鋼のような強度と鋭さを誇るとは言え、どんな物質でもそこに破壊力を伴うだけの速度がなければ容易に相手を斬り裂ける訳ではない。
    ――つまり、こいつの糸の場合は目標物へ迫る間と絡みついた後引き戻される間……
     それを凌ぎさえすれば時間を稼ぐことは出来る。
     問題は先に逃がした春香が眞撰組の屯所まで走ってくれるかどうかと言うことと、万が一助けを呼んでくれた場合彼らが駆けつけてくれるまで平太自身が保つか否かと言うことだった。
     すぐ傍でガードレールが鉄屑に変えられる。平太は咄嗟に地面を転がり、瓦礫の中から鉄パイプを拾い上げた。
     逃げる間など与えては貰えまい。
     ならばこの場に留まって、<人喰らい>の攻撃をかわし続けるしか選択肢は残されていない訳だが、平太はあの事件直後に刀を置いて以来、剣の道からはずっと遠ざかってわざと距離を取って来た。
     しばらくは生死の境を彷徨うほどの傷を負っていたせいもあったが、妹の死はそれ以上のものをその心に植えつけたのだ。剣士でありながら刀を握れないと言う致命的なものを背負った平太に取って、それは決定的な欠点であることは否めない。
     少しでも離れれば研ぎ澄まされたはずの感覚はすぐさま鈍る。
     進化と成長はじりじりともどかしいほど遅々とした僅かなものなのに、退化と後退はあっと言う間で坂道を転げ落ちるように築いたものを崩壊させてしまうものだ。
     空白期間は十年。
    ――殆ど修練は白紙に戻ったと思った方がいい……
     それでも殆ど習い性のように鉄パイプを構え、<人喰らい>の呼吸と距離を測る。
     間合いの概念は捨てるべきだ。飛躍的に向上したその性能は、地球上のどの生物とも比較すべきではない。
    ――落ち着け……ちゃんと見える、あれは実在する!
     まるで妖かしか何かが操っているように見えても<人喰らい>の使う糸は現実のものだ。見えるし、触れるし、避けて壊せる。
    「くく……そんなものでどうするつもりなんです?」
     獲物をいたぶるように陰惨な笑みを浮かべた<人喰らい>の口から勢いよく大量の糸が吐き出された。
     やはり全ては見えないものの、角度によってはきらきらと日光を弾いたものが見えたり、皮膚に迫った気配を寸前で感じられたりしてかわすことが出来る。それでも致命傷を辛うじて避けられたと言う程度でしかなく、平太の身体をあちこち浅く引っかくように傷つけて、糸はなおも宙を舞った。
     鮮血が弧を描く。
    ――こいつ……
     一撃で殺すつもりなど最初からない。
     それどころか平太を餌にして眞撰組を誘い出し、共に食い荒らしてやろうと言う意図すら伺えて背筋がゾッと寒くなる。
    「ふふ……もっと本気で遊んでくれなきゃ、死んじゃいますよ魁君」
     バキぃっ!
     手にした鉄パイプがへし折れた。
     変形して切っ先のように鋭く尖った先端が視界に入った瞬間、胃の奥から何かが逆流して競り上がって来た。
     掌に馴染む得物の太さが竹刀を思い起こさせる。刀だ。武器だ。それは即ち、人を傷つけるもの――人を殺すためのものだ。いつの間にかそれは平太の中で冷たい光を放つ刃になる。
     ドクン……
     鋼が肉を斬り骨を断ち、胴を貫いて首を落とし、人間をただの肉塊に変える。命を奪い、未来を奪い、存在そのものを根こそぎ否定して踏み躙る。
    「う…………ぇっ」
     込み上げた嘔吐感に口元を塞いだ。三半規管がぐらりと揺らぎ、視界が傾ぎ、世界が歪む。糸が絡みついた訳でもないのにその場に縫い止められてしまったように温度と感覚を失った身体が動けなくなる。
     その隙を相手が見逃してくれるはずもない。
     〈人喰らい〉は大きく腕を振り上げると、その勢いのまま力の限り平太に叩きつけた。
     一応防御に出たが、曲がって強度の落ちた鉄屑などその圧倒的暴力の前には紙片ほどの盾にもならなかった。いや、それはそもそも人が受け止めるには重過ぎる圧力だ。凄まじい衝撃が頭蓋から足の裏まで突き抜け、踏み締めていたアスファルトがクレーターのごとく陥没する。堪えきれずに体躯は地面に叩きつけられた。
     視界が真っ赤に染まったことで、どろりと額から伝う液体が己の血なのだと理解する。古傷が開いたのだろうか?
