しかし、彼の表情はあの一瞬以外相変わらず茫洋と掴みどころがないままで、今は微かに口唇が薄い笑みを浮かべているようにも見えた。
    「ふ……捕まえただけで僕を屠れると思ったら、大間違いなのです。僕たち眞撰組は」
     僅かに手首が翻り、白刃が鋼糸から少年を解放する。
    「人質救出よりも〈覚醒者〉殲滅を最重要任務、最優先とするように叩き込まれているのです。そんなものを取ったところで意味はありません」
     その冷徹とも取れる言葉に、びくりと春香が身体を強張らせる。
     自分たちは見捨てられる――壬生狼は正義の味方ではない、とでも思ったのだろうか? 鋼糸を通して伝わってくる不安の漣に、平太は静かに眼差しを伏せた。
     そうだ。
     眞撰組は警察機関としてこの街に設置されてはいるが、あくまでも〈感染者〉や〈覚醒者〉を狩り、事件や事故を予め未然に防ぐ、と言うことが主な役割として政府から与えられたものだ。起こってしまった事件の魔手から誰かを守るなど、付属の仕事に過ぎないのである。十の犠牲を食い止めるためならば一を見捨てる――その壮絶な決断力がなければ、たったあれだけの人数でこの街を守ることは出来ないだろう。
     誰もが嫌い、憎み、疎み、忌避しているくせに、何かがあった時だけ頼りにすると言うのは都合の良すぎる話ではないか。
     総次郎はそんな淡い期待を、偽善を許すつもりはないのだろう。
    「ですが」
     ひゅん、と空気が鳴る。
    「生憎僕は、そこまで人でなしにはなれないようなのです」
     気配を感じて、平太は驚いた。視線を上げ、振り向きもせずに投げられたものを右腕で受け止める。
     総次郎の愛刀、加州清光。
     サムライの魂であるそれを、己の分身であるそれを、他人に預けると言うことが一体何を意味するのか――それが解からなくなってしまうほど、まだ自分は剣を憎んではいないのだ、と平太は皮肉な気持ちで鞘をくわえ、刃を抜いた。
     拘束を断ち斬り、続けて春香の身体に絡みつく糸も斬り裂く。
    「平太……」
    「俺は……二度と後悔したくないんだ」
     背後に庇った幼馴染から、信じ難いと言う視線が飛んで来るのを平太は甘んじて受け止めた。いや、誰よりも自分自身が信じ難かった。
     何にも関わることなく。
     何にも揺らぐことなく。
     目立たず騒がず静かにひっそりと。長いものに巻かれて流れに任せて世間に埋没して生きていくはずだったのに。誰ともぶつからず争うことなく平和に穏やかに淡々と日々を過ごしていくつもりだったのに。
     何故なのだろう。
     有希の笑顔が脳裏を過ぎった。
    『お兄ちゃん……』
     あの日――妹を守れなかった償いを今果たそうとでも言うのか?
     そんな明確な想いではない。ただ薄ぼんやりと、このまま見て見ぬフリをすれば、総次郎に全てを任せてしまえば後悔することになる、そう思った。
     総次郎の信頼を裏切ることになる。
     春香を失うことになる。
     それは、
    ――人でなしってやつじゃねえの……?
     総次郎はちらりとこちらを見遣って、やはり僅かな笑みを浮かべた。
    「ご覧の通り、守るべき対象は一人。こちらは二人なのです」
    「ひひ……魁君、手が震えてますよ。そんな調子で刀を振れるんですか?」
     <人喰らい>の言う通り、いくら気力でカバーしたところで、身体が拒否反応を示すことまでどうにか出来る訳ではない。平太の切っ先は素人が見ても解かるほどに、カタカタと震えてぶれている。定まる様子が、ない。
     竹刀ではない、本物の真剣はずしりと重かった。
     これは、紛うことなき人の命を奪うための道具だ。傷つけ、屠り、壊すための道具だ。それは今まで平太が知っているものとは違う、魂を背負う故の重さがあった。
     こんなものを――総次郎たちは常に帯びて、常に抱えているのか。
     ぎらりと獰猛な光を放つ鋼の鋭い切っ先。
     竹刀ですら持つことを拒否した身体は、鋭利なものを拒絶するようになった身体は、凄まじい怖気を全身に駆け巡らせていたが、込み上げる吐き気を堪えて平太は真っ直ぐに正面の〈人喰らい〉を見据えた。
    「俺は……春香を守ってみせる。お前に、妹ばかりか幼馴染まで奪われて堪るか!」
     しかし、決死の覚悟を〈人喰らい〉は甲高い笑い声で嘲笑った。
    「ひゃはっ! 筋違いもいいところですよ!? 僕は確かに君の妹を〈喰らい〉はした。だが、生きたままだ。決してすぐには殺さない。僕は絶望と苦痛と恐怖に歪む女の子の顔が好きですからね。だから君が僕の〈食事〉に気づいた時、君の妹はまだ生きていた……違いますか?」
     ずきん……っ、
     頭に激しい痛みが走り、視界が歪む。
     再び眼裏をあの日の記憶が走り抜けた。
     あの日、あの時、この化け物に組み敷かれていた有希は、四肢をバラバラに引き裂かれ、内臓をぶちまけ、生きながらに身体を貪られると言う地獄のような所業の被害に遭った。
    『痛いよ……けて、助けて……お兄ちゃ…ん』
    「…………れ」
    「それをどこかからか剣を呼び出して、僕もろとも妹を斬り裂いて死に追いやったのは、可愛い可愛い妹に止めを刺したのは、君自身じゃないか!」
    「黙れええええええええええっ!」
     空白だった記憶が埋められる。いつも途切れていた夢の続きが再生される。
     それはいくつもの魂を葬り、血を啜って永らえて来た刀を手にしたせいなのか、自ら忘れようと封印していた罪が感情の箍が外れて噴き出してしまったのか。
     聞きたくない。
     聞きたくない。
     聞きたくなどない!
