すると、今の今まで春香のことなど失念していたはずの<人喰らい>が、改めてその存在を認識したかのようにぐるりとその方角へ首を巡らせた。雉も鳴かずば撃たれまい、と言う言葉があるがまさしくその通り――それまでと同じように黙っていれば、この場からどうにか逃げ出すチャンスも訪れたかも知れないのに。
     にたり、と最早人の形を成していない<覚醒者>が笑みを浮かべる。
    「ああ、そうだったそうだった……彼女を君たちの目の前でばらばらの八つ裂きにして、いかにその抵抗が無力で無価値なものかを理解して貰わなきゃ」
     言葉をそう紡ぐことすらも出来ないほど知能まで化け物に成り下がってしまったものか、今まで過剰なまでの多弁を繰り広げていた<人喰らい>は何も言わず、しかし確実にそう考えたであろう表情で、春香に向かって脚を振り上げた。コンクリートも容易く砕く剛腕が彼女の頭を西瓜のように粉々にしようと牙を剥く。
     地面に縫い付けられた歳哉にも、未だ中空に吊られたままの総次郎にも、その一撃を止める術などない。
    「春香っ!!」
     考えるよりも先に身体が動いていた。
     彼女の前に立ち塞がり、平太は辛うじて木刀で鋭い鉤爪を纏った脚を受け止める。が、そのずしりと全身を貫いた重量に骨が軋んで悲鳴を上げるよりも早く、得物が真っ二つにヘし折れた。対峙した相手を害するための武器ではなく、ただその技術を示すための道具でしかない木刀では、圧倒的なまでに暴力的で明らかな害意を孕んだ一撃の下には枯れ枝ほどの役にしか立たなかったのだ。
     衝撃で吹っ飛ばされて平太は向かいの壁に強く身体を打ちつけた。ただ一度掠めただけにも関わらず、額の古傷が今更また開いたとでも言うのか、でろりと血が伝う感触と共に視界が赤く染まる。
     恐怖と痛みで身体が思うように動かない。
    ――またか……!!
     また自分は目の前で大切な者を同じ輩に奪われると言うのか。
     悲鳴を上げ、その場に蹲る春香に無情な死神の鎌の如き脚が迫る。
    「やめろおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
     喉が破けるのではないかと言うほど力の限りに叫んだ瞬間、
     カ……っ!
     辺りの全てを無に染めてしまうほど眩い純白の光が沸き起こった。咄嗟に視界を庇う。しかし、瞼の裏にまで侵入してくるほど激しいそれは、まるで世界を変えようとするかのように一向に治まる気配がない。
     恐る恐る双眸を開く。
     その前方――宙空に浮かんでいるものは、一振りの日本刀だった。
     鞘がない。その剥き出しの刀身が、ぎらつく鋭い刃を見せ付けるかのように光を放っているのだ。
    「…………」
     平太は僅かに目を丸くした。
     知っている。いや、知らないはずがない。忘れるはずもない。
     上総介兼重。
     八年前、有希を手にかけたあの時――自らの内から生まれた刀だった。<人喰らい>をただ一太刀で退け、妹の命を奪い、その血を吸った刀だった。
     知らず、ぎりと奥歯を噛み締める。
    ――それがどうして今頃……ここに姿を現わす?
     封じたはずだ。
     意識の奥深く、もう二度と現われるなとしまい込んだはずだ。幾重にも鍵をかけ、頑丈に閉じ込めて、その忌まわしき姿を思い描きもしないように、平太は刀を手放した。
     怖くて手に取れなかった。
     刀は凶器。剣術は人を殺すための術。
     何も守れはしない。誰かを助けたりなど出来はしない。
     あの時――死に行く妹に平太がしてやれたことは、これ以上苦しませることなく命を断つことだけだった。それが果たして有希に取って救いとなったのか。誰にも言えない疑問はそのまま棘となり、平太の心奥深くに食い込んだままこの八年片時も消えたことはなかった。
     また、誰かを傷つけてしまうことが解かっているから身体が拒絶反応を起こした。
    ――嫌だ……
     木刀では討てぬ仇を己を使って斬れと――刀がそう告げているようだった。
     大事なものを守りたいのならその手を汚して鬼となり、修羅となることを恐れてはならないと――そう告げられた気がした。平太が首を横に振ってしまえばここにいる三人は確実に<人喰らい>の餌食になる。あの悔恨と屈辱を己は二度も味わうのか。
    ――俺は……っ!
