翌朝、女子寮の前には眞撰組隊士がぞろりと整列して、いっそ壮観とも言える光景を作り出していた。いずれも額当てを締め襷掛けを施して、得物を手にした物々しい姿で下される命令を待っているらしく、その顔は引き締まった表情が浮かんでいる。
     その中に一際小柄な総次郎を発見して、平太は思わず駆け寄った。何でもなさそうにしているが、昨日負った傷は浅くとも塞がってなどいないはずだ。隊服の裾からちらりと覗く真新しい包帯にずきりと罪悪感が胸を刺す。
    「おき……総次郎くん!」
    「へーた君、春香ちゃん。おはようなのです」
    「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
     ぺこりと頭を下げる総次郎につられるように、春香も慌てて会釈を返した。一番隊長は相変わらず感情のイマイチ読めない顔で、小さく頷く。
    「任せて下さいなのです」
    「総次郎くん……その、怪我は? 大丈夫なの?」
     辺りを窺うようにして憚る声で平太がそっと問うと、総次郎は一瞬何を言われたのか理解しかねたようで、数秒の空白の後ようやくああ、と腕に巻かれた包帯に視線を落としてみせた。
    「こんなの怪我の内には入らないのです。例え手足の一つや二つもがれようと、命を落とすことになろうと、必ず<人喰らい>は僕が仕留めるのでご安心を」
     そんなことを言われて呑気にああそうですか、と日和れるほど平太の神経は生憎太くなかった。
     かと言って上手い言葉をかけることも出来ずにもだもだと手間取っている内に、隊士たちの間に僅かにあったざわめきと緩さがぴたりと収まった。
     代わりにこの場を支配するのは息が詰まりそうなほどの緊張と高揚感。
     人垣が二手に割れて、その羨望を一気に受け止める人物が――局長である近藤が、真白い隊服を纏ってこちらへとゆっくり歩いて来る。堂々とした背中に続くのは、無論副長の歳哉だ。今日も変わらず精悍な容貌に仏頂面を貼りつけて、不機嫌そうに眉間を寄せている。
     それに比べ、近藤は対照的なまでに朗らかな笑みを浮かべ春香に右手を差し出した。
    「局長の近藤です。警護は我々に任せていつも通りの日常を送られて下さい」
    「はい、ありがとうございます」
    「無事に事態が収束した暁には、是非ともお茶の一杯くらいご一緒させていただきたいものですな」
    「は、はあ……」
     握手を交わしながらも抜け目なくそう言う近藤に、わざとらしい咳払いをしてから歳哉が口を開いた。
    「目標対象人物の警護は俺と総次郎の二人で行うこととします。局長は市中にて〈人喰らい〉の探索、及びその指揮をお願いします。そちらには永倉、斎藤、原田隊を配置します故、広域での活動でも問題ないかと」
    「ああ……ぱっつぁんに斎藤くんにさのがいたら、俺は何もしなくていいから楽だなあ」
     あはは、と呑気に笑う近藤を見据え、歳哉はさらに言葉を続ける。
    「何もしないでいただきたいと思っております。指揮現場を動かないで、がっちりガードされていてください。局長は弱いんですから。永倉たちにはよく言って聞かせております故、サボって逃走しようとしても無駄ですからね」
    「そうね、俺隊内一弱いからね」
     そのやり取りを後ろで眺めながら、平太はぼそぼそと総次郎に耳打ちをした。
    「総次郎くん……近藤さんって弱いの?」
    「弱いのです」
     あっさりと肯定されて、余計に不安が募った。
     しかし、総次郎が冗談を言っているようには見えなかった。いや、総次郎が冗談を言えるようには見えなかったと言った方が正しいか。
    「……こう言う組織って、一番強い人が頭になるもんじゃねえの? 大丈夫なの? ってか、フォローしないんだ……」
    「他の組織はそうかもしれないですが、ウチはこれでいいのだと思うのです。局長は本当に弱いのです。犬に噛まれても死ねるくらいの弱さです。ですが、それを補うために他の幹部がいるのです」
    「犬に噛まれても死ねるくらいって……それ、人としてヤバいんじゃ……」
     うだうだと呟いているうちにこちらに話が振られる。近藤がいつの間にか自分を見遣って笑みを浮かべていることに平太は気づいた。