     平太は吹き荒れる怒りの感情に任せてアスファルトを駆けた。思考を放棄する。恐怖よりも悍ましさよりも怒りが勝った。
     人口の大地を蹴って跳躍。大きく清光を振りかぶる。
    「へーた君! 駄目なのです、そんな死に体じゃ……」
     剣術の最高の一撃は、常に心技体が一致して初めて生まれるとされている。
     感情だけが先走り、細かなタイミングがずれた平太の打ち下ろした刃は、呆気なく〈人喰らい〉に弾き飛ばされた。
     ずばっ!
     着地する間もなく吐き出された鋼糸が逆に平太を斬り裂く。
    「ぐ……ぅっ」
     先程のダメージも大きい。コンクリートの壁に叩きつけられた平太は思わず苦鳴を漏らした。
     こちらを先に仕留めようと思ったのか、意識を向けている〈人喰らい〉の死角から総次郎が抜き打ちに一撃を放つ。
    「がああああああああああああああああっ!」
     振り向きざま放たれた反撃とは別の何かを感じたように、総次郎の視線は脇に流れている。が、そのどちらからも逃れるように、大きく数度トンボを切って後退した。
     瞬間、
     ズダダダ……っ!
     背後から突然飛来した無数の矢が、〈人喰らい〉の身体を貫いた。アスファルトやコンクリートにも軽々と突き刺さるそれに、慌てて距離を取って平太は総次郎の見つめていた先から現われた集団に小さく息を飲んだ。
    「土方……」
     一個小隊ほど人数がいるだろうか?
     皆抜刀しており、その後ろに弓を番えた別の一団がいる。
    「帰りが遅いと思ってみたら……足手まといつきか」
    「ちょ……誰が足手まといっスか!?」
    「貴様らの他に誰がいる。構わん、放て!」
     しかし、次々と穿たれる矢を飛んで躱したついで、と言うように〈人喰らい〉の身体は大きく跳ね、傍らに建つ屋根の上に降り立った。
    「ひひ……これは危ない危ない。多勢に無勢、三十六計逃げるにしかずですね。でも、僕は一度狙った相手は絶対に逃がしませんからね。覚悟しておいてくださいよ」
    「何をしている、追えっ!!」
     ひらりと身を翻して一同の前から姿を消す人外に、歳哉の鋭い叱声が飛ぶ。
     しかし、地上から追ったところで振り切られるのは時間の問題だろう。無論、アレと同じように屋根を跳躍しながら追えるような人員がいるとは到底思えない。
    「ち……念のために熊も瞬殺出来る毒を矢に塗っているんだが……奴らの進化した身体には、やはり効かねぇか」
    「……逃げられちゃったのです……」
     ぽつりと総次郎が呟いた時、どさりと何かが倒れる音が鼓膜を打った。
     慌てて振り向けば、春香がアスファルトの上に蹲っていた。心なしか顔色も悪く、カタカタと身体が震えている。平太は慌てて駆け寄った。
    「春香……どうした? 怪我でもしたか?」
    「解かんない……何か突然、胸の辺りがズキッてなって……」
     先程鋼糸に捕らわれたとは言え、服に血は滲んでいない。
     打ったのか、とも思ったが、いくら幼馴染とは言え男が確かめる術もないまま平太が途方に暮れていると、容赦なく背中が足蹴にされて吹っ飛ばされた。顔面からアスファルトに突っ込む。
    「ちょっと見せてみろ」
     歳哉だった。
    「おいいいっ! 無視か!? 俺の存在は無視なのか!!」
    「他に痛む場所は?」
    「い、いえ……」
     完全にスルーされて泣きたくなった。
     気圧されて緊張の表情を浮かべる春香のことは歯牙にもかけず、歳哉は淡々と彼女に視線を走らせ差支えのない範囲で触れて怪我の有無を確かめていく。
    「外傷は特にないな。骨も……触った限りではどこも正常に見える」
    「あ、あの……もうそんなに痛くないので……」
    「……っ、まさか!?」
     大丈夫です、と続けようとしたところでいきなりバッと歳哉に制服の胸元を肌蹴られて、春香は真っ赤な顔で悲鳴を上げた。鮮烈な平手が飛んだが、僅かに眉を顰めただけで歳哉はその不躾な行動を止めようとも謝ろうともしない。堪りかねた春香の方が羞恥で涙目になる始末だ。
