「失礼します、局長。ただ今お話をしてもよろしいでしょうか?」
     太陽が地平線に沈んだ頃、一人局長室に入って来た歳哉は、相変わらず用件のみを伝える無駄のない口調で口を開いた。疑問形の体は取っているが拒否を許さない声音である。
     向かいに綺麗な姿勢で正座をする部下を見遣って、実に堅実的だと思った。
     生憎と近藤は夕食の最中だったが、この程度のことは日常茶飯だ。耳を傾けてさえいれば問題ないことなので、顔に似合わずバリバリと豪快に魚を頭から齧りながら頷いた。嚥下して、ふと重要なことに気づく。
    「勿論、構わない。それはそうとトシの方こそ夕食は……」
    「問題ありません。後ほど頂きます」
    「そうか……ならいいけど、忙しさの余りに抜いたりするんじゃないぞ? 我々の仕事は身体が資本……いつでも全力で戦える状態でいるために、飯は必要だ」
    「……御意。存じております」
     珍しく小さく笑った歳哉は、手にした封筒の厳重な封をくるくると解きながら真っ直ぐに近藤を見遣った。中からは大型クリップで留められた分厚い書類が出て来る。
    「先の〈人喰らい〉の言葉が気になって……いえ、以前から聞き覚えのある名に不信感を抱き、藤堂平太の件を山崎に探らせました。余程のことがない限り身辺調査は行わぬ局長のご意思に背き、身勝手な真似をいたしまして申し訳ございません」
    「いや……いずれは、そうして貰わなけりゃならなかっただろう。気にするな」
    「は……」
     深々と額を畳につけていた歳哉は、だがなおも顔を上げようとはしない。
     僅かな物証から今回の事件の犯人に見当をつけていた彼が、早い段階でその事件の『第一被害者』の血縁である平太のことを調べていることには気づいていたが、近藤は止めなかった。その意味すらもきっとこの頭のキレ過ぎる男は理解しているのだろう。
    「で……トシはその報告書を読んだ訳だろ?」
    「はい」
     近藤は少しだけ面白がるように、年相応の悪戯な光を宿した双眸で歳哉を見遣った。その気配を感じ、思わず背筋が伸びる。
    「感想は?」
     椀を手に取り、口をつけながら問うと歳哉は困惑したように視線を伏せたまま顔を上げた。即決・即断・即行動が身上である彼にしては、余り見ることの出来ない躊躇を含んだ表情だ。
    「俺には……判断しかねます。現に今の奴は戦力外以外の何者でもない。局長が評価をするには値しない人物だと思います。例え……」
    「…………」
    「例え、我々と同じであっても、藤堂が異端中の異端であることに変わりはありません。このまま人畜無害な無能で終わるか、人類に牙を剥く異形となるか……〈対策本部〉が問題なしと太鼓判を押しているとしても、俺は……」
    「トシ」
    「はい」
     閉じた障子から差し込む西日が近藤の横顔を照らす。
     暗い室内が濃い陰影を作るせいで、その表情ははっきりとは窺えない。続いた声音は凪の水面のように静かで深いものだった。
    「俺たちには時間がない」
    「…………」
    「何度も交渉して彼の了承さえ貰えれば、俺は藤堂を空席の八番隊長に据えるつもりでいる。必要とあらば」
     近藤は椀の中身を綺麗に飲み干して、微かに笑みを浮かべた。
    「化け物とだって手を組むさ」
    「……御意」
     深く低頭すると、歳哉はそのまま報告書を渡して席を立った。無駄話をするつもりは毛頭ないらしい。愛想と言う言葉とはいつも通り無縁だった。
     恐らくは、現在も頭の中は明日実行する計画の作戦を何パターンも立ててシュミレーションしているのだろう。こちらに最も害がなく、確実に相手を屠るための布石と経路とタイミングを。
     近藤はそれら全てを――要は現場における全ての権限を、歳哉に委ねて任せている。彼の立てる策略を否定することも変更することも、未だかつて一度もなかった。それは「近藤ならこう指揮するだろう」と言うことを徹底的に考え抜いた上で、さらにそのクオリティーを高めてくれる歳哉の喧嘩師としての才能に(策士と言うには彼は余りに苛烈で真っ直ぐだ)、全幅の信頼を寄せているからだ。
    「局長」
     襖を開けて立ち止まると、歳哉はこちらを振り向かずに近藤を呼んだ。紡がれた声は硬質で、氷点下の冷たさを孕んでいる。
    「何だ?」
    「俺は……眞撰組に仇成すものは、それが何であろうと躊躇も容赦もなく斬ります。例え……貴方の贔屓でも」
    「……知っているさ」
    「失礼しました」
     冷えてしまったおかずが残る膳に視線を落とし、「例え貴方でも」と歳哉に続けられなかったことに近藤は密かに安堵した。
     己を縛る冷徹なまでの『局中法度』を作り上げ、この眞撰組の規律を守り、絶対的な圧倒的な力でもって隊士たちを従わせることは、決して歳哉自らが望んだ訳ではない。
     しかし、鉄の掟でもなければこの集団を纏めることはいかな人望をもってしても不可能であり、ともすればすぐに瓦解してしまいかねない組織を強固なものにするためには、何かしら彼らにとって普遍で平等で恐れ誇りに思うべき何か拠り所が必要であった。
     『鬼の副長』と忌まれようとも、
     歳哉は近藤が作ったものを全力で守るために敢えて非道の仮面を被った。
     そうして心を凍りつかせておかなければ、情に流され、油断し、隙を見せれば、すぐに喉笛を噛み千切られることを彼は本能的に知っていたのだ。無駄を排除し、徹底的で愚直なまでにただ鋼のごとく強靭で速やかなる姿勢を貫かなければ、到底自分たちの背負った宿命を全うなど出来ないことを知っていたからだ。
    ――だけどまあ、トシのそう言うところに俺は甘えている……
     歳哉の気配が遠ざかってから、近藤は残された報告書を手に取った。
     監察方を務める山崎の几帳面な字で、『藤堂平太に関する調査報告書』とあるそれはこんな書き出しから始まっていた。
    『現在未だもって〈対策本部〉から危険度Aクラス人物指定を受けている藤堂平太は、〈ウイルス〉に感染しないまま〈覚醒者〉となった非常に稀有な検体であり――』

    * * *

    →続く