いつもは歳哉のことを「トシさん」と呼ぶ総次郎が仕事の――剣客の顔をしていた。一体今までぽやぽやと眠たそうなだけだった童顔のどこにそんな厳しさが隠れていたのか、唖然とする平太には構わず、歳哉は一も二もなく頷く。
    「ああ、許可する。作戦を捕縛、確保から殲滅、抹殺モードに切り替える。躊躇せず、斬れ。一片たりとも奴の影を残すな」
    「手遅れって……」
    「もうアレは人間ではないと言うことなのです」
     額宛の位置を直しながら、訥々と総次郎が答える。その声はいつもにも増して抑揚を欠いているかのように聞こえた。
    「思考や自我が<ウイルス>によって乗っ取られ、アレに残っているのは元の宿主の変貌した肉体と他の罪なき生徒を襲う本能だけ。ここまで身体に影響が出た〈覚醒者〉は日常には戻れないのです。放って置いてもいつかは<ウイルス>によって肉体が瓦解します」
    「そんな……要するに、助ける方法がないってことなのか!?」
    「違います」
    「じゃあ……」
     滑り止めのためになのだろうか、いつも巡回中も嵌めているフィンガーレスの革手袋の手で柄を握り直すと、
    「だから、僕たちが助けに行くのです」
    「え……どう言う、」
     微かな笑みを浮かべて、総次郎は一歩前に出た。
    「そこ、動かないでくださいなのです。さすがに、本気戦闘の最中へーた君や春香ちゃんまで庇っている余裕はないのです」
    「ちょ、総次郎くん!」
     いつの間にか本降りになった雨の中を総次郎の小柄な身体が飛び出して行く。襲いかかる幾多の鋼糸の牙を掻い潜り、本来の質量を遥かに超えて巨大化した<人喰らい>へ肉薄する。
    「はあああああ……っ!!」
     裂帛の咆哮と共に総次郎がアスファルトを蹴った。視認すら出来ない速度で刃が鞘走り、存分にスピードと体重の乗った一撃が〈人喰らい〉に牙を剥く。
     が――
     ゴフ……っ!
     総次郎の口唇から血の塊が溢れた。その衝撃に宙でバランスを崩して受身も取れずにアスファルトに叩きつけられる。激しい嗚咽と共に大きく痙攣し、咳き込んで背中が丸くなった。
     が、それは敵前で晒すには余りにも――余りにも無防備な姿だった。
    「ああ……可哀想にね。どんな天才も、己を蝕む自らの害悪には勝てない……僕が知らないとでも思っていたのですか? 眞撰組の沖田総次郎はその圧倒的な剣の腕と引き換えに絶望的な欠陥を抱えている。君は一日合計十分しか全力で戦えない……そうだろう?」
    「な…………」
     にたり、と笑む〈人喰らい!〉。
     動けない総次郎にひゅんっ、と鎌の刃のごときその腕が振り下ろされる。
    「総次郎……っ!!」
     咄嗟に地を蹴った歳哉がかろうじて凶刃の前から総次郎を庇った。が、己の身まで案じる余裕はなかったのだろう。その背中から血飛沫が跳ね上がる。
    「ぐ……ぅっ」
     続く第二撃は鞘で受け止める。
     体勢を整える間もなく、三合、四合――
     凄まじい速さの重い攻撃を、歳哉は寸分違わずに受け止め、あるいは流し、躱して耐え、反撃のチャンスを窺っている。が、その度に背の傷からは血が跳ね、確実に彼の中の何かを削り取って行く。
     雨で視界が悪い中、それがどれほどのことなのか。
     遠目では歳哉の表情を窺うことは出来ない。
    「あは、いいですねいいですね。その耐えてる顔が堪らない。矜持の高い男が膝を屈するのを目にする時ほど最高の快感はないですよ」
    「ふん……憐れんで暴言は聞き逃してやるとしよう。だが、」
    「…………?」
    「遺言はそれでお仕舞か?」
     瞬間――
     ばしゃん!
     大きく水溜りが跳ねるほど強く踏み込み、ぐっとその身体を深く沈めた歳哉が〈人喰らい〉の懐に飛び込んだ! 飛沫を目晦ましに軌道を読ませない、鉄をも斬り裂かんばかりの鋭く重い刃が〈人喰らい〉のがら空きの胴に叩き込まれる。
     がきぃぃぃいいいんっ!
