先程ちらりと見せた柔らかな表情は、少女に対して歳哉が何らかの感情を持っている表われなのだろうが、だからと言って特別な例外を彼が作るとは平太には思えなかった。
「菜月」
が、歳哉はすっと腰を落としてしゃがみ込み、菜月と視線の高さを合わせるとほんのりと優しい笑みを浮かべて見せた。
「家に帰りたいのは皆同じだ。俺も……帰れるものなら帰りたい」
「…………」
「だが、帰る訳には行かない。万が一菜月が〈覚醒者〉になってしまったら、お前は自分の手で家族を傷つける羽目になる。そんなこと、嫌だろう?」
躊躇いがちではあったが、少女はこっくりと頷いた。
歳哉はそれを確認すると再び優しい表情で菜月の小さな肩に両手をかける。
「それなら少しの間ここで頑張らねばならんよ。永遠の別れ、じゃないんだ。そうならないために俺たちはこの街で暮らさねばならない。そして俺はそのために、お前たちを守らなければならない」
ぐし、と菜月が頬を伝う涙を拭う。
「うん……解った」
「偉いな、菜月。今のその気持ちを忘れるな。父殿と母殿に会いたいと思う気持ちを大切にしろ。そうしたら、この街を出てからも二人を大切にしていける」
「おにーちゃんも、そう?」
「……ああ。でも、菜月。お前は独りじゃない。たくさんの仲間もいるし、俺もいる。寂しくなったら、いつでも屯所に遊びにおいで」
両の掌でふくふくと柔らかそうな頬を撫で、頭を撫で、歳哉は少女の小さな身体をぎゅっと抱き締めた。細い腕がその背中に回る。
再び顔を上げた時には、菜月は先程の明るい表情に戻っていた。
「ありがとう、副長のおにーちゃん。私、頑張る」
「ああ。父殿と母殿も、お前が笑って過ごしてくれることを願っているはずだ」
「ばいばい!」
「送るぞ」
「いい、大丈夫だよ。すぐ近くだから。おにーちゃん見回りの途中なんでしょ? おにーちゃんも頑張ってね!」
「ああ、ありがとう」
元気に手を振って帰って行く菜月が見えなくなるまで、その場に佇んでいるつもりなのだろう。歳哉は僅かに双眸を細めて、その方角をずっと見つめていた。
平太にとってそれは予想外の対応だった。
「……土方って、あんな……優しい顔も出来たんだな」
「トシさんは……自分にも他人にも厳しい人だから、よく誤解をされますが」
思わずポロリと出た言葉に、じっと澄んだ総次郎の眼差しがこちらを見つめる。
「トシさんは初めて刀を手にした時から、誰かを――何かを守るためでなければ刀を抜かない人なのです」
「…………」
「あの人は……誰より一等優しい人なのです。それを表わすのが恐ろしく下手ですが」
会話が聞こえてしまったのか、振り向いた歳哉の視線が不意にこちらを見据える。悪いことなど何一つしていないはずなのに、平太は思わずびくりと姿勢を正してしまった。
あの――痛いほど強い眼差しは、他人の弱さを貫かんばかりの眼差しは、正直苦手だ。どうして自分にはそうやって責めるような視線しか向けて来ないのだろう。初めて会った時からずっと、歳哉は平太を睨むようにしか見て来ない。
「総次郎! 何をそんなところで油を売っている!? 巡回に向かうぞ!」
「あい、解かったのです。それではへーた君、また」
「何をアイツと無駄な話をしている」
「へーた君が眞撰組を嫌いだと言う話です」
「ちょ……総次郎くん!!」
何てことを!