     けれど、自然と吸い寄せられるように右手が刀の柄を握り締める。ふ、と脱力するように兼重は平太の掌に収まり、代わりにずしりと重い感触が返って来た。
     ああ、この重みを知っている。
     忘れるはずがない。
     これは、命の重みだ。平太が奪った有希の命の重みだ。
    「何で……出て来るんだよ」
     問うても、ただの鋼が答えを返すはずがない。まるで全てを委ねるように平太の手の中で沈黙している。
     まるで選択を強要するかのように。
     選べ。
     選べ。
     選べ。
     誰ともない声が脳髄の中で反響する。
     何もせずに大切な者が失われるのを、自らの命が絶たれるのを甘受して待っているのか、
     罪人になろうと、その手を汚すことを恐れず、大切な者を守り抜くのか、
    ――俺は……
    「立て、藤堂!! 迷うな! 躊躇するな!」
     歳哉の言葉が鼓膜を叩く。
    「何かを傷つけるためではなく、何かを守るために剣を取れ! 貴様にはそれだけの力がある……それを理解してくれた妹御の気持ちを無駄にするつもりか!?」
     あの時――
     泣きながら己が生み出した刀を手にした平太を、有希は笑って見遣った。
    『ごめんね、お兄ちゃん……ありがとう』
     声にはならなかった言葉が、微かに振るえて紡がれていた言葉が、時間と空間とを飛び越えて今ようやく自分の耳に届いたような気がした。
    「あああああああああああああっ!!」
     最後の力を振り絞って跳ね起きると、平太は振り下ろされた<人喰らい>の脚を刀身で受け止めた。ずしりと両腕にかかる負荷はそのまま体躯を通り抜けて足に伝わり、衝撃がアスファルトへ罅割れを刻む。
    ――俺には土方たちを責める資格なんてない……
     本当はこの手で殺してやると、必ず仇を討ってやると決意したこともあった。けれどいざとなると有希を貫いた感触が掌に蘇って身体が拒否した。その恐れもどす黒い感情も誰にも知られないようにするために偽善を口にしていた。それを克服することは決して勇気でも何でもないけれど、
    ――誰かを守る力が俺にあるなら……二度とあんな無様な思いをすんのはごめんだ!!
     く、と刃を滑らせて力で負ける一撃を捌き切る。
    「おおおおおおっ!!」
    「嫌ダ……マタ死ヌノハ……嫌ダ!」
     思い切り振り抜こうとした一太刀がその胴を斬り裂く前に、不意に理性を取り戻したかのように<人喰らい>が叫び、平太は咄嗟に両腕に力を込めてどうにか一撃を繰り出すことを停止した。
    「僕ハコンナコトヲスルタメニ力ガ欲シカッタ訳ジャナイ……タダ僕ヲ苛メテ死ニ追イヤッタ奴ラヲ見返シタカッタダケナノニ……」
     〈人喰らい〉の双眸から涙が溢れる。
     それは慙愧の念か、悔恨か、はたまたただ生物としての危機を回避するための命乞いか――平太には解からないけれど。
     それでも。
     漠然と何かを理解したような気がした。
    ――ああ、そうか……
     今まで眞撰組の連中が手にかけている〈感染者〉や〈覚醒者〉となった生徒は、同じように被害者なのだと平太は思っていた。だから、彼らを平気で殺す眞撰組を何て冷血漢なのだろうと思い込んでいた。みんな、望んでそんなことになったのではないのに、と。
    ――だから……
     兼重を構える。
     型は忘れていなかった。この八年――ただの一度も行ったことがない動作にも拘らず、身体は覚えていた。
     ぐおおおおおおんっ!
