痛い。
     全身を引き裂くような激しい痛みに襲われて、少年は意識を取り戻した。
     ざらついた砂埃の感触、間近に感じる湿った地面の匂い、僅かに動かした指先には短い下生えの草が絡んだ。かさりと音を立てたのは落ち葉だろうか。
     そこでようやく、少年は自分が地面に倒れていることを自覚した。
     身体を起こそうと、取りあえずゆっくりと双眸を開く。が、それは賢明な判断ではなかったことを次の瞬間に思い知らされた。
     見えない。
     何かに視界が覆われているようで、感覚を取り戻した他の五感は確かなのに視覚だけが膜を張ったように心許ない。
     恐怖が込み上げる。どうして自分がこんなところに倒れているのか定かではないが、それに加えて辺りの様子を窺うことが出来ないと言う事実は酷く少年を狼狽させた。ここは危険な場所ではないのか? 誰か周囲に人はいないのか?
     身動ぎしたせいで、でろりと何かがこめかみを伝った。
     汗にしては酷くぬるつくそれを不快に思いながら、手の甲で拭う。辿り、額まで手を持ち上げた瞬間、少年を覚醒させた激痛が再び全身を貫いた。
    「あああああっ!!」
     ぐちゅり。
     そこにはあるはずのない裂け目がある。割れていた。真一文字に額に穿たれた傷――そこから止め処もなく溢れる己の血液が、視界を遮っていたのだ。
     どうしてどうしてどうしてどうして!?
     何故自分はこんな傷を負っている?
     助かったのは、奇跡的なことに傷が脳を抉るほどに達していなかったせいだろう。いや、まだ楽観視するべきではない。このまま出血が続けば間違いなく死ぬ。
    ――と、ともかく病院に……
     だが、少年の全身は余すところなく傷だらけだ。身体を起こすことは出来ても、立ち上がり歩いて別の場所に移動するだけの余力は残っていない。
     痛い。
     痛い痛い痛い痛い。
     僕はこのまま死んでしまうのか。
     こんな状況に陥った理由も解からず、どことも知れない場所でただ一人死んで行くのか。少年はすぐそこに迫った絶望的な、しかし確実な未来を思い、成す術もなく身体を振るわせた。
     暑い。
     傷のせいで熱が出て来たのだろうか?
     いや、流れた涙で幾分か先程よりましになった視界が紅い。それは血ではなく、皓々と燃え盛る紅蓮の炎だった。
     辺りの木々が燃えている。
     どす黒い煙があちこちから立ち上っている。ものが焼かれる焦げ臭い臭い。肺腑の奥を掻き混ぜられたような不快感。ひたすらに生命が消費されていく景色。燻された大気が呼吸しようとする喉を焼く。熱された風が灰となったものを舞い上げて行く。
     下手をすればここもすぐに飲み込まれてしまうだろう。逃げなければ。匍匐前進のように這いずって、少年は悪魔の舌のような炎から距離を取ろうともがいた。
     ぐちゅり。ぐちゅり。
     そのたびに追いかけてくる重い水音。それが己の生命を削る音だと知って、少年はさらにそれから逃げるようにのろのろとした逃走を続ける。
    「…………けて、おに…………」
     ふと鼓膜を打った微かな音に、少年はびくりと動きを止めた。
     地獄のようなこの場所で、まさか自分の他に生きた者がいようとは思いもしなかった。しかもその音は、大切な妹の声によく似ているではないか。
     ぐちゅり。ぐちゅり。
     薄気味の悪い音は少年が前進するのをやめても辺りに響いている。それはどうしてだ? 
     とてつもなく嫌な感じがして、見てはいけない恐ろしいものがそこにあるような気がして、少年は逸る心のまま急いでその場を後にしようとした。が、その意思に反して凍りついたようにその場に縫い止められた手足は動かず、首だけが、視線だけがその音の方をゆっくりと振り向いた。
     果たしてそこには――
    「助けて、お兄ちゃん……」