いや、確かに話していたのはそう言う内容も含んだことだったけれども、この矜持の高そうな副長相手に正直に告げないで欲しい。「我々を愚弄する気か!?」と斬りかかられること必至だ。
が、それを聞いた彼は意外にも冷静だった。
「一つだけ教えてやろう、藤堂」
足を止めた歳哉がゆっくりとこちらを振り向く。相変わらず相手を――こちらを射抜くような真っ直ぐ過ぎる眼差しが平太を見据える。欺瞞と偽善と脆弱さを真っ二つに断罪するような、刃のごとき痛烈な瞳。
まるで教壇に立った師のような口調で言葉が続く。
「言葉が通じ合う人間同士ならば、或いは万が一にでも同情を引いて非暴力・不服従の態度も有効かもしれん……だが、やつらは『人』ではない。思考回路も概念も何もかも違う別の生き物だ」
「…………」
「貴様は空腹のライオンに目の前のシマウマを食べるなと説法するか? それと同じことだ」
「で、でも……」
「無為で無駄で余計なことに我々は時間を割いている暇はない。〈覚醒者〉とそれに連なる者は絶対的な悪だ。その存在を赦してしまえばこの街――いや、この世界は崩壊する。幾許かの人間と世界を引き換えにするのは罪だ。全てを救える神ならまだしも、我々に出来ることは限られている。誰に理解してもらおうとも、思わんがな」
先程少女に垣間見せた表情は白昼夢か幻でもあったかのように、歳哉の双眸は冷たく凍てついていた。
そのくせ真白い炎にも似た熱情が、彼の奥には激しく燃えているような気がする。
返す言葉を捜しているうちに、歳哉はこちらに背を向けて歩き出していた。全てを拒絶するような背中が、酷く生半可な答えを斬り捨てる。
* * *
翌日、寮へ戻る前に平太はコンビニに寄った。学食も寮の食堂も飯は美味いと思うが、栄養バランスだの何だのを考えられた献立はどうにも似たり寄ったりになってしまって、偶にはジャンクな味が食べたくなるのだ。
自分で料理が出来る生徒は自炊している者もいるらしいが、生憎とそんな心得は微塵もない。便利な環境にあるとついやってみようかと言う向上心が育たなくていかんなあ、とは思うものの、今のところ包丁を握ると言う最難関ポイントを克服しようとするほどの情熱は沸かず、そのまま放置して数年になる。
いつもの定番スナックに、今週入ったばかりと言う期間限定のお菓子を幾つか買い込んで、平太は店を出た。
そのままぶらぶらといつもとは違う道を辿りながら寮へ向かっていると、高架下の細道に浅葱色の制服の群れが見える。最近遭遇率がやけに高いので、げ、寄り道なんてしなきゃよかったと思わず顔をしかめてしまったが、踵を返す前に総次郎から声をかけられた。
「へーた君」
「ど、どうもっス……」
見つかってしまっては今さら逃げ出すことも出来ず、平太はそのまま道を下って総次郎に近付いた。
「また事件っスか?」
「そーなのです。多分、昨日の犯人と同じ<能力者>だと思います」
だとしたら、相当大胆不敵な犯人だ。
街の中はいつもに増して厳戒態勢の眞撰組が巡回していることなど解っているだろうに、間を置かずに次の犯行に及ぶとは捕まらない自信でもあるのだろうか。
僅かな隙をついて来る嫌らしさと言い、手に入れた力に溺れているように見える。
「この先は検証中なので封鎖しているのです。それに……へーた君は見ない方がいいのです」
「まさか……また初等部の子が犠牲になったのか?」
「………………」
「昨日会った菜月を覚えてるか?」
割って入ったのは歳哉の声だった。
表情こそ変わらぬ冷酷な鉄面皮を保っていたものの、その切れ長の双眸にはふつふつと激しい怒りが煮え滾っている。
「犠牲者は彼女だ」
「……そんな…………」
「やはり無理にでも送るべきだった」
ーーいや、違う……
歳哉が怒りを抱いているのは犯人である<能力者>にではない。僅かな隙を作り出してしまった己の甘さにだ。
可愛がっていた少女を殺されてもなお、副長と言う立場故にかその激しい気性故にか、素直に悲しみに暮れることが出来ないらしい歳哉に、平太はひりひりとした痛みを覚えた。
ーーああ、だから俺こいつ苦手なんだわ……
「副長」
そこへ数枚の書類を手にした少年が歩み寄って来た。よく見れば、彼は平太を診察してくれたあの医師である。
「……あ」
「どうも、その節は」
「何だ山崎」
ぺこりと小さく会釈を寄越したものの、山崎と呼ばれた医師はすぐに歳哉へ向き直った。
