君はもう、とっくの昔に忘れてしまっているかもしれないけれどーー
道具を担いで波止場に向かう。
入れ違いに漁から戻って来たらしい男たちが、釣れた獲物の自慢話やら、最近の星海(うみ)の具合やらを声高にわいわいと語り合っていた。本人たちはあれでも普通に会話をしているつもりらしいが、何せ地声がでかいものだから、遠くからでも内容が筒抜けだ。
水槽や山と積まれた箱の行列の傍らを通り過ぎる。はみ出た何かの生物の脚らしきにゅるにゅるは、気持ちが悪いから見ないふりをした。
耳元には深夜ラジオのDJ、取り敢えず今夜の天気はいいらしい。
『穏やかな夜になるでしょう』
居並ぶ遠洋用漁獲船に紛れて、ちょこんと端に繋がれている自前の短艇(ボート)の出発準備をしていると、馴染みの老齢漁師が声をかけてくれた。
「やあ、今日も出るのかい?」
「うん……まあ、空振りだろうけど。潜るだけでも好きだから」
「また何か面白いものが見つかったら、譲っておくれ。言い値で買うよ」
「解った。あんまり期待しないで」
「気をつけて」
パイプをくわえたまま振られる手に応えて、エンジンをかける。
年期の入った頑固者は面倒くさそうに身体を震わせはしたものの、珍しく一度で走行体制に入ってくれた。今日が特別な日だなんて、知りはしないはずなのに。
ゆっくりと舵を切り、私は星海に滑り出した。
深い夜闇の青を照らすように、水面にも宙にも屑星たちがきらきらと瞬いている。その明かりが照らし出す航路も、始めの頃は一つも読めやしなかったな、と思い出して懐かしくなり、自然と笑みがこぼれた。
短艇を停めるのは、漁域の手前。
波はなく、地上の海とは違い潮に流される心配もない。予報通り、凪のような静かな星海だ。
いつも通りダイビングスーツを纏い、フルフェイスメットと酸素ボンベタンクを装備すると、私は外に出た。
風はない。
遮るもののない星海はどこまでも青く広がり、彼方まで続いている。位置を知らせる星たちの赤や青や緑、黄、さまざまな色の輝き。色と光の本流は、読み間違えると見失うと自分の居る場所が解らなくなる。立ち位置が、自分が何であるのか、解らなくなる。
境目などない。望洋とした、空の海。
それは生命が辿る道筋に似ている。
どこから来たのか、
どこへ向かうのか、
進む先に何があるのか、
否、そもそも進めているのかーー
確かなものなど一つもないのだ。
深度計の感度は良好。帰る場所を忘れないために、命綱であるワイヤーを繋ぐ。
地上の海にあるはずの潮騒はここにはない。トルトルトル、と僅かに聞こえるエンジン音だけが、この耳が痛くなるほどの静寂の世界を支配する。
それは、とても孤独だ。
己の小ささを無力さを見せつけられて、どうしようもなく堪らない気分になる。光の渦に飲まれて、そのまま掻き消されてしまうような。
だから、私はあまり星海が好きではない。
なのにそれでもこの仕事を選んだのは、呼吸することが罪のようなこの場所へ足を運ぶのは、たった一つ待ち続けているものがあるからだ。
『それでは、ラジオネーム待ち人さんからのリクエストです。曲は「fly me to the moon」』
緩やかな甘い歌声が流れ出すと同時、私は甲板を蹴って宙に身を踊らせた。
一瞬、ひやっと凍えるような冷たさが身体のど真ん中を貫いて加速、落下。けれど恐怖を感じる前に鈍い水音が衝撃が、私を包み沈み方は緩やかになる。ごぼごぼと代わりに浮上して行く水泡と、過ぎて行く星たちを眺めながら、ゆったりと落ちて行く。
潜るのは好きだ。
生から遠ざかって行く緩やかな自死のようで。
もっと深くに、もっと遠くに。
私が私でない場所に。
ラジオの電波はすぐにノイズ混じりになり、曲は掻き消されてしまった。
* * *
私の仕事は元々祈石(きせき)を採ることだ。
流れ星によって地上から運ばれる祈りは、こちら側に届くまでの間に長い時間をかけて、ゆっくりと結晶化する。星海の煌めきの中で、その独特な点滅を繰り返す粒を探し出すのは、思うより難解なことで、今では量がかなり減ったこともあり、狙って採ろうとする人は少ない。
特に自分で潜って、と言う割りに合わない作業効率を考えるとなおさらだろう。
それでも私は先代であった母に初めて連れられて潜った際、目にした祈石のいじらしいまでの儚さが忘れられなくて、今もこうして生業にしている。
