疎通など出来ない怪物であってくれた方がどんなにかマシだっただろう、と平太は思った。
    「楽には死なせませんよ。ゴミ屑の如き人間風情が僕をあんなに踏み躙った報いを受けさせてあげます。生きたまま解体してあげるから、せいぜい泣き叫んで僕の慈悲を請うといい」
     そんなつもりなどさらさらないくせに、<人喰らい>は芝居じみた口調で歌うようにそう言うと右手を振り上げた。気配だけで不可視の糸が飛んで来る方角を予測して避ける。
     転がったアスファルトにいくつも穿たれた牙は強力で、そのまま地面を引き剥がして瓦礫が飛び散った。

    →続く