「兄さん、やっぱりやめようよ……今日じゃなくてもいいでしょう? お願い、今度にして」
     ベッドの縁に座ったまま、そわそわもぞもぞと落ち着かない僕の傍らで、一番上の兄は慣れた手つきで準備を進めて行く。
    「大丈夫。すぐに終わるさ」
    「だって心の準備が……」
    「そう言ってこの間も逃げただろう? 二度目はないよ」
     嗜めるように大きな掌が僕の赤毛を撫でた。その長い指に癖っ毛を鋤かれると、僕は何も言えなくなってしまう。
     十歳の離れたこの兄は、もう兄と言うよりも滅多に帰らない父の代わりのような存在で、母も姉も頼りにしているのが頷けるしっかり者だ。二番目の兄も三番目の兄も、こうして長兄の手で大人にして貰ったのだと思えば、自分だけ我慢出来ないのは情けなくて悔しかった。
     そんな想いと、同じだけ込み上げる恐怖とを飲み込もうと、ぎゅっと口唇を噛み締めている内に、兄の指先は僕の耳朶をつ、となぞって、一際肉の薄い箇所を探しているようである。
     僕たちの種族は十五で成人の儀を行う。
     その一貫として、瞳と同じ色の石を耳飾りとして着けることが義務になっているのだが、その穴を開けるのは身内の年長者にやってもらう習わしになっていた。先日めでたく十五を迎えた僕も、みんなと同じように大人として認められるために、この道を通らなければならない訳だがーー
     氷嚢で赤くなるほど冷やされた耳朶は、辛うじて触れられていると感じられる程度に、じんじんと麻痺してしまっている。
     ここにしよう、と言う位置が決まったのか、兄は一点を親指で押さえたまま僕の隣に腰を下ろした。
    「兄さん……」
    「ほら、ご覧。お前の瞳と同じ綺麗な翡翠だ。母さんが綺麗に仕上げてくれた」
     兄の掌の上で、大人しく横たわっているのは先日たくさんの石の中から一緒に選んだものだ。今は銀色の台座にきちんと収まって、伝統的な耳飾りの体を成している。
     そうだ、これを着けると言うことは、一人前の証。
     少しでも兄に近づくための第一歩なのだ。まずはそれを踏み出さなければ、何も始まらない。何も変えられない。あの時もう泣かないと誓ったじゃないか。
     ぐっと口唇を引き結んで兄を見上げると、小さく頷くような視線が返って来た。
    「怖かったら目を瞑っておいで」
     脱脂綿に浸した酒で消毒され、ランプの火で炙った小さな針が僕の耳朶に宛がわれる。流石にその気配を意識的に追うまでは躊躇われて、僕は視線を外した。
     怖い。
     痛い。
     怖い。
     膝の上でぎゅっと両拳を握る。
     つぷ、と金属が己の肌を食い破る瞬間、思わず総毛立って飛び上がりそうな身体を必死に押し留めた。上手く刺してくれたのか、まだ冷たさで麻痺していたからか、思ったほどの衝撃はない。ただ内側を蹂躙される違和感だけはどうしようもなくて、食い縛った歯の隙間から悲鳴のような呼吸がこぼれた。
     一度針が抜かれ、今度は違う金属に再度穴を穿たれる。ああ、そうか。僕の耳飾りが着いたのだ。
     もうやめて、と懇願しそうになる声を何とか殺していると、
    「終わったよ」
     兄の優しい声が鼓膜を打って、いつの間にかしっかと閉じていた双眸を僕は開いた。
    「よく頑張ったね」
     手渡された鏡を覗けば、両の耳朶にしっかりと食い込んだ翡翠の飾りが鮮やかにその存在を主張している。
     ああ、これで僕もようやく一人前なのだ。
     自分の血に染まった脱脂綿を見て、ちょっとゾッとしないこともないけれど、ぴりぴりと走る僅かな痛みは、ほんの少しだけ僕の背中を押してくれた。
    「兄さん」
    「偉かったぞ。さすが男の子だ。あと、もうしばらくしたらこの薬を飲むのを忘れないようにな。痛み止と化膿止だ」
    「兄さんってば」
     語気を強めてそう繰り返すと、兄は驚いたようにほんの少し目を丸くして、改めて僕の隣に座り直す。
    「何だい?」
    「僕も自警団に入る」
     そう告げたことはあまりにも想定の範囲外だったのか、兄は暫し思案するように僕の顔をじっと見つめた。
     確かに僕は争い事が嫌いだ。ケンカも弱いし、何より自分の意思を口にするのも苦手だし、体格だって恵まれている訳じゃない。父も兄たちも揃って勇名を馳せているからと、義務感や何やらで申し出た訳でもない。それより、そんなことより。
     僕にだって、守りたいものくらいある。
     本当は怖い。死んでしまうかもしれない危険に自ら飛び込むのは、耳飾りの穴を開ける百倍は怖い。痛いのは嫌だ。苦しいのも嫌だ。
     でもそれよりも、何もせずに大切なものを失うことの方が、何倍も怖いことを知ってしまったから。
     僕の顔に兄が何を見て取ったかは解らない。
     けれど「そうか」と一つ頷いて、大きな掌がまた僕の赤毛を撫でた。
    「みんなにも話をしておくよ。ともかく、今日はおやすみ」
    「うん」
     一人になって、じっと自分の小さな掌を見下ろす。まだまだ兄の手には程遠い、何が守れるのかも定かでない、掌。
     けれど、いつか。
     いつの日にかは。
     そう決意して、ベッドに入った翌日。僕は熱を出して寝込んだ。三番目の兄が揶揄しに来て、姉が優しく介抱してくれた。
     まだまだそう簡単に一人前を名乗れるほど、大人になるのは容易い道のりではないらしい。


    以上、完。