     ダメージと拒否反応で呼吸が上手く出来ない。
     指一本すら動かせない。
    「平太……ぁっ!!」
     遠くで春華の悲鳴が聞こえた。
     彼女はすぐ傍の路地の入口に佇んでいた。
     来るな、と叫べたかどうかは自信がない。
     もし、助けを呼んでくれたとしても彼女まで一緒に戻って来ては何の意味もないではないか。もうこれ以上、自分の顔見知りの死ぬところなど見たくはないのに。
    ――ああ、やっぱり俺には無理だ……
     誰かを守るなんて、
     何かを守るなんて、
     分不相応なことだ。自分の身の安全すらこんなにままならない。
     車に潰された蛙のような心境の中、平太はスローモーションで落ちて来る止めの一撃を見上げていた。
     が、突然それが消失した。
     一泊遅れて降り注いで来た血雨が、〈人喰らい〉の苦鳴をかき消した。遥か後方に重たいものが落ちる音。それが二本の腕であることは、現われた人影で知れた。
    「間に合って良かったのです」
     総次郎は小さな身体で二人を庇うように前に立つと、手首を振るって二刀の血糊を振り払う。一片の曇りもない、銀色の鋼――彼自慢の菊一文字則宗と加州清光。その名はこの街に暮らす生徒なら誰でも知っている。
     じ、と真正面の敵を窺う眼差しは、いつもの睡魔に襲われた半目ではない。
     彼の手にした二振りの刀と同じように、凛と澄んだ真っ直ぐな瞳。
     眞撰組随一と称される剣の腕を、ただの一太刀でこの場にいる全員の眼裏に焼きつけた。その存在を、その強さを、騙りではなく大袈裟な風評でもなく、揺るぎない現実のものとして。
    「現在指名手配NO.〇〇伍の〈人喰らい〉さんとご推察します。大人しく縄につくなら良いですが、刃向かうつもりでいるなら僕は手加減しないのです。内臓ぶちまけて五体バラバラに解体されるのと、〈施設〉に一生監禁されるのと、どっちがいいですか?」
    「ひ……沖田、総次郎」
     〈人喰らい〉の表情が苦痛と愉悦に歪む。
    「美味そう……ふふ、飛んで火に入る夏の虫です。ひひ……っ」
    「残念ですが、僕を食べたりすると地獄直行コースなのです。あ、それは食べなくても同じか」
     ちゃき、と無造作に構えられた刃が鳴いた。
     恐ろしいほどに静かな空気。
    「蟲はお前だ。キモいから死んでくださいなのです。でも可哀想なので、腹掻っ捌いた後の介錯くらいは務めてあげても良いですよ」
     瞬間、す、と総次郎の姿が掻き消えた。
     いや、勿論彼は剣術の足運びで一瞬にして〈人喰らい〉の懐に飛び込んだに過ぎないのだが、平太の動体視力を持ってしてもその動きを明確に捕らえることは出来なかった。
     〈人喰らい〉にはさらに唐突に少年が姿を現したように感じられただろう。
     身動ぎどころか驚愕する暇もないまま、鋭い一閃を浴びる。血飛沫が上がり、地鳴りのような悲鳴が大気を振るわせた。
     さらに続く斬撃。
     斬り裂き、穿ち、貫き、総次郎はまるで舞いでも舞っているかのように軽くふわりと不規則なリズムで、しかしその動きを緩めることはない。
     一体幾度の攻撃が繰り出されたのか、無呼吸の限界に一度切っ先を引いてひゅっと総次郎が小さな息を吐き出した頃には、〈人喰らい〉はボロ布のような体になっている。苦し紛れに〈人喰らい〉は口から例の鋼糸を吹きつけたが、それは少年を捕らえる前に無残に斬り捨てられた。
    「遅過ぎるのです。欠伸が出ます」
    「ち……ぃっ!」
     舌打ちした〈人喰らい〉は不意に飛び退って距離を取ると、完全にノーマークだった春香に向かって糸を吐いた。
     それは平太にも絡みつき、四肢の動きを封じる。
    「きゃあっ!?」
    「く……っ」
     辛うじて右腕だけは避けたお陰で無事だったが、鉄パイプがへし折られたせいで得物がない。
    「へーた君! はるかちゃん!」
     それまで余裕の色を浮かべていた総次郎の無表情が僅かに崩れた。
     その隙を狙って重い蹴りが放たれる。
     総次郎は二剣で攻撃を受け止めたが、体重の軽い小柄な彼に力比べは酷だ。ずりずりとそのまま押しやられる。
    「ふふ……確かに君は超一流の剣士でしょうよ。眞撰組創設以来の天才と言う謳い文句は伊達じゃないらしい」
     ボタボタと鮮血を滴らせながら〈人喰らい〉は嗤う。
    「だけど、今は僕に有利な状況だ。人質が二人もいますからね。君は守りながらの戦い、なんてものは苦手でしょう? 枷があると君は実力の半分も出せない……違いますか?」
    「む……」
    「だからここで散る羽目になる」
     ぐん、と力負けして総次郎は押し切られるままに飛び退った。そこに鋼糸の波がいくつも襲う。
    「…………っ!」
     そのうちの二、三が少年の手足を斬り裂いて絡まった。
     逃れようともがけば、ぎしりと糸が軋む。血泉が噴いた。
    「総次郎くん!!」

    →続く