暗く深い星の囀りも届かないような宙の底で、あるいは回りの目映さに呑まれてしまいそうな光の群れの中で。何かを想って誰かを想って、願い祈りこれ以上ないほど高い純度に磨き上げられた声は、世界に掻き消されそうでも、届かず力尽きそうでも、何より尊く愛おしい。
あれは私が駆け出しの頃であったから、随分前の話になる。
いつものように祈石を探していた私は、気づかない内に命綱であるワイヤーを失ってしまっていた。金具が傷んでいたのか、線自体が古びて切れたのかは、定かでない。
けれどこのどこまでも続く星海で、帰る手段を失うことは、勿論死を意味していた。
もう少し早く気づいていれば、とは思わなかった。短艇に乗っていても、前後左右を間違えれば、延々と彷徨うはめになるのが星海だ。潜ればさらに上下すら解らなくなる。広がるのは闇と点在する屑星のみーー生物の領域ではない。
静寂と踏み締める大地のない浮遊感は、瞬く間に精神を蝕む。酸素残量はそれほどなかった。
苦しむよりは意識を失くした方が懸命か、といつもポケットに忍ばせてあるカプセルに手を伸ばそうとしたところで、私は突然襟首を捕まれた仔猫のように、何かにぐい、と引っ張られたのを感じた。いや、そんな可愛らしいものではない。濁流に押し流される無力な木葉のように、抗い難い何かに引き寄せられ押し流されて、どこだか解らない方へと飛ばされて行く。
何度も錐揉みされたせいで、さらに方角も自分の位置も解らなくなり、激しく三半規管を揺さぶられたこともあって、私は意識を失ってしまった。
気がついたのは、随分経ってからのことだったように思う。断続的に鼓膜を打つ音が波だと理解して、思わず勢いよく起き上がった。星海に波はない。ここはどこだーー見渡す限り、目に痛いほどの青い景色が広がっている。
けれど海と空の境界ははっきりしていて、周囲には湾岸線らしい陸地も見えた。建物の形が見たこともない妙ちきりんな体をしているのを目にして、私は自分がどこにいるのかを理解した。
ここはーー地上だ。
取り敢えず呼吸出来ることに安堵して、フルフェイスメットを脱ぐ。ダイビングスーツは無防備を晒すのが躊躇われて、取り敢えずそのまま纏っておくことにした。
さて、私はたまに星海に発生する歪渦(わいか)に飲まれてしまったらしい。助かったのは運がよかった。とは言え、どうやって戻ればいいのか、を考えると途方に暮れる。今まで地上に落ちて、また宙へ戻って来たと言う人の話は聞いたことがない。
向こうの燃え尽きた星の残骸で出来た白い浜とは違う粒砂の感触に指を遊ばせていると、不意にこちらへ近づいて来る足音が聞こえた。
「よかった、気がついた」
辺りを照らし出すほど眩しい笑顔を浮かべてそう言ったのは、私とさほど歳が変わらないであろう少年だった。こちらのダイビングスーツらしきものを纏い、何やら呼吸用らしい管だけがついた大きめのゴーグルを額に乗っけている。
もっとも、私にはその言葉は全く理解出来なかった。異国の響きとも違うそれは、当たり前のように彼との意思疏通を阻む。
「具合悪いところはない? 怪我は?」
身振り手振りでそのようなことを問われているのだと理解して、こちらも大丈夫だと言う旨をどうにか伝える。その過程で彼もどうやら私が地上の人間ではないと気づいたらしく、透明な容器に入った水を差し出してくれながら(彼が飲み物だと言わなければ解らなかったろう)、やはり無邪気な顔で笑った。
「大丈夫。取り敢えずここにずっといる訳にもいかないだろうから、僕の家においでよ」
そんなことを言われてのこのこと着いて行くのは、浅はかでどうしようもなく愚かな行為だと思っていた。が、右も左も解らないこの現状において、差し出された手に縋る以外、私に取れる術はなかったのだ。
けれど、住処に招いてくれた彼は、想像以上に親切だった。温かな食事と寝床を提供してくれ、自分の思うより憔悴していた私を癒してくれた。何か見返りを要求されたり、命の危険があるのでは、と言う心配もするのが馬鹿馬鹿しくなるほどで、いくらも経たない内に私は警戒心を捨てた。
少年は波乗りだった。
言葉が通じなくとも、楽しそうにその素晴らしさを語る笑顔は私の胸をじわりと熱くした。彼は何より海が好きなのだ、と伝わって来て、何故だか私も酷く嬉しかった。
私は星海が嫌いなはずなのに。
絶え間なく寄せては返す波が、とても尊いものに思えて、その底に息づく生命がとても愛おしいものに思えて、いつしか私は少年に着いて海に出るようになった。共に潜る時間が、波に乗る彼の姿を見るのが好きだった。