    「なななな何するんですか、いきなりっ!!」
    「ちょ、土方!! お前な……」
    「貴様、〈餌〉にされたぞ」
    「え?」
    「見ろ」
     歳哉が指差したヵ所には、どす黒い何かの紋様のようなものが肌の上に刻まれている。それはうぞうぞと時折這い回るように形を変えて蠢き、まるでそれ自体が呼吸をしているかのように鈍い光を放った。
    「いやあっ!! 何これ!?」
    「〈人喰らい〉のマーキングだ。奴は狙った獲物を逃がさない。他人に盗られないためにも自分のものだと言う証を刻みつける。〈人喰らい〉を倒さない限り、それが消えることはない」
    「そ、そんな……じゃあ、一体どうすれば……」
     カタカタと恐怖に震える自分の肩を春香はぎゅっと抱き締める。その双眸は不安で染まり、今にも零れ落ちそうなほど溢れる涙で縁取られていた。
     歳哉は口唇を引き結んだまま、簡単には答えない。
     いや、答えられないのか。
     眞撰組の頭脳と呼ばれ、隊士を動かす全指揮権を局長の近藤から預けられている彼が、一体今の短い攻防でどんな計算を弾き出したのか。
    「お願い……助けて! 私あんな化け物に黙って殺されるなんて、絶対嫌よ!! 何でも言うこと聞くから……お願い、土方さん!」
    「……何でも言うことを聞く、か。本当だな?」
    「ええ」
    「ならば、貴様は何もしなくていい」
    「え……?」
    「普段通りに振舞っていろ。今までと同じように、何一つ習慣を変えるな」
     歳哉の言葉の意味がよく解からない、と言うように、春香が双眸をぱちくりと瞬かせる。
     けれどそれが意味するところは一つしかない。
    「土方っ!!」
     平太は湧き上がって来る激情に任せて、歳哉の胸倉を乱暴に掴んだ。非難を込めて睨みつけると、冷めた――否、それを通り越して凍えた氷海のような眼差しとぶつかった。
    「お前……春香を囮にするつもりかっ!?」
    「そうだが、それが何だ?」
    「『何だ?』じゃねえよ! そんなことして春香にもし、何かあったら……」
    「ふん……どこかに閉じ込めて、警備し、匿っておけとでも?」
     歳哉はパシッと平太の手を振り払うと、刃のような鋭い笑みを浮かべた。それは一歩も引く気のない、妥協などするべくもない者のふてぶてしいまでの傲岸不遜な笑みだった。
    「密室で〈人喰らい〉に襲われてみろ。武道の心得のない一般女性が生き残れる確率は五分を遥かに切る。貴様は低いその生存率に賭けるか? ましてや、そこに至るまでに他の犠牲が出る確率は八割七分――いや、アレの性質を鑑みると九割三分と言ったところか」
    「…………っ」
    「我々は一般生徒を〈覚醒者〉の毒牙に晒す訳には行かない。やり方に文句があると言うのなら、貴様が彼女に四六時中張りついていればいいだろう、『魁』の」
    「そ、それは……」
     言葉に詰まった。
     悔しい。
     言い返せない。
     気持ちがぐるぐると喉のところに閊えたように出て来ない。
     名前ではなくわざと渾名で呼んで挑発されたことに、やってやるぜと啖呵を切ることも出来ない。視界がぐらりと歪む気がした。こちらが行動出来ないことを見越した上で、全ての葛藤を見透かした上で、出来もしないのにデカい口を叩くなとでも言うように嘲笑う歳哉の眼差しに、ぐっと拳を握り締める。
     奥歯で噛み砕いて止まってしまった声を代弁するかのように、平太の震える手をそっと握り締めて春香が庇うように一歩前に出た。
    「私、やります」
    「春香……っ」
    「他の人が傷つくなんて嫌だし……怖いけど、待っててもそれが変わる訳じゃないから。その代わり、ちゃんとしっかり守ってくださいね」
    「ふん……言われるまでもねえよ」
     微かに双眸を細めてくるりと踵を返すと、歳哉はくるりと踵を返した。

    →続く