一週間分の降水量が纏めて降りました、などとあくまでも朗らかな口調で告げるお天気アナに恨みなどはなかったが、ぐっちゃぐちゃになっているのだろう通学路を思って、圭はうんざりとした溜息をこぼした。
いつもより早めの仕度を強いられることも、混雑する道なりも、濡れて泥だらけになる学校指定靴が白いことも、憂鬱の種にしかならない。
とは言え、嘆いたところで避けようはなく、どうにもしようはなく、ずしりと重い鞄を背負って家を飛び出す。
教室に着くと、人影は疎らだった。
圭の家は一時間ほど停電になった以外、大した被害はなかったが、さんざめく教室に耳を傾けてみると、通学路が危険な場所を含む子たちは自主休学したようだし、床上浸水だの何だのでそれどころじゃなかった子もいるらしい。
体育館にはまだ避難して来た人もいるから行かないように、などと担任のむっちゃん先生が注意しているのを上の空で聞きながら、こっそりとスマフォゲームを起動させた。
そんな事態ならおしなべて休みにするべきだ、と若干呆れる。どうせプリントを配って自習ってな具合になるのだ。真面目に来るだけ馬鹿らしい。日常と少しずれてしまった今日は、まともな『普通』の日ではないのだ。
不意に、ぽこん、と背中に何かぶつけられた。床に転げたのはちびた消しゴム。
斜め後ろの犯人をじろりと見遣ると、勇人がへらへらと笑みを投げて寄越した。保育園以来の長い付き合いであるこの幼馴染みは、回りがあれこれざわついているのをいいことに、圭を手招きする。
どうせ授業をする気はないのだ。お前ら静かにしろー、と思い出したように声を上げるものの、むっちゃん先生が教卓横のパイプ椅子に腰かけて、熱心に何かを読んでいるのを確認してから、圭はずい、と身を乗り出した。
「勇ちゃん、何」
「圭、お前これ見たか? やべえぞ、マジで」
頭が悪そうな答えを返しながら勇人が差し出したのは、彼のスマフォだ。表示された写真には、自身が撮ったものか、大量の土砂に飲まれて押し潰されている社が写っている。
おんぼろの木材と苔むした台座の石。注連縄も根刮ぎぶん殴られたように横倒しになっていたが、見間違えるはずもない。
「これって、裏山の」
「そー、神様の。昨日崩れたんだぜ」
彼らが子供の頃から遊んでいる山にぽつん、と置かれていた代物だ。神社、と言うにはあまりにも貧相で、人の手が入らなくなってから随分経っていそうな古びたものだった。
それでも近所の人間は、それなりに困った時の何とやらで、思い出したように足を運んで手を合わせたりもしていたものだ。実際圭も勇人も、受験生の時に合格祈願をした。
「っつーか、よく入れたな。こう言うのって、セカンドインパクト来るから、すぐ規制されるもんじゃねえの?」
「まあ、実際まだ地鳴りっぽい音してたから、第二派来てたら洒落にならんわな」
「馬鹿だな……一緒に埋まりてえのかよ」
自分の畑や田圃が心配で、と見に行く老人たちの気持ちなら解らないこともないが、勇人はどうせ『いいね』稼ぎのためにあの豪雨の中出ていたのだろうから、圭としては高校生にもなって、と冷めた気持ちにならざるを得ない。
命懸けでやるほどのことではなかろうに、と思ってしまうのだ。
「で、で、な。これだけじゃねえのよ」
勇人の武骨な指が画面をタップすると、別の写真が画面に展開される。が、
「…………何だ、これ。石?」
「石……かな? 石っぽいよな?」
まるで社の中から転げ出て来たかのような体で、手前にサッカーボール大の塊が落ちている。
しかしそれが奇妙なのは、まるでゲーム画面のバグがそのままびきき、と隆起したかのような不可思議な虹色で、すぐに剥離しそうな結晶板が幾重にも重ねられたような形状をしているところだ。