いつの間にか、戻らなければと言う焦燥は消えた。
そうして、まるで夢から醒めて現実に引き戻されるように、終わりは唐突に訪れた。
短艇のみ残して消えた私を、みんなが方々探してくれていたのだ。潜水艇で地上に降りて来た彼らは皆、私の無事を泣いて喜んでくれた。
少年もいつも通り、笑って喜んでくれた。
「よかったね」
うん、と頷くには時間が経ち過ぎていたのだ。
彼との間に何があった訳でもなかったが、もう随分前から一緒に過ごして来た家族のように、これからもそうして行くのだろうと、いつからか思い込んでしまっていた。
そんなことが無理なのは、私が誰より解っているはずなのに。
「寂しい」
「やっと帰れるのに?」
「貴方と逢えなくなるのが」
「……僕も寂しいよ」
ようやく少しずつ言葉を覚えて、拙いながらも覚束ないながらも、こうしてやり取り出来るようになったのに。
遠くから急かすように名前を呼ばれる。
後ろ髪を引かれるように踵を返した私の背に、少年が叫んだ。
「手紙を書くよ!! 絶対また君に逢えますようにって!!」
いつもと同じ弾けるような笑顔。
「だからその時は、君の星海で一緒に泳ごう!」
「…………うん」
ずっと手を振って見送ってくれる少年が、どんどん遠ざかり小さくなって行く。その途方もない距離が悲しくて、私は一つ涙をこぼした。
* * *
戻ってから、地上とここでは時間の流れ方が違うことを知った。私が向こうでぐるりと季節を一周するほど過ごしていたはずの時間は、宙では一週間にも満たなかったのだ。
心配をかけた人たちからはこっぴどく叱られたし、嘆かれもしたものだったが、同時にこんなにもいろいろな人たちから支えられていたのだ、と言うことに気づくことも出来た貴重な体験ではあった。
それから、祈石採りはやめた方がいいんじゃないかと言う声も聞きながら、私は未だにこうして仕事を続けている。
少年からの手紙は、一度も届いたことはない。
私たちの何倍ものスピードで生きている彼らにとっては、ほんの少し共に過ごしただけの違う世界の人間のことなど、取るに足らない存在だったのだ、と誰もが口を揃えて言うけれど、私はそうは思わなかった。そうは思えなかった。
あの温もりは、笑顔は嘘ではなかったと感じたからだ。
けれどどうやって、少年がここまで手紙を寄越してくれると言うのか。理屈で考えれば、有り得ないことだ。あの邂逅はほんの偶然ーー奇跡は二度も起きたりしない。
なのに、私はその定かではないものを探して、今日も星海へ潜る。彼が来たいと言ってくれたこの闇を泳ぐ。
今日は全ての願いがこの星海に届く、年に一度の星誕祭だ。
特別な今日なら、彼の手紙も何かの手違いで届いているのではあるまいか。
祈りながら、願いながら。
色と光の奔流へ飛び込むように、あるいは絶望に沈んでいくように、私はいつも以上に時間をかけて、ワイヤーの長さと酸素量が続く限り、探し続けた。
もうそろそろ戻らねば、と言う頃合いになっても、それらしいものを見つけることは叶わず、私は諦めていつもより大漁の祈石を担いで、短艇に戻ろうとゆっくり浮上し始めた。
その時、視界の隅を屑星とも祈石とも違う光が過ったような気がして、思わず足を止める。
きらきらとした光を反射して輝くそれは、死んだ彗星岩の割れ目に引っ掛かっていた。酸素量はぎりぎりだったが、構うものかと宙を蹴る。
近づいて思わず目を丸くした。
それは、あの日少年がくれた、水が入っていたのと同じ透明な容器だったからだ。見た目よりも随分と薄く軽いそれを、星海で見るのは初めてだった。中には、何やら丸めた紙らしきものが押し込められている。途端に急くように高鳴った鼓動に背中を押されて、短艇へ戻った。
間違いない。
これが彼から届いた手紙だ。
何故かそう強い確信を持って、ダイビングスーツを脱ぐのももどかしく、私は容器の蓋を外した。逆さまにして中の紙を取り出し、濡らさないように注意しながら、広げてみる。
「遅くなってごめん」
記憶の奥底を擽るような、潮の匂い。
「ようやく君に逢いに行けます。星海とても楽しみです。僕はお爺さんになってしまったから、君はきっととても驚くだろうけれど」
そんなことはあまりにも些細だ。
私はぎゅっと手紙を抱き締めて、こちらに向かっているのだろう彼を想った。
「待ってたよ、ずっと……」
今日は全ての願いが叶う星誕祭。
遥か昔に交わしたただ一つの約束も、今ようやくーー
~了~