「そこの防犯カメラに映っていた不審人物の写真です。元々画像が荒い上に、強引に引き伸ばしてあるので、顔ははっきりしませんが……」
「高等部の制服だな……おい、見覚えあるか?」
目の前に突き出されたところで、山崎が言ったように顔は殆ど解らない。周りの対象物と比較して、背格好が自分とあまり大差ないらしいとは何となく言えるものの、それ以上のことは考えつくこともなかった。
ただ、目にした瞬間途轍もない違和感と悪寒が背筋を走り抜けた。
「さあ……このくらいの奴とかゴロゴロいるだろうし、もう少し特徴があればいいんスけどね」
それをどうにか抑えつけて答えると、歳哉がますます双眸を鋭く細める。
そんなことを言われても、捜査に関わったこともない素人に意見を求める方が悪いのだ、と思っていると、横合いからぽつりと総次郎が口を挟んだ。
「逆に特徴があればそれを映り込ませなきゃ、決定的な証拠にはならない……ってことですね」
「……そうなりますかな」
淡々と頷いた山崎の視線が何故か平太の方を向く。その先を辿るといつも被っているニット帽をじっと眺めているようで、思わず平太は自分の頭を見上げるように視線を上げた。
嫌な予感しかしない。
確かに今この場において通常の高等部の制服を着ているのは平太だけではあるが、
「……もしかして、これって俺疑われてます?」
「犯人はよく現場に戻ると言うのです」
「毎度毎度様子を窺うように居合わせると言うのは、些か都合が良過ぎるように思いますが」
今にも刀を抜きかねない勢いでじりじりと距離を詰めそうな二人に、平太も気圧されて及び腰になる。山崎の腕前の程は知らないが、総次郎は近藤が眞撰組で一番腕が立つと言っていたほどだ。先日感心した歳哉より強いと判断して間違いはないだろう。
そんなもの、相手になる訳がない。
遠くでは騒ぎを聞きつけたらしい野次馬たちが集まり始めていたが、成程普通はあのくらいの距離で足を止め深く立ち入ったりはしないものなのだろう。
――俺だっておき……じゃなかった総次郎くんが呼ばなきゃここまで来たりしねえっつーの!
それをころりと忘れて疑いの眼差しだけを向けてなど欲しくないものだ。
「つまり」
不意につかつかと歩み寄って来た歳哉が、制止する間もなく乱暴な仕草で平太のニット帽を奪いさった。自然、地毛ではあるが明るめの色の髪が露わになる。序でに本当に隠しておきたかった額を真一文字に走る派手な古傷も。
「……………………っ!!」
「こうして普段目につく特徴を周囲の記憶に刻みつけておけば、真っ先に自分は容疑者から外れることが出来るって寸法だ」
「返せよ!!」
深い意味があった訳ではないのか、歳哉は平太が引っ手繰るようにしてニット帽を奪い返すのを咎めはしなかった。込み上げて来る激しい怒りと羞恥を押し込めるように、平太は急いで帽子を深く被り直す。多分これだけ距離が空いているのなら見ず知らずの野次馬たちにこの傷が見咎められることはないはずだ。それだけがまだ救いだった。
「でも、トシさん。へーた君じゃ髪が明る過ぎて、この画像とは一致しないのではないのですか?」
「ああ……そのようだな。悪かった、藤堂」
おざなりに投げられた言葉には、欠片も悪いと思っている様子が窺えない。
本当なら何のつもりだと、冤罪で侮辱する気かと歳哉の胸倉一つ掴み上げて問い正してもいいくらいの苛立ちを覚えていたが、眞撰組と揉めるのはあまり得策ではない。
平太はむかむかとこぼれそうになる言葉を無理矢理に飲み込んで、ふいっと踵を返した。
やはり他人の領域に土足で踏み込むような彼らの不躾さは、理解も出来ないし共感したくもない。
「もういいだろ、俺だって暇な訳じゃないんで」
「藤堂」
「何スか!?」
なおも重ねて呼び止めるような歳哉の声に、平太は思わず尖った返事を投げた。
「今回の事件……本当に心当たりはねえか?」
それは容疑者にその罪を問うているのとはまるで違う――けれど、お前は『これとよく似た出来事』を知っているはずだと告げるような声音で。決して恫喝したのでも大声を上げたのでもないにも関わらず、ぶすりと平太の心の奥深いところに突き刺さるような問いだった。
『逃げるのか?』
と――そう問われた気がした。
ぐ、と口唇を引き結ぶ。
「知らないものは知らないっスよ」
まだ何か言いたそうな歳哉を振り切るように平太は言い切った。
頼むから関わらないでくれ。
封じたはずのものを引き摺り出そうとしないでくれ。
――ああ、頭が割れそうなくらい痛む……
→続く