    「二人じゃ手薄で心配……って言いたいところだけど、そうか魁君もいるんだったな」
    「アレは頭数に入っていません。せいぜい捨石です」
    「捨石って酷くね!?」
     舌打ちと共にそう宣言されて抗議してみたものの、歳哉の耳に入っているとは思えなかった。こちらの抗議など素知らぬふりで詳細な地図を広げ、
    「今までの行動パターンと<人喰らい>の性質を考慮すると、奴はあまり相手が多人数の場合や真正面からは襲いかかって来るような真似はしない。不意打ち、死角や物陰からなど獲物の僅かな油断と隙を突いて攻撃を仕掛けて来ることが殆んどだ。つまり、襲撃があるなら通学中をおいて他ならない」
    「学校や寮で襲われる心配はないってことですか?」
     自分から囮を引き受けはしたものの、やはり恐怖は途絶えないのだろう。青白い顔で春香がそう問うと、歳哉はちらりとだけ鋭い視線を上げてから首を横に振った。
    「ゼロとは言えない。ただ、奴は今の生活が気に入っているらしくてな……そうそう正体を暴露して、楽しい学生生活をぶち壊したくはないんだろう」
    「あ……」
     不意に胸を過ぎった違和感に平太は思わず声を上げた。
    ――そうだ、アイツ……
     昨日は変貌した<人喰らい>の姿が衝撃的過ぎて根本的な部分を見落としていた。彼は平太と妹を襲ったあの時から殆んど元の姿に変化がなかったのだ。十年が経ち――小学生だった平太は高校生にまで成長したにも関わらず、<人喰らい>は記憶にあるまま年を取っていなかった。
    「もしかして、<覚醒者>ってのは年を取らない……のか?」
     それならばいつまでもこの閉ざされた牢獄のような街で、檻のようなこの街で、たくさんの生徒たちに紛れて姿を隠し獲物を屠り続けることが出来る。もしも元の街で一向に成長しない人間がいたとすれば人目につき、すぐに正体がバレてしまうかもしれないが、ここはまさに彼が隠れるための絶好の森だった。
    「……そう言うことだ」
    「副長、そろそろ時間なのです」
    「よし……行くか。総員、配置につけ!」
     総次郎の声で時計を確認した歳哉が号令をかける。
     ある一隊は速足でこの場を後にし、ある一隊は別の方角へ散り、訓練された様子でそれぞれの持ち場へ向かった。
     いよいよ、と言うぴりりとした緊張に自然背筋が伸びる。一応部屋の奥から引っ張り出して来た木刀を腰に佩きはしたものの、内臓が掻き回されるような不快感は絶えず神経を苛んでいたし、両掌もびっしりと汗をかいたまま何度拭っても収まる気配はない。
    ――大丈夫……俺は春香を守るだけだ……
     <人喰らい>を狩るのは自分の仕事ではない。
     そう何度も言い聞かせることで、平太は何とか平静を保っている。
    「足手まといになるなよ」
    「なりません」
    「ふん……爪牙の折れた獣なんざ家畜と同じだ。せいぜい噛みつくことだな」
     先頭は総次郎、春香の左手に平太が並び、歳哉が背後を受け持つ形で高等部へと登校のための道を辿る。
     折悪しくも分厚い雲に覆われた灰色の空からは、小さな雨が降り始めた。
     息が詰まるような時間が続く。
     女子寮からたかが徒歩で十五分ほどの距離にある高等部校舎までの道のりが、これほど長く感じたことは未だかつてなかった。四方八方に注意力を絶え間なく注ぎ続けると言うのは、想像していたよりも随分な重さで平太の両肩に圧し掛かっている。
     人間が全力で集中出来るのはせいぜい数分程度が限界だ。歳哉や総次郎のように鍛錬を積み、常に前線で危機察知能力を駆使せねばならないのならその緩急の具合を上手くコントロール出来るのかも知れないが、何分平太はこうしたピリピリと緊張感に満ちた場に立つこと自体十年ぶりだ。空白期間を不安に思う気持ちが自然と必要以上の力を全身に漲らせてしまう。
     数メートルの距離を置いて、総次郎が率いている一番隊の面々が周囲を警護しているのだから、そこまで気負うことはないと頭では理解していても、圧倒的に自分が戦力として劣っていると言う思いが気後れをさせた。
    ――駄目だ……不安なのは的になってる春香の方なんだから……俺がしっかりしねえと!