もっと大きければ一見迷路かダンジョンのようで、微妙にワクワクする心を擽られる。
「で、こいつさ。御神体? か土砂で山から流れて来たのか、ともかく持って帰ったんだよ。放課後見に来ねえ?」
「マジでか……大事なものとかだったら、めっちゃ怒られるじゃねえか。っつーか、罰当たるぞ」
「でもさー、あの神様のやつだぜ? そんな重要なものならもうちょいちゃんとしたとこに置くだろ。山ん中には、他に何もねえしさ」
「…………それもそうか」
「で、どうする?」
「行く。下手くそな写メじゃなくて、実物ちゃんと見たい」
「よーし、じゃあ決まりな」
その後、速報ニュース番組のせいでドラマが中止になったことへの愚痴やら何やらに移行した話を、半分だけ耳を傾けながら、画面をタップして敵を撃破して行く。
そう言えば、この前観た映画に登場した怪獣の卵も、あんな風に歪で変な形をしていたな、とちらりとだけそんな思いが圭の頭をよぎった。
* * *
「全然別に大したことない。ただのビスマス鉱石だから」
放課後、何やかんやで久し振りに訪れた勇人の家で、そう言ってぼっきりとワクワク感をへし折ってくれたのは、彼の兄である晃だった。
普段は関西方面の大学に通っているおかげで、滅多に会うこともなくなっていたのだが、子供の頃はいろいろ遊んで貰うことも多かったものである。特にオカルト方面の知識が滅茶苦茶豊富で、今でもそれが高じて民俗学だか地質学だかを専攻していたはずだ。
「ちょ……待ってよ、兄貴」
声を上げたのは無論、この謎の物体発見者本人である勇人だった。
某鑑定番組やらネットに上げる前に、曲がりなりにも専門知識を持つ晃に相談したのはよかったが、よもや鼻先で笑われる予定はなかったらしく、圭を呼んだ手前かなり焦っているらしい。
注目を集めることに俄然労力を傾けている身としては、それなりの危険をおかして持ち帰ったものが、大した価値がないと言われてしまっては、反論の一つも投げたくなると言うものだろう。
「そのビス……何とかって、珍しくねえの!?」
「珍しくない、とまでは行かないけど、ほら、昔はこの辺り鉱山だったって言うだろ? こう言うのが出土してもおかしくないし、これ二二〇度ちょっとで溶けるんだよ。そしたら、表面がこんな風に虹色っつーか、極彩色のグラデーションになる」
「へえ……何かデジタルっぽくてこのまま増殖しそうだから、てっきり人工物かと思った」
「家でも作れるぞ。材料費がくっそ高いけど」
「マジでか……何だよ、全然ミステリーでも神秘でもなかったのな」
得てして、初めて目にしたものを大発見なのでは!? などと逸った結果にありがちな顛末だった。
がっかりはしたものの、さすがにそれくらいで勇人を責めるような真似はしない。
「せめて隕石くらいだったら面白かったのにな。まあでも、恥晒す前でよかったじゃん」
「よくねーわ……くそ、せっかくのネタが」
ぶーぶー愚痴を溢す勇人を宥めながら、圭は近所の駄菓子屋でアイスの一つでも奢ってやるか、と財布にいくら入っていたか算段をした。
わやわやと下らない会話をしているこちらを一瞥してから、元々出かけるところを無理矢理捕まえられたらしい晃は、支度を再開しつつ口を開く。
「取り敢えず、それ元のところに捨てて来いよ」
「え、何で?」
「馬っ鹿、お前石なんか拾って来るもんじゃないよ。いろんなものが憑きやすいって言うだろ。今回は山から出たやつかもしれんが、とにかく得体の知れんものは手元に残すな」
「……はーい」
渋々ながらも勇人が返事したのに納得したのか、晃は絶対だぞ、と念を押してから出て行った。