     咆哮の衝撃でびりびりと空気が震える。
     勢いよく吐き出された大量の糸の波を掻い潜り、鋭い腕を紙一重で躱して懐に飛び込んだ。がら空きの胴を二分するように大きく開かれた口から、獲物を食い殺そうとぞろり並んだ牙が涎を滴らせながら覗いている。
     泣きながら、自分を殺そうとする〈人喰らい〉に。
    ――せめて人としての尊厳を保たせてやるために、こいつらの誇りを守ってやるために……この刃を振るうのか……
    「そうだとしても、お前は無関係の子をたくさん殺した。人として、その罪はちゃんと購え」
     交錯は一瞬だった。
     袈裟斬りに斬り下げた刃が、僅かな抵抗と共に〈人喰らい〉の左肩口から右脇腹へと抜ける。それはさながら彼に残った未練であるかのような。
     一拍を遅れて、生命の証である熱い血飛沫が平太の上に降り注いだ。
     力を失った身体がぐらりと傾いで冷たいアスファルトに沈む。派手な水飛沫が上がり、それが収まると鮮やかな朱色が水溜りの中にゆるゆると溶け出し始めた。瞬く間にそれは周囲へと広がって行く。
     〈人喰らい〉はもう、ピクリとも動かなかった。
     彼らの血が何ら変わらない色であることが、居た堪れなさ過ぎる。
    「…………」
     これで、本当に良かったのか。
     平太は確信を得られぬままだった。
     しかし、事切れた〈人喰らい〉の表情は思ったよりも安らかなような気がして、それに少しだけ救われるような気がした。
    「藤堂っ!」
     総次郎に肩を貸した歳哉がこちらを呼んだ。
     かなり出血をした重傷であるはずだが、顔色が青褪めている他は思いの他大丈夫そうだ。総次郎も発作によって憔悴しているようではあったが、今は収まっている。
    「無事か? 怪我は?」
    「あ、いや……大丈夫。これ全部返り血だし。う……」
    「お、おい……」
    「へーた君!?」
    「うえええええええええええええええっ」
     突然蹲ったこちらに二人が慌てたような声を上げる。
     それに構う余裕がなく、平太はそのまま胃の奥から競り上がって来るものを嘔吐してしまった。忘れていた人を斬る感触が、本来なら人生の内で味合わなくていい肉を裂き骨を絶つ感触が、掌を伝って身体の中から何かを引き摺り出すかのようだった。自分の中が空っぽになってしまうまでえずいて、気持ちの悪さを搾り出す。
    ――こういう時ってもうちょいカッコよくキメるところなのに……
     シャキン!
     鞘走りの音に慌てて顔を上げると、歳哉が抜いた兼定の切っ先が見えた。座った眼差しがこちらを捉えている。
    「え…………ちょ、マジで? 士道不覚悟とかそんなのなの!? 俺眞撰組隊士じゃないのに!?」
     振り上げられた刃に思わず頭を庇って両腕を上げた。
    「ひええええっ!」
     しかし、その切っ先が突き刺さったのは平太の身体ではなく、そのすぐ脇――足元に忍び寄って来ていた小さな蟲だった。おぞましい色の身体が鋼に貫かれてびくびくと痙攣している。うぞうぞと蠢いていた幾多の足がやがて力を失い、蟲の身体はそのまま腐り落ちるようにして形を失くした。
    「………………」
     背筋を冷たいものが伝った。
    ――ひょっとして……俺、狙われてた?