     ちらりと横目で窺えば、やはり幼馴染の顔色は優れない。
     が、平太の危惧を余所に道中は何事もないまま消化されていった。
     いっそこのまま何もないのかと、昨日の今日で厳戒体制を敷くのは余りにも早まった行動だったのではないかと、ほんの少しだけ平太がその緊張感を思わず緩めた時である。
     ひゅん……っ!
     鋭く空気を切り裂いてこちらへ何かが飛来した。平太の聴覚がそれを捉えた時には、総次郎の愛刀が閃いて既に影すら見せず真っ二つにしている。乾いたアスファルトに音も立てず転がったのは、鋼の強度を誇る<人喰らい>の糸だ。
    「ど、どこから……っ!?」
    「へーた君、来ます! 十時の方角、五メートル上空!!」
     言われてそちらへ視線を上げると、無人店舗が看板を連ねるビルから小雨など歯牙にもかけず黒い影が滑空して来るところだった。まだ『変形』はしていなかったものの、見間違えるはずなどない<人喰らい>だ。そのロ元からさらに大量の糸が春香目がけて吐き出される。
    「ひ……ぃっ!」
     いくら強がっても覚悟を決めていても、いざその生命が喪失の危機に直面した時一体どのくらいの人間が、きちんと咄嗟に正しい選択をして行動出来るだろう? 凍りついたようにその場に縫い止められた春香へ平太は半ばタックルするように庇って地面へ伏せさせる。その頭上を掠めた糸は、きっちり歳哉が斬り下げてくれた。
     一方で真正面から迫る幾多の鋼糸を相手取っている総次郎の体捌きは圧巻と言って良かった。不規則な動きで獲物を翻弄し屠るであろう<人喰らい>お得意のお家芸も、かの天才剣士にかかってしまえば児戯に等しいことらしい。
     が、伏せていた平太は不意に目の前で起きた出来事にぎょっとして息を飲んだ。
     信じ難かったが、二人に斬られ地面に打ち捨てられていた糸がもぞもぞと身動ぎをしたかと思うとそのままくしゃりと自らの意思で丸くなり、小さな蜘蛛へと変化したのだ。それが一体何を意味するのか解らないほど平太は愚かではないつもりだった。
     上空の<人喰らい>に注意を向け足元が疎かになっている総次郎と歳哉へそれが牙を向く前に、平太は腰の木刀を引き抜くと思い切りその切っ先を突き立てた。
    「……………………っ、」
    「あ」
     自分の足元に転がった蜘蛛の死骸に二人も経緯を理解したのだろう。
     視線はこちらへ向くことはなかったが、総次郎が小さな笑みを浮かべたのが気配で伝わって来た。
    「ありがとうございます、へーた君」
    「いや……」
    「それにしても残念なのです」
    「え?」
     溜息と共に吐かれた言葉に思わず顔を引き攣らせると、
    「僕たちだって、無闇やたらと<能力者>を始末してる訳じゃないのです。時には相手がクラスメートだったりすることだってあるし、そうでなくとも縁あって同じ時間をこの巨大な檻の中で過ごす仲間なんだから、出来ることなら生きて捕らえて……治って欲しい、と思うのです」
     いつだったか、無事な者を守りたいから、と言った総次郎の言葉を思い出す。あの時彼は、別の手段があるのならそちらを選びたいと言っていたのではなかったか。
    ――こいつには……その方法が取れるのか?
     ちらりと頭を過ぎったどす黒い感情に我ながら平太はぞっとした。
     妹をあんな風に手にかけた張本人を前にして、例えどんな理由があったところでその罪を赦すのか、と断罪する気持ちが一瞬とは言え理性を上回ったからだ。
     が、総次郎が口にした言葉は平太の想像とは違うものだった。
    「副長、斬捨御免の許可が欲しいのです。アレはもう……手遅れなのです」

    →続く