「ったく、兄貴って変なとこ信心深いからな……それより久々カラオケ行こうず。俺、今ハマってるバンドがあってさ……って、圭どした?」
じっ、と鉱石を眺めたままの圭に、訝しそうな顔で勇人が問う。
「早く行こうぜ」
「……うん、そうだな」
「何だよ」
「いや……何かあの石、光った気がしたから。ぼうって……悪い、気のせいだ」
「いや、いやいやいや! 怖がらせようとしたって駄目だぜ!? 俺そんなの信じてねえし!」
「晃さんがただの石だっつってたし、大丈夫だよ。もし何かあっても、犠牲になるのは勇人だけだ」
「ちょっ、助ける気ゼロかよ!」
そんな風に、じゃれ合いながらふざけ合いながら外に出る。陽が沈んでも遅くまで熱唱して、家に帰る頃には、日常に小さく突き刺さった違和感など、はるか記憶の彼方に投げ捨てられていた。
* * *
圭に『ヤバい』というメッセージが勇人から届いたのは、翌日のことだった。
『何かでかくなってる気がするんだけど』
一緒に添付されていたビスマス鉱石は、パッと見では比較するものがないせいで、その言葉が確かかどうかは解らない。「気がする」と言うことは目に見えて巨大化した、と言うほどではないのだろう。
けれどそんなことよりも。
昨日は遅くに帰ったせいで、石を捨てに行く時間が取れなかったに違いない。
仮に、元の場所が更なる土砂崩れを警戒して規制線が張られていたとしても、どこかしらに置いて来る時間を作ってやらなかったのは、こちらにも幾ばくかの責任があると言えた。
『気のせいじゃね? やっぱビビってんじゃん』などと揶揄う気持ちは、何故か起こらなかった。
晃はただのビスマス鉱石だ、と断言しながらも捨てて来いよ、と念押しした。
確かにあれはただの石で、珍しくはあっても稀少と言うほどではなくて、隕石でもオカルトちっくな謂れもない、きれいなだけの石のはずだ。
土砂崩れでたまたまどこかから出土した、ただの鉱石。
ーー本当に?
圭はあれから少し調べてみたのだ。
家でも作れる、と晃が言ったそれは、確かに漁ればわんさか画像が出て来た。そのどれもがアクセサリーに加工していたり、インテリアとして飾られていたり、大きくても拳大のものが殆んどだった。あんなーーサッカーボールのような大きさのものは他に見つけられなかったのだ。
ましてや、見た目に反して意外と脆くて壊れやすい、と言うそれが、あんなに箱に近い形(バグったように歪ではあるものの)で出来ているものなどなかった。
『あの後光ったりとかは?』
ーーもし、
もし、あれがビスマス鉱石に似た異なるものだとしたら。
『寝てたから解らん。っつーか、そう言うのマジでヤメロ』
『取り敢えず、今日は部活サボってでもそれ捨てて来いよ。見つけた場所と言わず、出来るだけ遠くに』
『だなー。何か気味悪くなって来た』
けれど、もう手遅れだったと気づいたのは、さらに後になってからのことである。
* * *
その次の日、勇人から特に連絡はなかった。
代わりに『あれからどうよ?』と言うメッセージにも既読すらつかず、彼自身は学校を休んでいるのが気にかかり、圭は昼前に学校を抜け出して家を訪れた。
昼の住宅地はしん、と静まり返っていて人気がない。この辺りは老夫婦が多いため、余計に出入りが少ないのだろう。あまり彷徨いていると、何事かと見咎められるだろうか?
ガレージに車はない。両親は共働きだったはずだから、どちらかが乗って行ったのだろうか?
何故か分厚いカーテンが引かれているのが不思議だったが、玄関のチャイムを押す。しばらく待ってみたが、応答はなかった。
ーー誰も、いない?
晃はもう関西に戻ってしまったのだろうか?