    「な……」
     肉を絶ち骨を割り、体内を滑るはずだった刃は胴に吸い込まれる前に受け止められた。本来ならそこにあるはずがない――第二の口によって。ぞろりと並んだ牙がしっかりと兼定をくわえている。有り得ない、おぞましい光景だった。
     しかし、そこは百戦錬磨の歳哉である。
     がっちりとくわえられた刃を抜くのが無理と判断した瞬間、潔く刀を手放しさらに深く沈めた身体で足払いをかけた。ぐらりと傾いだ〈人喰らい〉の顔面へさらにハイキックが綺麗な弧を描いて決まる。その凶悪な靴底の一撃に、思わず噛み締めていることの出来なくなった第二の口からぽろりと兼定が離れる。それを寸分違わずキャッチして、歳哉は下方から逆袈裟に斬り上げた。
    「おおおおおおおおおおっ!」
     白刃が雨粒を弾いて斬り裂き、彼より遥かに大きな体躯に喰らいつく。
     血飛沫が舞い上がり、〈人喰らい〉の右腕が飛んだ。僅かに切っ先を引き、さらに傷口を抉るように肩口へ落ちる刃。牙を立てたそのままに、歳哉は兼定を振り抜いた。ず、と訓練用の藁束のように容易く、相手の上体がずれた。先程の逆袈裟をきれいになぞり二つに分かたれた胴体は、その中身を撒き散らしながらどう、と音を立ててアスファルトに転がる。
    「口ほどにもねえ……逃げ隠れする卑怯な真似だけは、随分と上手かったようだがな」
     は、と短く呼気がこぼれる。
     血の流し過ぎだ。
     それでも毅然とした態度はそのままに、歳哉はゆっくりと血払いをした兼定を鞘へ納めて踵を返した。懐からケータイを取り出す。他の隊士の犠牲を出さぬようにと、部下たちは少し距離を置いて待機していたのである。
    「ああ、俺だ。すぐに救護班を手配しろ。総次郎が倒れた。場所は……」
     その背後で、事切れたはずの〈人喰らい〉の身体がピクリ、と動いた。ゆっくりと――倒れていた操り人形が引き上げられるように上体が起き上がる。
    「土方……後ろっ!!」
     平太の声に歳哉は咄嗟に飛び退る。
     今まで彼が立っていた場所に銀糸の奔流が突き刺さった。アスファルトが剥がれ、砕け散る。地面を抉ってなおも追い縋るそれを斬り捨て、歳哉は大きく距離を取った。剣士として激戦の最前線に立って来たその勘が、本能が、異常事態に警鐘を鳴らしている。
    「馬鹿な……っ! 仕留め損ねただと!?」
     ぐるぁああああああっ!
     咆哮が大気を振るわせる。
     雨粒を弾いて跳ね起きた〈人喰らい〉の身体が、まるで内側から爆発するように増殖した。
     それはもはや人の領域を超えていた。
     両断されたはずの身体は再生してくっつきはしているものの、まるで蜘蛛を思わせるような下半身へ変貌してしまっている。言葉で説明されずとも、彼を治療する術などないことは火を見るよりも明らかだったし、殺さずにこの場をやり過ごすことはもっと不可能に思えた。
     数多伸びて来る赤黒い肉の塊は、一体今までどこに隠れていたのかと言うほど執拗に広がり、まずは地面の片隅で蹲っていた総次郎を捕らえ絡め取った。意識は既になく、抵抗出来ない小さな影が高々と持ち上げられる。
    「総次郎ぉっ!!」
    「総次郎くん!!」
     死角から鞭のようにしなった脚が、意識を逸らしていた歳哉に襲い掛かった。
     咄嗟に刃を盾にするものの、衝撃を受け止めきれずに吹っ飛ばされる。が、〈人喰らい〉は未だ宙空にあった歳哉の身体を銀糸で掴み、重傷を負った背中からアスファルトに叩きつけた。
    「……っぁ、が……」
     どろり、と溢れて広がる鮮血。
     まるで無残な蝶の標本のように地面に縫い止められた歳哉に、振り上げられた腕が狙いを定める。そうなってもなお――彼は手にした兼定を手放すことなく、構えようと僅かに腕を持ち上げる。鉄線のごとき強度を誇る糸が絡まった箇所から血飛沫が上がった。
     敵を見据える眼差しは諦めていない。
     絶望してもいない。
     最期まで抗い、隙あらば屠って絶えようと、凄まじい闘気に燃えていた。
    ――何で……
     戦えるはずがない。
     抗えるはずがない。
     立つこともままならないその身で、四肢を拘束された体勢で、たった一人で、この絶望的な状況を変えられるはずがない。よしんば先程連絡をつけた誰かが異常事態を察して駆けつけるのが間に合ったとしても、己が助かる可能性など万に一つもないではないか。
     それなのに――血に塗れた歳哉の口唇は弧を描いている。笑みを、浮かべている。
     〈人喰らい〉も理性を失いながら、それが随分と癇に障ったようだった。
     言葉にならない声で叫び、新しく生えた腕を力一杯叩きつける。いや、叩きつけようとした。それは歳哉へ……と届く前にまた根元から断たれていたのだ。僅かに双眸を開いた総次郎が放った一撃によって。ぼたぼたと血を吐き、意識朦朧としながらもその本能的なものだけでこの少年は仲間の死を振り払ったのだ。
    「総次郎の話をしてくれた奴は、こう言わなかったか? こいつを凌ぐためには完全に息の根を止めるか、両腕をもぎ取れって」
     鋼の糸を力尽くで引き千切りながら、歳哉は立ち上がった。
    「俺たちを止めたいなら迷わず殺せ。じゃなけりゃ、死ぬのはお前の方だ」
    ――どうして……
     どうしてそこまでの覚悟を決めることが出来るのだろう? いくらそれが彼らに架せられた任務であるとは言え、仕事であるとは言え、元はと言えば彼らとて自分たちが守っているものと変わらない、何の変哲もない一生徒ではないか。そんな義理などありはしない。そんな義務などありはしない。
     彼らが命を賭ける理由などどこにも一つもありはしないのだ。
    「お願い……もういい、もういいわ! お願いだからもうやめて!!」
     自分のために目の前で総次郎と歳哉が瀕死の傷を負うことが我慢出来なくなったのだろう。春香が金切り声で制止の言葉を叫ぶ。
    「こんな……こんな真似までして守ってくれなくていい!」
    「だったら……あんたは理由もなく理不尽にこの化け物の餌になるってぇ最期を、黙って受け入れるつもりか」
    「…………っ!」
    「自然界なら仕方ないとか、運がなかったですむ話だろうよ。でもここは人間が住む街で、こいつも人間だったもんだ。だったら死にたくねえと思うことこそ自然だし、俺たちが刀を取る理由なんざそれ一つで充分だ」

    →続く