     完全にその影が見えなくなってから、刀をしまった歳哉はなおもその地面を踏みつける。
    「<覚醒者>の体内には今の蟲が必ず巣食っている。<ウイルス>の成長したものだと考えているが、何せすぐに跡形なくなっちまうから詳しいことは解らん。宿主が死んだから他の寄生先を探そうとしていたんだろう。もし、また別に誰かが寄生されたりしたら厄介なことになるところだった」
    「そ、そうだな。しかし、キモい蟲だな……アレ」
    「ありがとう、藤堂。礼を言う」
    「え」
     思いがけない言葉が鼓膜を叩いて、平太は危うくスルーしてしまうところだった。弾かれたように顔を上げると、真っ直ぐにこちらを見遣る歳哉の視線とぶつかる。これまで罵詈雑言しか吐かれていなかった身としては、俄かに信じがたい。
    「い、今……俺に『ありがとう』って言った? 土方が? 散々俺に向かってヘタレだの腰抜けだの言ってた土方が?」
    「うるせえな! 俺だって感謝をすれば礼くらい言う」
    「あ、いや……そうじゃなくて、礼を……言われるようなことはしてねえよ、俺」
     自分でもその言葉の落差に妙なものを感じたのか、やや照れたような表情で眉を吊り上げて叫ぶ歳哉に、その肩を借りている総次郎が小さな身体を揺らして笑った。
    「トシさんの数少ないデレ期なのです。今年初♪」
    「おい、総次郎っ!! 要らん事を言うな!」
     そこへ助け舟のように割って入る冷静そのものの声。
    「副長……お怪我は?」
     先日検査を受け持ってくれた少年医師だった。彼も眞撰組隊士だったらしい。今日は白衣ではなく、彼らと同じ浅葱色の隊服を纏っている。
    「ああ、大事ない。それより総次郎を……」
     言いかけて、振り向いた歳哉の表情がびしりと凍りついた。
     少年医師が何故かビデオカメラを片手に立っていたからだ。構える彼自身は相変わらずの無表情で何を考えているのか解からない。
    「何をしている、山崎」
    「ご覧の通り、副長のデレ期を録画中です」
    「いいからとっとと総次郎を屯所に運べ馬鹿者おおおっ!」
    「相承知仕りました。副長も必ず後で診療所にお越しください。来られない場合はこちらから押しかけいたします」
    「……解かったから早く行け」
    「御意」
     口元だけに笑みを刻み、怒れる鬼の副長から一番隊長の小柄な身体を受け取ると、少年医師山崎は軽々と抱え上げ、さっさとバンの方へ向かってしまった。
    ――え、ちょ……どうすればいいのこの気まずい空気……何で俺だけ残して行くんだよ!?
    「ふん……」
     しかし歳哉は平太を一瞥すると、何も言わずに踵を返した。
     その眼差しに――ほんの欠片ほど少しの優しい光が浮かんでいたように見えたのは、平太の気のせいだろうか。
    「土方……っ!」
     思わず叫ぶ。
     無視されるかとも思ったが、振り返りはしないものの歳哉は足を止めてくれた。
    「……何だ?」
     何を――問おうとしたのだろう。言葉が喉につかえて出て来ない。
    「お前は……どうして刀を取ったんだ?」
    「………………下らん」
     再び歩き出す足。あれほどの重傷を負っているとは思いがたい、しっかりとした足取りだった。
    「刀を取る理由など……闘う理由など一つしかあるまい。己のためだ」
    「…………」
    「己の守りたいものを守るためだ。究極の自己満足のためだ。もう二度とそんな下らんことを問うな。次に訊いたら斬るぞ」
     無線を片手に各隊士に指示を出す歳哉は、いつもの『鬼の副長』の冷徹な双眸で一つも抜かりがないようにと現場を厳しく睥睨している。右手にはまだ兼定を携えたまま。まだ背中の傷口から溢れる血は止まっていないのだろう。彼が背負う『誠』の文字は真っ赤に染まって判別が出来なくなっていた。
    ――どうして……
    「トシさんは初めて刀を手にした時から、誰かを――何かを守るためでなければ刀を抜かない人なのです」
     総次郎の言葉が不意に脳裏に甦る。
     どうして彼らは、あんなに傷ついてボロボロになってまでも剣を取り、闘い続けるのか。その一端を掴んだような、またするりと逃げ出されてしまったような、もやもやとしたものが平太の中に広がって行く。
    ――お前は一体、誰を守るために刀を取った?
     ふ、と雲の切れ間から日が射した。
     いつの間にかあれほど分厚い雨雲に覆われていた空は、ゆっくりと元の青色を取り戻しつつある。平和な日常を取り戻しつつある。
     それを――今初めてありがたい、と平太は思った。

    →続く