それにしたって、勇人はいるだろうに。
どくん、と嫌な予感が鼓動と共に体内に響いて、じわじわと広がって行く。やはり、何かあったのか。確証もないのに動いてくれるかどうかは甚だ疑問ではあったが、お巡りさんの一人や二人は連れて来るべきだったかもしれない。
そう思いながら、再度チャイムを押そうとした時、不意に背後で車のエンジン音が聞こえた。振り向けば、見覚えのある白のファミリーワゴン。勇人の家の車だ。
運転席から下りて来たのは、晃だった。
「圭? こんなとこで何して……」
「いや、勇人の様子が変だったから、ちょっと様子を見に……」
瞬間、凄まじい悲鳴が響き渡った。勇人だ。
「くそ……やっぱり駄目だったか!!」
そう叫ぶなり、慌てて扉の鍵を開けて家の中へ入って行く晃に続き、靴を脱ぎ捨てる。声は二階ーー勇人の部屋からだろう。
「やっぱり駄目って!?」
「昨日、お前に言われたからって勇人の奴、このくらいの時間に、自転車であの現場まで石を捨てに行ったんだ」
階段を駆け上がり、廊下を折れる。手前が勇人の部屋だ。扉は既に開けられていた。
「勇人、無事か!?」
閉め切られた薄暗い六畳の室内は、まるで局地的地震でも起こったのか、と言わんばかりに滅茶苦茶に荒れていた。本棚は倒れて中の漫画が床にぶち撒けられ、ベッドは引っくり返って真っ二つにへし折られている。
当の本人は入口側の隅っこで、毛布にくるまり情けないくらいガタガタと震えていた。
「ごめんなさいごめんなさいご……すみません許してください……めん……」
「な、ん……」
部屋の中央に転がるのはビスマス鉱石。
昨日、捨てに行ったと言うそれが、どうしてまだここに我が物顔でふんぞり返っているのか。そして、勇人の言う通り昨日見たよりも随分大きくなっている。
「そいつは」
自室から持って来たのだろう金属バットを手に、緊張で込み上げる唾を飲み込みながら晃が言った。
「さっき俺が車で、隣町のゴミ処理施設に持って行った。きっちり縛った袋に入れて、産廃として扱ってくれって、受取書もここにある」
「……そんな、」
「昨日の夕方だって、こいつがまだ捨ててないと思って怒ったんだよ。そしたら」
「違う! ちゃんと捨てたんだ!! 社はもう撤去されてたから、土砂のところに、バレないように埋めるみたいにして!! でも、家に帰ったら俺の机の上にこれがあったんだよ!! 土塗れで、まるで這い出て来たみたいにして!!」
それはーーどう言うことだ。
このビスマス鉱石が、自分で戻って来ていると言うことか。捨てたはずの場所から、彼らとほぼ同時に? ましてや、今回は他人の手を介しているのだから、錯覚や思い込みと言うこともなさそうだ。
ゾッと全身が総毛立つ。
その圭の視線の先で、一抱えはありそうなそれが再びぼうっと光を帯びた。まるでその内側に何かを抱え込んででもいるように、漏れる緩やかなオレンジ色は決して鮮烈ではない。石炭や炭が発熱する時のように、呼吸しているかのように点滅しながら表面の美しい極彩色を照らし出す。
視界の端で、晃がぎゅっとバットのグリップを握り締めたのを捉えた。
「晃さん……どうすんの?」
「兄貴……ヤバいって、待って」
「取り敢えず粉々にぶち割る。何だとしても、壊す以外の選択肢はもうないよ」
振りかぶった先端が、ひゅんっ、と空気を切り裂いて振り下ろされる。寸分違わず鉱石の真芯を捉えた一撃は、伊達に高校まで野球をやっていた訳ではないらしい。
散々壊れやすい、脆い、と評されていた鉱石に、その衝撃は余すところなく伝わったようで、表面の破片を撒き散らしながら大きな罅が入る。
さすがに一撃で粉砕、とは行かなかったものの、まるで息の根を止められたかのように光は収まった。
「もう一丁」
けれど、再度振りかぶられたバットがビスマス鉱石を穿つことはなかった。
ぴしぱし、と耳障りな音を立てながら、亀裂はゆっくりと広がって行く。コツコツ、カッ、カッ、と内側から響いて来る微かな音。それはさながら、孵化した雛が殻を破って外へ出ようとしているような。
三人の目の前で鉱石は完全に割れ、そしてーーゆっくりと伸び上がるように顔を出したそれは、嬉しそうににたりと嗤った。
以上、完。