    「………………っっ!!」
     布団を跳ね飛ばして、平太は飛び起きた。
     いつもと変わらない、寮の自室である。
     ベッドの白いシーツ、薄いブルーのカーテンから差し込む朝日、ちくたくと規則正しく時を刻む目覚ましは、セットしたはずの時間よりも随分と早い数字を示していた。壁にかけた高等部の学ラン、その横のお座なりな学習机、その上に置かれた教科書と参考書。眠りに就く前と何ら変わらぬ、日常だ。
     どくどくと忙しく血液を全身に送り出す心臓の鼓動がうるさい。乱れた呼吸をどうにか整えようと、冷たく汗ばんだ額を拭った。
     ずきり!
     途端、先程の夢に呼応するように額に鋭い痛みが走った。
     まるで忘れないで、とでも言うように。忘れてはならない、とでも言うように。
     そのままくしゃりと前髪をかき上げて、掌で視界を覆う。
    ――有希【ゆき】……
    「最悪な夢見だ……」
     今さら眠ることも出来ずに、平太は溜息をついてベッドを抜け出した。
     ルームメイトは今の気配を微塵も感じることなく、平和そうな寝顔で惰眠を貪っている。そのことに少しだけ感謝しながら、平太は自分の机に近寄った。
     いつもは故意に見ることを避けている写真立てを取り上げる。今より随分と幼い頃の自分と、二つ下の妹が笑顔で写っている写真。どこかに旅行でも行った時のものだったろうか? 背後に立つ、もう顔もおぼろげにしか覚えていない両親と幸せそうな光景が切り取られている。
     それはもう、二度と帰ることが出来ない過去だ。
     それはもう、二度と見ることが出来ない未来だ。
    「…………」
     胸の奥を掴まれたように居た堪れなくなって、平太は写真立てを机の上に伏せた。

    ***

     いつもより早めに寮を出た。
     学校に行って何をすることがある訳でもないが、今日はあの部屋にいたくないような気分だ。塞ぎ込んでしまいそうになる。きっと一度そうしてしまうと際限なく気持ちが落ちて行きそうで、無理矢理にでも身体を動かして考え込むことのないように意図しなければならない、と平太の本能は告げていた。
     ふと、向こうからやって来る小さな影に気がついた。
     昨日、眞撰組の屯所で顔を合わせた幹部の一人――沖田総次郎【おきた そうじろう】だ。数名の部下らしき少年少女と団体で、颯爽と風を切って歩いて来る。いや、颯爽と歩いているのはいずれも部下たちの方で、先頭に立っている彼の顔は、相変わらず眠たそうで双眸が三分の一ほどしか開いていなかったが。
     思わずじっと見つめていたこちらに気づいたのだろう、少年が俯き加減だった顔を上げたためにばっちり視線が合ってしまった。元より無視するつもりはないが、これはなおさらきちんと挨拶をせねばなるまい。
    「おはよう、沖田くん」
    「総次郎」
    「え……?」
    「下の名前で呼んで欲しいのです」
    「で、でも……」
     昨日初めて会ったばかりの相手を、いきなり下の名前で呼ぶなんてフレンドリー過ぎやしないか?
     そう戸惑う平太をよそに、しかし当の総次郎本人はにっこりと笑みを浮かべてみせる。
    「僕は上の名前が大嫌いなのです。だから僕を上の名前で呼ぶ人は」
     シャキン!
     目にも止まらぬどころか知覚出来ないほどの速度で抜かれた切っ先が、気がついた時には目の前に突きつけられていた。
    「敵だと見做して即刻斬り捨てるのです。悪しからず。へーた君も心しておいて欲しいのです」
    「………………はい」
     はらりと散った数本の前髪に、平太は逆らわずに頷いた。命は惜しい。要らない危険は避けておくに限る。それを満足そうに見遣ってから、
    「ところで、朝の挨拶がまだでした。おはようございます。何か僕に用事でもあったのですか?」
    「いや、用事って言うか……こんな時間から隊服着てるから、仕事熱心だなと思って。巡回か何かスか?」
     昨日は着ていなかった浅葱色の制服を羽織り、小さな両の手には黒い皮手袋。足元は普通のローファーなのだが大丈夫なのだろうか。
    「僕たちのお仕事は、二十四時間本番のようなものなのです。しかし、巡回は先程終えることとなりました」
    「なり……ました?」
    「はい。第五烏丸方面で死体が発見されたので、現場検証に向かうのです」
    「…………っ!」
     思いもよらない言葉に、知らず平太は息を呑んだ。
     ドクン……
     周囲の空気が突然緊張に包まれたような気分になる。息が、苦しい。勿論、それは平太の錯覚に過ぎないのだろうが、無意識のうちに汗を掻いた掌を握り込んでいた。
     この街では犠牲者が出ることなど珍しくない。眞撰組はその一つ一つの現場に足を運び、逐一隈なく検証しなければならない。それが日常だと言いたげな総次郎の口調はいかにも淡々としている。
     しかし、第五烏丸方面と言えば、春華の寮がある方角だ。
     まさかとは思ったが、絶対などと言う保証などないこの街において、万が一と言うことだってある。
    「お、俺も……」
    「来ない方がいいのです」
     つい口をついて出た言葉は、即座に跳ねのけられる。
    「…………」
    「素人にかき回されては困るのです。それに……被害者は初等科の女の子らしい、と発見した隊士から聞いたのです。見ても平気、ではないでしょ?」
     胸の奥に何かが積もり、軋んだ音が体内に響いた気がした。

    ***

    →続く